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第85章 紺碧の静寂

挿絵(By みてみん)


 ――― エララ・ドウィジャヤ ―――


 グランドハイアットの豪華なボールルームに響き渡った、あの万雷の拍手から三日が過ぎた。


 耳の奥にはまだ祝祭の残響がこびりついているけれど、私の魂はあのシャンデリアの下に置き去りにされたままのような気がする。


 数日前まで、私はただのしがない小学校教師で、借金と家族の期待に押し潰されそうな毎日を送っていたはずなのに。


 大陸を越える長い旅を経て、私たちは今、世界の果てのような場所に立っている。


 ジャカルタに残してきたライラは、今ごろ過剰なほどの愛情の渦中にいるはずだ。


 母とアルナ姉さんは、サスキアが予言した通り、私の小さな天使を奪い合うように可愛がっている。


 今朝のビデオ通話の光景が脳裏に浮かび、思わず口角が緩む。


 母は有名デザイナーに特注したミニドレスをライラに着せようと躍起になり、アルナ姉さんは姉さんで、デポックの庭にひまわりを植えるべきだと主張していた。


 プラスチックのスコップを握りしめて泥だらけになるライラに、日焼けを気にした母が必死に日傘を差しかけている姿は、滑稽で、それでいてひどく愛おしかった。


 あのみんなの笑顔は、ディオが守ってくれたものだ。


 もう、チョコレートミルクをねだる高い声も聞こえない。


 借金取りからの執拗な督促も、資産差し押さえの恐怖に震える夜も、ここには存在しない。


 ザァ、ザァ……


 眼下の断崖に打ち寄せる地中海の波音が、低く、威厳に満ちた響きで私を歓迎してくれている。


 私は裸足のまま、プライベートヴィラのテラスへと足を踏み出した。


 イタリアの古典的な建築様式。クリーム色のスタッコ壁と、足裏に伝わるテラコッタタイルの冷たさが、現実感を少しずつ呼び覚ましてくれる。


 潮風は鋭く、塩の香りを孕んで私の頬を撫でていった。


 冷たい風だけれど、それは結婚披露宴という名の、華やかで、それでいてエネルギーを根こそぎ奪っていく儀式の疲れを洗い流してくれる。


 目の前には、まだ絵具が乾ききっていない油絵のようなアマルフィ海岸が広がっていた。


 断崖にへばりつくように並ぶ街灯が、ひとつ、またひとつと灯り始める。


 それは夜空の星々と競い合うように、地上に描かれた星座のようだった。


 静寂。


 ここには、私と彼を縛り付けるものは何ひとつない。


 背後から、迷いのない、静かな足音が近づいてくる。


 ディオが二つの銀色のスーツケースを部屋の隅に置く音がした。


 ドサッ。


 厚手のカーペットがその衝撃を優しく吸収する。


 私は肩越しに、少しだけ視線を向けた。


 そこにいたのは、組織を率いる冷徹な指導者としての仮面を脱ぎ捨てた、一人の男だった。


 白いリネンシャツのボタンは上二つが外され、逞しい鎖骨が覗いている。


 袖は肘まで無造作に捲り上げられ、その仕草さえもが、今の彼がいかにリラックスしているかを物語っていた。


 私は冷たいアイアンのバルコニーに腕を預け、目を閉じて地中海の空気を深く吸い込んだ。


「……綺麗ね、ディオ」


 私の囁きは、風の音に溶けて消えてしまいそうだった。


 返事の代わりに、背中に柔らかな熱が密着する。


 ディオが後ろから私を抱きしめた。


 その動きはあまりに自然で、まるで私たちの体が、最初からこうなる運命だったパズルのピースであるかのように錯覚させる。


 彼は私の右肩に顎を乗せ、温かい吐息で私の首筋をくすぐった。


 逞しい両腕が、私の腹部を独占するように回される。


 まるで、私が彼の所有物であることを、この世界の果てで再確認させるかのような強い抱擁。


 彼の胸板から伝わる鼓動が、私の背中を通じて全身に波及していく。


「これはまだ、始まりに過ぎないよ、エララ」


 低く響くバリトンボイスが、背骨を伝って脳を痺れさせる。


 安らぎと、それ以上に激しい動悸が同時に押し寄せてきた。


 彼の右手が動いた。


 差し出されたのは、冷気で結露したクリスタルグラス。中には淡い黄色の液体が揺れている。


「これを飲んで。崖の下の庭で採れたレモンで作らせたんだ」


 私はそれを受け取り、慎重に口に含んだ。


 鋭い酸味が森の蜂蜜の甘さと混ざり合い、氷の冷たさが喉を通り抜けていく。


 十数時間の空の旅で乾ききっていた細胞が、一気に目を覚ますような感覚。


 あまりの爽快さに、意識が鮮明に研ぎ澄まされていく。


 ディオは私の体をゆっくりと回転させ、正面から向き合わせた。


 彼の腕はまだ私の腰に回されたままで、二人の間に隙間を作ることを許さない。


 テラスの薄明かりの下、彼の暗い瞳が熱を帯びた輝きで私を射抜いた。


 そこにはもう、自分を守るための仮面も、冷徹なビジネスマンとしての壁もない。


 ただ、妻を求める一人の男の、純粋で剥き出しの欲望だけがあった。


「これからの二週間」


 彼の顔が近づき、鼻先が触れ合う。


「会議の予定も、ゲイリーからの報告も、誰からの邪魔も入らない。……私と君、二人だけだ」


 彼は私の鼻の頭に軽く口づけを落とした。


 それから、時間を慈しむようにゆっくりと唇の端へと移動する。


 ディオは名残惜しそうに腕を解き、私の膝が震えるほどの深い視線を残して、背を向けた。


「先にシャワーを浴びてくる。君は中で休んでいて」


 彫刻が施されたオーク材の扉の向こうへ、彼の背中が消えていく。


 私は空になったグラスを握りしめたまま、しばらくテラスに立ち尽くしていた。


 心臓の音が、不規則なリズムを刻み始めている。


 主寝室へと向かう足取りは、鉛のように重かった。


 広大な部屋の中央には、真っ白なシルクのシーツが掛けられたキングサイズのベッドが鎮座している。


 ナイトランプの淡い光が、壁に不気味なほど美しい影を描き出していた。


 私はベッドの端に腰を下ろし、ネイビーブルーのシルクの寝巻きの裾をぎゅっと握りしめた。


 サスキアがくれた、あの「勝負服」。


 手のひらが、いつの間にか冷や汗で湿っている。


 思考が、制御不能なほどにかき乱される。


 ……今夜、ここで、それが起こるの?


 アマルフィの夜。逃げ場のない、二人きりの空間。


 カチャッ。


 バスルームから聞こえる水の音が、まるで処刑台へのカウントダウンのように聞こえてくる。


 こんなロマンチックな状況なのに、脳内ではサスキアの「封印を解け」という下品なアドバイスがリピート再生されていた。


「馬鹿ね、サスキア……。こんな時に思い出させないでよ」


 必死に呼吸を整えようとするけれど、肺に空気が入ってこない。


 エララ、落ち着いて。あなたはもう彼の妻なのよ。


 でも、この緊張感は初めて教壇に立った時よりもずっと……個人的で、圧倒的だ。


 寝たふりをする? いいえ、子供っぽすぎる。本を読む? もっと不自然だわ。


 かちゃり。


 扉が開く音がした。


 私は反射的に背筋を伸ばし、どこを見ていいか分からず正面を凝視した。


 ディオが出てきた。


 湿り気を帯びた空気と、清涼感のあるミントの石鹸の香りが一瞬で部屋を満たす。


 裸足の足音が、寄木細工の床を叩きながら近づいてくる。


 私は意を決して、ほんの少しだけ視線を動かした。


 彼は濃いグレーの綿のラウンジパンツ一枚だけを身に纏っていた。


 上半身は完全に、無防備に晒されている。


 濡れた髪から滴る水滴が、彼の首筋を滑り、逞しい大胸筋を通り抜けていく。


 彫刻のような腹筋の溝を辿り、パンツのウエストラインへと消えていくその軌跡を、私は瞬きもせずに追ってしまった。


 ゴクッ。


 喉の奥で、乾いた音が鳴る。


 目の前の光景は、今まで見てきたどんな財務監査報告書よりも威圧的で、暴力的だった。


 薄暗い照明の下で浮かび上がる筋肉の躍動感。


 服の下に隠されていた、本物の「力」がそこにあった。


 ディオがベッドの脇で足を止めた。


 彼は小さなタオルで無造作に髪を拭いている。その何気ない動作さえもが、抗いがたいカリスマを放っていた。


 顔が、火が出るほど熱い。


 私は耐えきれず、大きな窓の外に広がる暗い海へと顔を背けた。


 遠くに見える灯台の光が、まるで救いの手のように見えた。


 狂ったように脈打つ心臓を鎮めようと、私は必死に、ただの風景の一部になろうと努めていた。


蜜月編に入りました。景色描写、ゆっくり楽しんでください。ブックマークで応援してくれると嬉しいです。いつもありがとう。

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