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第86章 アマルフィの断崖、その頂で

――― エララ・ドウィジャヤ ―――


指先に触れる白いシルクのシーツは、驚くほど冷たかった。


それとは対照的に、私のうなじのあたりには、言いようのない熱がじわじわと広がっている。


キングサイズのベッドの端に腰を下ろしたまま、私は身動き一つ取れずにいた。


ネイビーブルーの寝巻きの裾を、指先が白くなるほど強く握りしめる。


滑らかな生地が、私の不安を映し出すように無残に皺を刻んでいく。


バルコニーの向こうからは、地中海の波音が絶え間なく響いていた。


ざあ、ざあ……


アマルフィの切り立った断崖を叩くその音は、まるで私の落ち着かない鼓動のようだ。


重く、一定の、そして目に見えない圧力を伴ったリズム。


この静寂の中に、これほどまでの重圧が潜んでいるなんて知らなかった。


枕元のランプが、部屋を淡い黄金色に染め上げている。


壁には、私の震える肩の影が長く、不自然なほど大きく伸びていた。


背後に、ディオさんの気配を感じる。


冷たい寄木細工の床を歩く彼の足音は、ほとんど無音に近い。


それなのに、彼の存在感は部屋中の酸素をすべて奪い去ってしまうほどに圧倒的だった。


空気が密になり、呼吸をすることさえためらわれる。


足音が、私のすぐ目の前で止まった。


彼は隣に座ることも、強引に私を抱き寄せることもしなかった。


ただ、ゆっくりと、その場に膝をついたのだ。


冷たい床の上に、私を見上げるようにして。


それは、絶対的な献身の姿勢だった。


控えめな光の下で、彼は下から私を見つめている。


まるで今夜、この広い世界の中心が私一人であると告げているかのように。


彼の瞳は、いつもは鋭く、何かを見通すような冷徹さを湛えている。


けれど今は、その奥にある氷が溶け出したかのように、柔らかく揺れていた。


その眼差しは、静かに、そしてこの上なく丁寧に私の許しを求めている。


ゆっくりと、彼の大きく温かい手が伸びてきた。


私の腰を包み込むように、そっと添えられる。


するりと


シルクの隙間から覗く肌を、彼の親指が優しくなぞった。


その一点から、火花が散るような熱が全身へと駆け巡る。


バルコニーから忍び込む夜風の冷たさと、彼の指先の熱が、私の中で激しく衝突していた。


私は視線を落とし、膝のすぐ近くにある彼の顔を見つめた。


ミントの石鹸の清涼な香りと、彼自身の持つ男らしい体温の匂いが混ざり合う。


その香りは、私の思考を麻痺させると同時に、不思議な安らぎを与えてくれた。


宙に浮いていた私の指先が、迷いながらも彼の髪に触れる。


短く整えられた黒い髪は、風呂上がりの湿り気を帯びていて、指の間に心地よく絡みついた。


その確かな感触が、宙に浮いていた私の心をようやく現実へと繋ぎ止めてくれる。


ディオは目を閉じ、深く、長く息を吐き出した。


まるで私の指先が、彼の長年の渇きを癒やす聖水であるかのように。


彼はそのまま、祈るような静けさで私の手に頬を寄せた。


「怖がらないで」


低く掠れたバリトンの声が、私の耳の奥で震えた。


彼は顔を上げ、氷山をも溶かしてしまいそうなほど強い光を宿した瞳で私を射抜く。


「僕は君のものだ、エララ。今夜も、そしてこれからも」


ディオさんは、腰に添えた手を離さないまま、ゆっくりと立ち上がった。


引き寄せられるままに私も立ち上がり、二人の間に隙間がなくなる。


彼の厚い胸板が、激しく上下する私の胸を圧迫した。


露出した彼の肌から伝わる熱が、私の残された理性を焼き尽くしていく。


二人の心臓が、まるで一つの楽器のように共鳴し、同じリズムを刻み始めた。


もう二度と、一人で鼓動することはないと誓い合うかのように。


ディオさんの唇が、私の顎のラインに沿って、羽のように軽い口づけを落としていく。


彼はまるで、この世で最も壊れやすく、価値のある宝物の地図を描いているかのようだった。


そして、私の脈が狂ったように打っている耳の下で、その動きを止めた。


彼は私の首筋に顔を埋め、深く、その香りを吸い込んだ。


時の流れに決して色褪せることのない記憶として、妻の香りを心に刻み込もうとするかのように。


私はのけぞり、彼にすべてを委ねるように首を差し出した。


甘い諦念が、私を包み込んでいく。


彼の口づけは鎖骨へと降り、柔らかな愛撫が私の唇から小さな吐息を漏らさせた。


私は彼の逞しい肩を強く掴み、崩れ落ちそうな膝を必死で支える。


この感覚の中で、私は自分という存在が溶けていくのを感じていた。


ディオさんが再び顔を上げた。


その瞳には深い渇望があったけれど、それ以上に、崇拝に近い愛情が満ちていた。


そこには、カフェのオーナーとしての顔も、どこか謎めいた男の仮面もなかった。


ただ一人の男が、心から愛する女を求めている。


その純粋な事実だけが、そこにあった。


彼の手が私の背中に回り、寝巻きを繋ぎ止めている細いリボンを探し当てる。


慎重に、けれど確かな動きでそれが引かれると、ネイビーのシルクが音もなく床に滑り落ちた。


はらりッ……


まるで秋の終わりに、最後の一枚の花びらが散るように。


私たちの間に、もう遮るものは何もない。


部屋を冷やしていたはずの空気は、肌と肌が触れ合う熱によって一瞬で消え去った。


ディオさんは私を軽々と抱き上げ、冷たいシーツが待つベッドの中央へと横たえた。


黄金色のランプの下で、私たちは一つになった。


それは決して荒々しい衝動ではなく、深く、丁寧で、慈しみに満ちたリズムだった。


私の腰を支える彼の手のひら、耳元で繰り返される熱い吐息。


それらすべてが、言葉を超えた愛の物語として私の魂に刻まれていく。


アマルフィの堅牢な断崖と、どこまでも広がる海だけが、私たちの沈黙を見守っていた。


汗と情熱が混じり合う中で、私は彼の瞳を見つめ続けた。


その暗い瞳の奥に、もう暗闇は見えなかった。


そこにあるのは、私たちが共に歩む未来の景色だ。


朝の光の中で笑うライラの姿。


冷え切っていたブラウィジャヤの屋敷に灯る、新しい家族の温もり。


そして、バラバラに壊れていた私が、ようやく一人の人間として再生していく予感。


夜明けが近づく頃、部屋には再び静寂が戻ってきた。


遠くで聞こえる波音に混じって、私たちの穏やかな寝息だけが響いている。


私は横向きになり、ディオさんの温かく湿り気を帯びた胸に頭を預けた。


耳の下で、夫の心臓の音がゆっくりと穏やかな鼓動に戻っていく。


私は心の中で、苦笑いと幸福が混ざり合ったような溜息をついた。


運命とは、なんて皮肉で、そして美しい遊びを仕掛けてくるのだろう。


レイという男に裏切られ、家族の借金という重荷に押し潰され、私の人生は終わったと思っていた。


それが、自分の教え子の父親と恋に落ちることで、これほどの天国に変わるなんて。


セノパティのカフェで、カウンター越しにコーヒーを淹れていたあの男が。


私をブラウィジャヤの黄金の檻から連れ出してくれる鍵を持っていたなんて、誰が想像しただろう。


ディオさんを愛したことは、私の人生で最も美しく、最も正しい「巡り合わせ」だった。


もし、かつての私のように、絶望の淵に立っている人がいるのなら。


どうか、世界がそこで終わったなんて思わないでほしい。


目の前の扉が音を立てて閉ざされたとしても、それは新しい物語の始まりに過ぎない。


何百万人という人々が行き交うこの世界で、あなたのためだけの誰かが、きっと準備されている。


それはディオさんのように、複雑で、強くて、多くの秘密を抱えた人かもしれない。


神様は、信じることをやめなかった者に対して、決して幸せな結末を書き忘れたりはしない。


私は今、それを確信している。


私は目を閉じ、世界で一番安全な腕の中で、心地よい眠りに身を委ねた。


星が降り注ぐアマルフィの空の下、私はようやく、本当の「家」に帰り着いたのだ。


完。




長い旅路も、ここで一区切りです。最後まで読んでくれて、本当にありがとう。この物語が、皆さんの心に少し残ってくれたら嬉しいです。ブックマークで応援してくれた皆さん、感謝しています。さようなら、そしてまたどこかで。

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