千の桜貝
「はい、到着」
浜辺の入り口に、一人の女性が立っていた。
その隣には、幼い少女。
少女は、前かがみになり、わずかに息を切らしていた。
「頑張ったね」
女性は少女の肩にそっと手を乗せた。
「体、つらい?」
「だいじょうぶ」
少女は下を見つめ、息を整えながら、答えた。
「あ」
少女が何かを拾い上げた。
「お母さん見て!きれい!」
片方の手のひらを、そっと母に向けた。
そこには、薄いピンク色をした、小さな貝殻。
「ほんとだ!綺麗だね」
母が娘の目線に合わせるようにしゃがみ込んだ。
「ね、これ何ていうか知ってる?」
「わかんない」
「桜貝っていうんだよ。お花の桜みたいでしょ?」
「ほんとだ……」
娘は手のひらの上の桜貝を指で撫でた。
「まいちゃん」
母が小さく娘の名を呼んだ。
「この貝はね、いっぱい集めるといいことがあるの」
「いいこと?」
「……神様がね、お願いを聞いてくれるの」
「ほんとに!?」
「うん。でもね、一日に一つしか拾っちゃいけないの。そうしないと神様が『ズルした』って、お願いを聞いてくれないんだよ」
「えぇっ、じゃあ、どのくらい集めればいいの?」
まいの問いかけに、母は「うーん」と空を見た。
「……千個、かな?」
「千個!?大変そう……」
そう答えたまいの手に、母はそっと自分の手を重ねた。
「そうだね。でも、お願いごとを叶えるのってそのぐらい大変なんだよ」
「そっか」
まいが小さく呟いた。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか。行けそう?」
母が、まいの肩に軽く手を置いた。
「うん!」
翌日から、二人は毎日のように砂浜に来た。
数日浜辺に来なかった日のあと、まいが「一日二回きたら二個拾ってもいい?」と母に尋ねることもあった。
その問いに「それは、駄目かなぁ。一日一個まで、だね」と母が優しく答えた。
季節が巡っても、二人は変わらず浜辺に来て、桜貝を一つ拾って帰っていった。
ある日。
まいが一人で浜辺にやってくる。
母の姿はない。
いつものような笑顔もない。
ただ、いつものように桜貝を拾って、しばらく一人で海をながめて帰っていった。
翌日は、母も隣を歩いていた。
いつものように話しながら、いつものように貝を拾い、帰っていった。
次の日も二人。
しばらくして、一人。
また二人。
そして、一人——
やがて、少しずつ一人の日が増えていった。
数日あけて、母と二人。
「大丈夫?」
まいが母の手を取りながら「ここ、座る?」と声をかける。
「うん、ありがとね」
母がそっと、まいの髪に触れる。
「休んでてね」
まいはそう言うと、桜貝を探しに行く。
母は、その姿を目を細めてながめていた。
そして、また一人の日が続いた。
その日は雨だった。
カッパを着たまいが、浜辺に一人。
いつものように、しゃがんで桜貝を拾う。
そして、しゃがんだまま、じっとしていた。
雨の中、動かずに、ただ下を見つめていた。
その後も、まいは浜辺にやって来た。
一人で、桜貝を拾いに。
また一つ季節が変わる頃、桜貝を手に取ったまいが「あと、ひとつ」と小さく呟いた。
翌日も、まいは浜辺を訪れた。
桜貝を拾おうとして、止める。
一度、二度、拾おうとする。
その度に、手を止める。
そんな日が、続いた。
ある日。
まいが、浜辺で瓶を抱えて立っていた。
中にはたくさんの桜貝。
その瓶を砂の上に置くと、そのまま浜辺を後にした。
少しして、息を切らしたまいが戻ってきた。
そして、倒れるように瓶の前に座り込んだ。
両手で瓶を抱え込むと、そのまま、しばらく海を眺めていた。
まいは、一度置き去りにした瓶を持ちあげると、そのまま砂浜から立ち去って行った。
その日から、まいが浜辺に来ることはなかった。
それから、幾つもの季節が巡った頃。
浜辺で一人の女性が海をながめていた。
その隣には、幼い少女。
女性が何かをそっと拾い上げる。
「時間、かかっちゃった」
手のひらを見つめながら、小さく呟いた。
隣にいた少女が、不思議そうにながめている。
「それ、なぁに?」
「これはね——」
風が、二人の髪をそっと撫でた。
おわり




