第9章 偽りの均衡
香ばしく焼き上げられた魚の香りが、鼻腔をくすぐる。
黄色いスパイスがたっぷりと染み込んだ身に、ぱりぱりとした皮の食感。
サンバルから漂うエビペーストの濃厚な香りが、さらに食欲をそそった。
パクッ。
口の中に広がる旨味に、思わず目を細める。
こんなに心穏やかな昼食は、一体いつ以来だろうか。
実家のあの、息が詰まるような静寂に満ちた食卓とは正反対の温かさがここにはあった。
「あのね、先生。パパが作ったナゲット、ガファくんたちにも分けてあげたんだよ」
ライラちゃんが、スプーンを宙に躍らせながら得意げに話す。
口角についたオレンジ色のソースが、彼女が喋るたびに小さく動くのがたまらなく愛らしい。
「まあ、ライラちゃんは本当に優しいのね。お友達と分かち合うのは、とっても素敵なことよ」
私は卓上の木箱からティッシュを一枚取り出した。
無意識のうちに、体が前に傾く。
指先を伸ばし、その小さな唇の端についた汚れをそっと拭った。
ライラちゃんはおとなしく身を任せ、瞬きをしながら私を見つめている。
その純粋な瞳に見つめられると、胸の奥がじわりと溶けていくような感覚に陥った。
食事が終わると、小さな体は椅子から勢いよく飛び降りた。
タッ、タッ
室内履きが床を叩く軽快な音。
彼女はテーブルを回り込み、私の手をその小さな、けれど確かな力でぎゅっと握りしめた。
「先生、私の部屋に来て!お人形のお城があるんだから!」
私は一瞬、戸惑いで足を止めた。
二階へ上がるだけでもプライバシーの侵害ではないかと躊躇したのに、寝室にまで足を踏み入れるなんて。
助けを求めるように視線を向けると、ディオさんが手際よく皿を重ねているところだった。
「もしお急ぎでなければ、少しだけ付き合ってやってくれませんか?」
ディオさんが、控えめな、けれど温かみのある声で言った。
「この子、自慢の玩具を見せびらかせる相手が滅多にいないものですから」
「……はい、もちろんです。今日は夕方まで予定もありませんから」
「ありがとうございます、エラ先生」
彼からの許可を得て、私は席を立った。
仕事用のバッグは椅子の背に残したまま、ライラちゃんに引かれるままに歩き出す。
白い大理石調の廊下を通り、重厚なダブルドアの前で足が止まった。
ドアの質感に目を凝らす。
安っぽい合板ではない、密度の高い無垢材の重み。
ノブに触れると、ひんやりとした金属の冷たさと、精巧な造りが指先に伝わってきた。
ライラちゃんがドアを押し開ける。
蝶番が軋む音ひとつしない。
カチッ。
部屋に足を踏み入れた瞬間、私はまたしても内なる驚きを隠せなかった。
そこはプライベートなリビングのような空間で、ラベンダーのディフューザーが心地よく香っている。
ライラちゃんはその奥にある、パステルカラーのドアへと私を導いた。
「ここが私の部屋!じゃじゃーん!」
一歩、中へ入る。
決して広大というわけではないが、隅々まで隅々まで整然と整えられていた。
壁紙は落ち着いたセージグリーン。
玩具の棚は種類と色ごとに整然と並べられている。
だが、大人の、それもかつて贅沢を知っていた私の本能が違和感を察知した。
視線で家具をなぞる。
オーク材のベッドフレーム、近未来的なデザインの人間工学に基づいた学習デスク。
そして壁と一体化したビルトインのクローゼット。
さりげなくデスクの端に触れてみる。
滑らかだ。
仕上げの技術が、そこら辺の既製品とは一線を画している。
脳内で素早く計算が始まる。
これほどの特注家具を揃えれば、優に数千万ルピア、あるいはそれ以上は下回らない。
ブラウィジャヤにある実家の調度品よりも、さらに洗練された、本物の「質」がそこにはあった。
おかしい。
中古のLCGCを運転し、質素なカフェを営む男が、なぜ五つ星ホテルのスイートルームのようなインテリアを揃えられるのか。
「先生、見て!私のボボだよ!」
ライラちゃんの歓声が、私の邪推を打ち砕いた。
彼女は自分の体ほどもある大きな茶色のクマのぬいぐるみを抱き上げている。
私は膝をつき、彼女の目線に合わせて微笑んだ。
「わあ、大きいのね。お名前はなんていうの?」
「ボボ!パパがお誕生日に買ってくれたの!」
ボボにまつわるライラちゃんの熱心な語りを聞いていると、開いたままのドアから控えめなノックの音が響いた。
コン、コン
振り返ると、そこにディオさんが立っていた。
エプロンを脱ぎ、グレーのTシャツ姿になった彼は、どこかリラックスした雰囲気を纏っている。
その手には、二つのガラスグラスが乗ったトレイがあった。
中身は、新鮮なベリーとミントが添えられた自家製のアイスクリームだ。
グラスからは白い冷気がうっすらと立ち上っている。
「わーい!アイスクリームだ!」
ライラちゃんがボボを放り出し、父親のもとへ駆け寄る。
ディオさんは部屋に入り、私に一つ、グラスを差し出した。
「ライラのお喋りに付き合ってくださったお礼です」
彼は少しだけ、口角を上げて笑った。
「ありがとうございます。とても美味しそうですね」
「こちらこそ、ありがとうございます。エラさん」
ディオさんは厚手のラグの上に座り込んだライラちゃんの隣に屈み、彼女の目にかかる前髪をそっと整えた。
「ゆっくり食べなさい。頭がキーンとするぞ」
私はスプーンを口に運んだ。
舌の上でとろけるような滑らかさ、控えめな甘さ、そしてベリーの鮮烈な酸味。
コンビニで売っているような大量生産品ではないことは、一口で分かった。
アイスを味わいながら、目の前の父子のやり取りを盗み見る。
ディオさんは、慈しむような眼差しで娘を見つめていた。
手元にスマートフォンはなく、誰かに邪魔されることもない。
彼は今、この瞬間のすべてを娘のためだけに捧げている。
胸の奥が温かくなるのを感じた。
この男は、矛盾の塊だ。
質素なのに気品があり、淡々としているのに誰よりも情が深い。
突然、ライラちゃんが床にグラスを置いた。
何かに閃いたような顔をして、ディオさんをキラキラとした目で見つめる。
「パパ、先生と一緒に写真撮りたい!」
小さな手を差し出し、父親のスマートフォンをねだる。
「え?写真?」
ディオさんは戸惑ったように私を見た。
「すみません、エラ先生。この子が言い出すと、なかなか聞き入れなくて……」
「いいですよ。私でよければ」
ディオさんは安堵したように息を吐くと、ジーンズのポケットからマットブラックの薄型スマートフォンを取り出した。
「いいかい、一枚だけだぞ」
カメラアプリを起動し、レンズをこちらに向ける。
私はライラちゃんの隣に寄り添い、精一杯の笑顔を作った。
しかし、シャッターを切る直前、ライラちゃんが突然立ち上がった。
そして、父親の腕を力いっぱい引っ張る。
「三人で!三人で撮るの!」
心臓が跳ねた。
口に含んでいたアイスのスプーンを落としそうになる。
ディオさんが固まった。
「さ、三人で……?」
「そう!ここに来て!」
ライラちゃんは父親の首に手を回して引き寄せ、同時に私の手も引っ張って自分の方へと寄せた。
私たちは、逃げ場のない狭い空間に閉じ込められた。
真ん中にライラちゃん、右に私、左にディオさん。
顔が熱くなるのが自分でも分かった。
距離が近すぎる。
肩がかすかに触れ合い、彼の体温が伝わってくる。
「……いいですよね、先生?」
ライラちゃんの、拒絶を許さない無垢な瞳。
私はぎこちなく頷くしかなかった。
「え、ええ……もちろん」
ディオさんは小さく咳払いをした。
彼も明らかに動揺している。
長い腕を伸ばし、インカメラのアングルを調整する。
「いくよ……一、二……」
「二」のカウントの瞬間、ライラちゃんが予想外の行動に出た。
両手で私たちの首を同時に抱え込み、ぐいっと力強く自分の方へ引き寄せたのだ。
グイッ。
私の頬が、ライラちゃんの右頬にぴたりと密着する。
そして反対側では、ディオさんの頬も彼女の左頬に押し付けられていた。
三人の顔が、狭いフレームの中に並ぶ。
息が止まった。
スマートフォンの画面越しに見る私たちは、まるで……。
カシャッ!
フラッシュが焚かれた。
次の瞬間、私とディオさんは弾かれたように離れた。
まるで高電圧の電流に触れたかのような速さで、互いに距離を取る。
「やったー!上手く撮れた!」
ライラちゃんだけが、顔を真っ赤にしている大人二人をよそに歓声を上げている。
彼女は父親の手からスマートフォンをひったくった。
「パパ、これプリントしてね!日記に貼るんだから!」
「……ああ。後でやっておくよ」
ディオさんの声は、掠れていて、ひどく落ち着きがなかった。
彼は私と目を合わせようとせず、不自然に首の後ろを掻いている。
一瞬だけ、視線が交差した。
ほんの数秒のことだったが、心臓が口から飛び出しそうになる。
私たちは気まずさを誤魔化すように、乾いた笑い声を漏らした。
「コホン」
ディオさんが再び咳払いをし、ライラちゃんからスマートフォンを回収した。
「エラさん……私は一度、下に戻ります。キッチンの在庫を確認してくるので。アイス、ゆっくり召し上がってください」
言い訳だ。
逃げ出したいのは、彼の方も同じらしい。
「はい。お仕事、頑張ってください」
ディオさんは背を向け、早歩きで、半分駆け出すように部屋を出て行った。
その逞しい背中が、あっという間にドアの向こうへ消える。
彼がいなくなった途端、止めていた息を一気に吐き出した。
触れ合っていた頬に手を当てる。
まだ、熱い。
堪えていた笑みが、自然とこぼれ落ちた。
お腹のあたりがムズムズするような、胸の奥がむずがゆくなるような、そんな妙な感覚。
馬鹿げているけれど、悪くない気分だった。
残りのアイスを夢中で食べているライラちゃんに視線を戻す。
「美味しかった、ライラちゃん?」
「うん、最高!」
ブルルッ、ブルルッ
カーペットの上に置いていた私のスマートフォンが震えた。
手に取ると、メッセージの通知が表示されている。
ディオ・アトマンタ(保護者)
[画像が送信されました]
また鼓動が速くなる。
画像を開いた。
そこには、驚いて目を見開いたまま笑う私と、ぎこちないけれど優しい眼差しを向けるディオさん。
そして中央で、乳歯を覗かせて満面の笑みを浮かべるライラちゃんが写っていた。
完璧だった。
本物の家族のように、見えてしまう。
その下に、短いテキストが添えられていた。
ディオ・アトマンタ:
先生、ライラのわがままに付き合っていただきありがとうございました。驚かせてしまって、申し訳ありません。
事務的な文面に、思わず吹き出してしまう。
指先が画面の上を滑った。
私:
謝らないでください。とても素敵な写真ですね。ライラちゃんも嬉しそうでした。
ディオ・アトマンタ:
ありがとうございます、エラさん。
画面を閉じようとした瞬間、今度は激しいバイブレーションが襲ってきた。
サスキア・プトゥリ:
ちょっと、エラ!?
今どこにいんのよ!?
まさか、あのイケメン子連れに毒でも盛られてんじゃないでしょうね!?
私は声を上げて笑った。
向こう側でパニックになっているサスキアの顔が目に浮かぶ。
最初は「まだカフェにいる」とだけ返そうと思ったが、ふと悪戯心が芽生えた。
私は先ほどディオさんから送られてきた写真を、そのまま転送した。
送信。
ニヤニヤしながら待つ。
一秒、二秒、三秒。
ピコーン、ピコーン、ピコーン!
通知が爆発した。
サスキア・プトゥリ:
ちょっと待ってえええ!!!
何これ!?
幸せ家族写真コンテスト、ぶっちぎりの優勝じゃん!
頬っぺた、くっついてるじゃないのよ!!!
アンタ今どこにいんの!?答えなさい!今すぐGOJEKで乗り込むわよ!!!
お腹が痛くなるほど笑い転げた。
サスキアの反応は、期待を裏切らない。
不思議そうにしたライラちゃんが近寄ってきて、私のスマートフォンを覗き込もうとする。
「先生、どうして笑ってるの?」
その灰色の瞳が、画面の画像を捉えた。
「わあ!さっきの写真!」
彼女は嬉しそうに声を上げた。
「先生も、その写真大事にしてね!」
Thank you very much for reading to the end.
As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.
If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.
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