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第84章 灰色の記憶、黄金の再生

挿絵(By みてみん)


 ――― エララ・ドウィジャヤ ―――


 午後八時。


 グランドハイアットのボールルームは、今宵、完全にその姿を変えていた。


 数週間前、この場所は私にとって冷たく、息の詰まるようなガラスの牢獄に過ぎなかった。


 けれど今のこの空間は、まるで奇跡のような春の庭園へと生まれ変わっている。


 数千輪もの白い薔薇が咲き誇り、その花びらにはまだ、シャンデリアの光を反射してきらめく露が残っていた。


 クリスタルの灯火は温かな黄金色の光を放ち、給仕たちが運ぶシャンパングラスの表面で反射してきらめいている。


 かつては吐き気を催すほど重苦しかった花の香りが、今は新雪のように清々しく、私の肺を満たした。


 私はディオの隣に立ち、途切れることなく続く祝辞の波を受け止めていた。


 身に纏ったウェディングドレスは驚くほど軽く、まるで羽を広げたかのようだ。


 かつて私の足をこの場所に縛り付けていた、あの数トンもの絶望が嘘のように消え去っていた。


「おめでとうございます、エララ先生。本当に……驚きましたわ」


 震える声に、私は視線を向けた。


 そこに立っていたのは、ダルミ先生だった。


 いつも私の服装を値踏みし、スクーターで通勤することを嘲笑っていた、あの厳格な先輩教師だ。


 今の彼女は、厚化粧の下で顔を青ざめさせ、プチフールを乗せた皿を持つ手が小刻みに震えていた。


 彼女の視線は、私の隣に立つディオと、入り口に並んだ世界的な大企業からの巨大な花輪の間を、何度も往復している。


 どうやら、どうやら、彼女の理解が追いついていないようだった。


「お越しいただきありがとうございます、ダルミ先生。お食事、楽しんでいってくださいね」


 私は、これ以上ないほど穏やかな微笑みを浮かべて答えた。


 ディオは威厳に満ちた、けれど柔らかな笑みを浮かべて小さく頷く。


「ありがとうございます。エララからは、あなたが学校でいかに規律を重んじる方か、よく聞いていますよ」


 ダルミ先生は、ただぎこちなく首を縦に振ることしかできなかった。


 彼女はまるで床に火がついたかのように、慌てた足取りでその場を去っていった。


 その背中を見送りながら、私は胸の奥で小さな、けれど確かな勝利の味を噛み締めていた。


 校長先生や他の同僚たちとの挨拶が終わると、サスキアがすかさず隣に滑り込んできた。


 ローズゴールドのサテンドレスを纏った彼女は、私の腕を軽く突き、今にも吹き出しそうな笑いを堪えている。


「ねえ見てよ、ラ。ダルミ先生、完全にメンタル崩壊してるじゃない。顔が水に浸かったお煎餅みたいにフニャフニャよ!」


 サスキアが私の耳元で、弾んだ声で囁く。


「こら、サスキア。一応、私たちの先輩なんだから。失礼なことは言わないの」


 そう窘めつつも、私の口元からは小さな笑いが漏れてしまった。


 かつて自分を蔑んでいた者たちが、真実を前にして沈黙する。


 その光景は、歪んだ復讐心ではなく、ただ静かな救いとして私の心に届いた。


 ふと、サスキアの目が大きく見開かれ、一点に釘付けになった。


 ビュッフェエリアの近くで、ゲイリー・ヴェイルがライラとプトラの世話を焼いていた。


 チョコがけの苺を奪い合う子供たちを、彼は困ったような、けれど穏やかな眼差しで見守っている。


 ナタン義兄さんとアルナ姉さんもその傍らで、幸せそうに微笑んでいた。


「……ねえ、あのイケメン、最高じゃない?」


 サスキアが素早く髪を整え、戦闘態勢に入る。


「ごめんね、エララ。私、自分の運命と愛を追いかけてくるわ。親友が『ヴェイル夫人』に昇格できるよう祈ってて!」


 私とディオは、思わず顔を見合わせた。


「……ゲイリーを狙ってるの?」


 信じられない思いで問い返すと、サスキアは真剣な表情を(わざとらしく)作って見せた。


「当然よ! あなただけがイケメンの旦那様を独り占めするなんて許さないわ。ゲイリーさん、醸し出してる雰囲気が高貴すぎるもの。ミステリアスで、私の好奇心が爆発しそうよ」


 その言葉に、ディオが声を上げて笑った。


 彼はサスキアの肩を軽く叩き、エールを送る。


「いいと思うよ、キア。ゲイリーはまだ独身だし、仕事一筋だ。君のような『嵐』が、今の彼には必要かもしれない」


「よし、ボスのお墨付きね! 行ってきます!」


 サスキアは自信に満ちた足取りで、人混みをかき分け、ゲイリーの方へと突き進んでいった。


 サスキアが去った後、ライラのクラスメートの保護者たちが挨拶に来てくれた。


 ディオが自ら招待した人々だ。


 彼は、自分がどれほど高い場所に昇り詰めようとも、足元の土の温もりを忘れない。


「おめでとうございます、ディオさん、エララ先生」


 ガファのお母さんが、心からの言葉をかけてくれた。


 彼女は豪華なボールルームを見渡し、それからディオを真っ直ぐに見つめた。


「正直に申し上げて、皆、驚きを隠せません。学校の門の前でいつもお見かけしていた、あの控えめなライラちゃんのお父様が……これほど素晴らしい方だったなんて」


 ディオの耳が、ほんのりと赤く染まった。


 彼は照れくさそうに、ガファのお父さんと力強く握手を交わす。


「私は何も変わっていませんよ。ただ、今日はいつもより少しだけ、上等な服を着ているだけです」


 そのやり取りを見ていると、胸の奥がじんわりと熱くなった。


 かつてレイに侮辱され、消えてしまいたいと願ったこの場所で、私は今、愛する人たちに囲まれている。


 柱の影で、ライラがプトラや友達と一緒に笑い転げながら走り回っている。


 薄灰色の瞳を輝かせ、無邪気に跳ねる彼女の姿は、この場所がもはや恐怖の舞台ではないことを証明していた。


 ここは、私たちの勝利の目撃者となったのだ。




 ステージの上で、スローなジャズの演奏が始まった。


 サックスの咽び泣くような音色が、客席のざわめきを包み込むように流れ、空気を親密なものへと変えていく。


 ディオは手にしていたグラスを給仕に預け、私の正面に立った。


 シャンデリアの光の下、彼の瞳は深く、夜の海のように暗く澄んでいる。


 彼は僅かに腰を折り、貴族のような優雅さと、騎士のような献身を込めて右手を差し出した。


「一曲、踊っていただけますか? 私の愛する奥様」


 その低く響くバリトンボイスが、私の鼓動を激しく打ち鳴らす。


 私は震える指先を、彼の大きく温かな掌に重ねた。


「喜んで、ディオさん」


 ディオはゆっくりと私をフロアの中央へと導いた。


 周囲の人々が自然と道を開き、私たち二人だけの円が描き出される。


 彼は私の腰を引き寄せ、指一本分の隙間もないほど密着させた。


 私の左手は、彼の逞しい肩に預けられる。


 揺れるリズムに合わせて、私たちはゆっくりとステップを踏み出し始めた。


 壁際に並ぶ記者たちのフラッシュも、招待客たちの感嘆の囁きも、今の私には届かない。


 世界は、ディオの腕の中という、たったそれだけの広さに収束していた。


 緩やかな旋回の中で、ディオが顔を伏せた。


 彼の鼻先が私のこめかみに触れ、耳元で熱い吐息が漏れる。


「……エララ、どうして私がこの場所を選んだか、わかるかい?」


 私は顔を上げ、彼の端正な輪郭を見つめた。


「どうして……?」


「君の中にある、この場所への恐怖を上書きしたかったんだ」


 囁く声は、私の魂を抱きしめるように深い。


「今日この瞬間から、このボールルームは君を苦しめる記憶の場所じゃない」


「私たちが世界の前で結ばれた、勝利の記憶だけを刻む場所になるんだ」


 視界が急に滲んだ。


 言葉にできないほどの情愛が、喉の奥まで込み上げてくる。


 この人は、私の知らないところで、私の傷跡を一つ一つ丁寧に癒してくれていたのだ。


「ありがとう、ディオ……私を救ってくれて、本当にありがとう」


 掠れた声で伝えると、ディオはそれ以上、言葉を重ねることはしなかった。


 彼は踊る足を止め、私の頬を両手で包み込んだ。


 そして、慈しむような、けれど抗いようのない力強さで、私の唇を奪った。


 ボールルーム全体に割れんばかりの拍手と歓声が響き渡る。


 けれど、私はもう何も恐れてはいなかった。


 かつての暗い影も、レイの嘲笑も、この床にこぼした涙も。


 すべてはディオの唇の熱によって、美しい灰へと変わっていった。


 私は彼の広い胸に顔を埋め、規則正しい鼓動を聴きながら、静かに目を閉じた。


 地獄だと思っていたこの場所が、今、世界で一番美しい楽園に変わったことを確信しながら。


結婚式のエピソード、楽しんでくれたら嬉しいです。二人の新しいスタートを、これからも見守ってください。ブックマークで応援してくれると励みになります。

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