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喪失 2103

 大都市の闇夜に、低い爆音が響いた。


 屋敷がびりびりと音を立てて揺れる。防弾仕様になっていたはずの窓ガラスが、粉々になって冬の冷たい地面に落ちた。


 街の叫喚が、分厚い金属の層を越えて伝わってくる。ステファナ・フィーガードは、地下深くのシェルターでうずくまっていた。ボタンをひと押しすれば、殺風景なコンクリート壁は消え、彼女が望むどのような立体映像をも見ることができる。しかし、いまはそんな気分ではなかった。


 もう何年も住み続けてきた町並みが、いとも簡単に滅ぼされてしまった。大切な人とともに……




 夢を見ていた。平和な時代の夢。


「ナヴィード、おはよう」


「やあ、ステファナ」


「今日はね、お弁当を作ってきたんだ。講義が終わったら、一緒に食べよう」


「奇遇だね、僕も作ってきたんだ」


 キャンパスの木陰、小さな木製のベンチに二人並んで弁当を食べた。


「これは? 」


 ナヴィードが手料理を紙袋から取り出して、恐る恐るといったふうに尋ねた。


「それはね、パンに蜂蜜と、ピスタチオと、バターと、ぶどうジャムと、ひよこ豆のペースト、それからヨーグルトをたっぷり塗ったサンドウィッチ。そっちは? 」


「サラダと、サラダと、パンをひと切れ、それにまたサラダ」


 ステファナが、サンドウィッチを口に押し込む。乗せすぎた具は案の定、ぽたぽたと地上へ落ちた。いっぽうのナヴィードは、野菜をはさんだパンを、一切れたりとも零さずに飲み込んだ。


「真反対じゃん、私たち」


「هو، خو زه تا د همدې توپير له امله خوښ يم」


 ふだんは、都会で主流とされるタジク語を話すナヴィード。その彼が、地方言語と目されがちな、ステファナの母語で返事をした。


「私も、このでこぼこな関係は嫌いじゃないよ。けど、パシュトゥー語じゃん、どうしたの」


「いや、少しは君の言葉を話せるようになりたいと思って、勉強していたんだ。いつも僕に合わせてタジク語をしゃべってもらっていてばかりじゃ申し訳がないから」


「په ټول اخلاص سره خوشاله يم، مننه کوم」


 ステファナの早口なパシュトゥー語に、ナヴィードは目を白黒させた。


「ええっと……ごめん、何て言った?」


「ひみつ、いつか分かるようになってね」



 

 カブール大学で出会ったふたりは、まるでそう定められていたかのように、自然に浅からぬ仲となった。かたや中央の富豪の四男、かたや地方の豪農の一人娘。ナヴィードの両親はリベラルな人種で、前科と危険思想さえなければ嫁は誰でも良いと思っていたし、すでに遠縁の若者に畑を譲渡することを決めていたステファナの両親にとってはそれ以上を望むべくもない良い条件の話であった。縁談はとんとん拍子にまとまり、ふたりは夫婦となった。


 ふたりが生まれる二十年ほど以前から続く高度経済成長の波に乗って、ステファナがベンチャーを創業したときも、ナヴィードは企業の副社長として彼女を補佐した。


 ふたりの名から「ステファナ&ナヴィード」と名付けられたベンチャーは、彼らの努力の甲斐もあり、わずかに十年ほどで従業員数が万を数える大企業に成長した。


「ああ、疲れた」


 寝台へ倒れ込んだステファナに、ナヴィードがプラスティックの容器を差し出した。


「お疲れさん、アイス食べる?」


「やめとく、今は真冬だし、夜遅くに甘いものを食べるのは美容にも悪いし」


「そっか、じゃあ二つ食べようかな」


「止めときなよ、明日の会議でお腹を下されたらたまらないし」


「それもそうだね。雪山の悪夢がよみがえる」


「ほんと、立ち往生した車の中で下痢を起こされたときの絶望感といったら!  大学時代からそうなんだから、歳を取った今はもう、やめておいてね」


「それはそうとステファナも、蜂蜜を主食にするのはやめておきなよ」


「ピスタチオとヨーグルトも食べてるし」


「ほら、今からパラウ作るから。お米研いで」


「もう日付け変わるよ⁉︎」


「いいから、はやくはやく。プロポーズのときからずっと言っていることだけど、君と作るパラウがいちばん美味いんだって」


「のろけ?」


「大真面目だよ」


 深夜に一時間かけて作った炊き込みご飯は、この数年で食べたどんな料理よりも美味かった。がむしゃらに育ててきた事業はもう十分に大きくなった。これからは、平穏で豊かな、長い長い人生が続いていくのだろう。ときたまナヴィードが言うように、事業を世界に展開してみるのもよいかもしれない。腹も心も満ち足りた気分で、ステファナは寝台に横たわった。食器を片付けるナヴィードに、横になるよう促す。


「平和だね」


「明朝五時には家を出なきゃいけないことを除けば」


「ははっ、覚悟の上だよ。けど、ゆっくりこうするのっていつ以来だろうね」


「確かに、さいきん忙しかったからね」


 口づけを交わしたふたりは、深々と抱き合った。



 

 その数日後。インドが、長年の宿敵パキスタンに奇襲を仕掛けた。過去十数年は小康状態にあった南アジアは、突如として混沌に叩き落された。


 カラチやイスラマバード、ラホールといったパキスタンの大都市だけでなく、大小ほとんどの軍事基地までもが核ミサイルによって蒸発した。領土の大半を数日中に占領されたパキスタンはアフガニスタンのカブールに亡命政権を樹立、アフガン政府をはじめ友好諸国に救援を要請した。


 多額の経済援助の恩を返すため、アフガニスタンはこの戦争に参戦した。同じくパキスタンに援護を要請された中国は国内の動乱や北方情勢を理由に参戦を拒否し、カシミール地方の防備を固めて静観を決め込んだ。


 アフガン軍にイスラーム諸国家からの義勇兵を加えた有志軍は、国境を破ってパキスタンに入り、数日は快進撃をしたが、すぐに反撃に出たインド軍に壊滅された。もはや、アフガニスタンの首都カブールを守る兵はもはやないに等しかった。




 ほんの数百メートル先で、激しい光が閃いた。国会議事堂だ。ステファナとナヴィードは、本社ビルから社員たちを逃がそうとしていた。


「こっちは、もう誰もいない」


「こっちも」


「よし、降りるぞ」


 上層階のフロアにもう誰も残っていないことを確かめて、階段を駆け下りる。


「はやく、こちらへ」


「ばか、早く逃げろといったじゃん」


 自動車の扉を開けて地上で待っていたのは、幾人かの部下たち。逃げろと言われても、逃げずに残った忠実な配下たちだ。


「我々だけ逃げるわけにはいきませんよ。ほら、はやく……!」


 ぱん、がりん、どん。爆音が腹に響く。ステファナ&ナヴィードの本社ビルが、インド軍の空爆を受けた。ミサイルがビルの脇腹を直撃した瞬間、二階層分が吹き飛ぶ。五十階建ての上半分がななめに折れ曲がり、ほんの一瞬静止する。そして、粉塵とともにいともあっけなく崩れ去った。


「ステファナ!」


 ナヴィードがステファナを、力いっぱい押し飛ばす。そして、彼はそのまま、がれきの下敷きになってしまった。巨大な重量が、ステファナの目の前に降り注ぐ。彼女はただ、それを呆然と見ていることしかできなかった。


「ナヴィード、ナヴィード!」


 もはや見る影もなくなった栄光の証は、ところどころに炎をくすぶらせていた。夜の闇に、ぱちぱちと光が揺らめく。


「ナヴィード! 待っていて、すぐ助けるから」


 手の平がガラス片で切れて血に塗れるのにも構わず、ステファナは必死でナヴィードを探し求めた。呻き声がだんだんと近づいてくる。コンクリート片を押しのけると、見慣れた焦げ茶色の頭があらわれた。


「ステ……ファナ……」


「ナヴィード!」


 彼の胸の上に横たわった鉄骨をどかそうとするステファナを、ナヴィードは微かに首を振って制止した。。


「له تاسو مننه、ステファナ。ごめんな。……みんなをよろしくな」


 それだけ言うと、ナヴィードは咳き込み、血を吐いた。


「どうして、どうして……」


 ステファナがいくら問いかけても、ナヴィードからの返事はなかった。ずっしりと重たい彼の身体に残っていた熱量を、冬の空気が急速に奪っていった。


 中心街に林立する高層ビルが、爆撃を受けて次々に崩れ落ちる。轟音が収まると、四方八方から発せられる、死を前にした人々の苦しげな声。それを掻き消す喊びが、破壊されつくした街にこだました。




 屋敷の地下二十メートルに設けられた豪奢な核シェルター内で、ステファナは打ち震えていた。パニックを起こして倒した瓶から漏れ出た蜂蜜が、数分かけてようやく机のふちから零れ落ち、彼女の頭髪を汚した。




「ナヴィード、ナヴィード!」


 冷たくなった夫を抱えて泣きわめくステファナを、部下たちは立ち上がらせた。


「いけません、あなたがいまここに留まっていては。あなたが死んでしまえば、何千何万という人間が路頭に迷うのですよ。あなたは、これからのこの国に必要な人間です。どうか、生き延びて下さい」


 ステファナは、その主張をわからないほど愚昧ではない。部下に手伝わせ、ナヴィードの遺体を持ち上げた彼女は、ふらふらと自動車に乗り込んだ。



 部屋でひとりになった彼女は、やり場のない怒りに拳を握りしめた。


「あ゛あ゛あ゛っ!」


 人払いをして、部屋じゅうのものというものにあたる。花瓶を殴りつけ、椅子を蹴倒し、書類棚をひっくり返した。部屋じゅうのものが何もかも原形を留めなくなったところで、ステファナは机の下にしゃがみこんだ。行き場のない怒りや悲しみや、それに罪悪感が押し寄せては、彼女を殴りつけて去っていった。




 翌朝。焦土と化したカブールの街並みを、空爆を生き延びた人々は疲れ切った面持ちで目にした。


 ヒンドゥークシの山並みを越えてやってきた戦車隊は、もはや抵抗の手立てを持たない街を瞬く間に占領した。


 パキスタン亡命政権やアフガニスタン政府の中核は射殺され、占領軍におもねった傀儡政権が樹立された。これをもって、第一次インド西方拡大戦争は終結した。




 ナヴィードの葬儀には、戦争終結後の混乱にもかかわらず、数百人が参列した。弔問客に話しかけられても、ステファナはまともに返事ができなかった。


「どうして、どうして私だけが生き残ってしまったんだ。ナヴィードの命を犠牲にして……死ぬべきだったのは、私じゃないか。そもそも私に、これから社長をやっていくことはできるのか。その資格は、私にはもうないんじゃないか……」


 控室でひとり、ステファナは頭を抱えていた。勢いよく、扉の開く音がする。


「ステファナ社長は、こちらでしょうか」


 妙に鼻につくキングス・イングリッシュ。三十半ばほどの男が、ステファナのすぐ隣に座った。


「はじめまして。このたびは、まことに痛み入ります。僕は、デヴェーンドラ、と申します。エージェント、とでも名乗りましょうか」


「……侵略者と話す気はありません」


 ただただ、ステファナは何もかもを鬱陶しく感じていた。もう、何もしたくない。すべて投げ出してしまいたかった。


「わかりますよ、辛いでしょうね。もう、何もかも投げ出してしまいたい。ステファナ社長、あなたはそう思っていらっしゃいますね」


「……」


「僕も、その気持ちはよく分かります。もう嫌だ、だれかにこの責任を肩代わりしてもらいたい、とね」


「何が言いたいのでしょう」


「どうでしょう、僕に任せてみませんか。あなたの会社と、あなたを苦しめるその責任とを」


 相手が誰かなど、どうでもよかった。この苦しみが、少しでも軽くなるのならば。


 ステファナは、逃げた。逃げてしまった。




 アフガニスタン共和国政府は、インド連邦に対し無条件降伏を宣言。「ダルラマンの和約」と通称される条約をもって、同国は三権および軍部統帥権を含むすべての権限をインド連邦に委譲した。その三時間後、ニューデリー政府は「西方準州」を設置。新規に獲得した広範な領土を国家体制に組み込むとともに、当該地域の天然資源を国家エネルギー省の管轄下に置いた。


 当面のあいだインド連邦を西方から脅かす国家は排除され、さらに莫大な利益もがもたらされた。戦争と領土拡大が、このところ低迷気味だったインド経済のカンフル剤として機能したのだ。十九年と設定された移行期間中、新領土の民衆は納税義務のみを負い、選挙権および社会保障は適応されない。移行期間が終了するころには、宗主国に忠誠を誓うよう教育された世代が完成する計算だった。現実には、そうもいかなかったが。


 この横暴を、国際社会は黙認した。合衆国、ブラジル、ロシア、中国はそれぞれ小国を強引に武力併合する当事者であったから批判できる立場にはなかったし、欧州連邦とアフリカ連邦は複雑な利害関係のなかでインドに迎合した。サウジアラビア、トルコ、ベネズエラを中心とした三十数か国からなる「独立国家連合(UIN)」はこれを強く批判し、国際連合総会に非難決議案を提出したが、黙殺された。


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