第83章 白亜の誓い
――― エララ ―――
巨大なチーク材の扉の向こうから、バイオリンの旋律が漏れ聞こえてくる。
それは長く堪えていた深呼吸のような、重厚で精緻な響きだった。大理石の床から伝わる微かな振動が、足元から這い上がってくる。その完璧に統制された音色は、あまりにも高価で、そして……ひどく威圧的だった。
白百合と白薔薇のブーケを握りしめる指関節は、血の気を失って真っ白になっていた。
掌はひどく冷たく、じっとりと汗をかいている。アイボリーのウェディングドレスは、生地の重さというよりも、これまで不可能だと思っていた希望の重圧を縫い込んでいるかのようだった。
母から譲り受けたエメラルドのネックレスが、鎖骨のあたりで氷のように冷たい。
極度の緊張で宙に浮きそうな意識を、その冷たさが辛うじて地上に繋ぎ止めている。
「エラ……聞こえるか?」
振り返ると、父が立っていた。
長年見てきた中で最も仕立ての良いタキシードを着ているというのに、その顔色は……まるで七カ国合同の税務調査を宣告された経営者のようだった。
触れたジャケットの袖は、冷や汗で湿っている。父の呼吸は浅く、閉ざされた扉を盗み見る視線は泳いでいた。
「お父さん、落ち着いて。これは結婚式であって、企業の査問委員会じゃないんだから」
私は自分自身を落ち着かせるため、あえて軽口を叩いた。
父はごくりと唾を飲み込み、パニックで切羽詰まった声で私の耳元に囁いた。
「さっき警備員に止められる前に、少しだけ隙間から見えたんだ。エラ……右の最前列にいるのは、かつて父さんの融資を鼻で笑って蹴った多国籍銀行の最高経営責任者だ。その隣には、経済誌でしか見たことのない欧州の不動産王が座っている」
父の震える手が、私の腕を強く掴んだ。
「お前の夫になるあの男……ディオ君は、ただの金持ちじゃない。彼は王だ。父さんは今、神々の宮殿に供物を差し出しに来た矮小な小人のような気分だよ」
胃が捻れるほど緊張しているのに、私は小さく吹き出してしまった。
こんな最悪のタイミングで、私の馬鹿げた想像力が顔を出す。あの扉の向こうにいる巨大資本の化身たちだって、私たちと同じように胃酸過多に悩んだり、フケを気にしたりするただの人間なのだと、頭の中で無理やり変換してみる。
「お父さん、集中して。お父さんの仕事は、私のドレスの裾を踏まずにまっすぐ歩くことだけ。王様と小人のネタは、披露宴で話そう」
父は深く息を吸い込み、震える背筋を必死に伸ばした。
ゴォォォンッ……!
パイプオルガンの和音が爆発的に鳴り響き、目の前の巨大な扉がゆっくりと開かれた。
グランドハイアットのボールルーム。何千ものクリスタルシャンデリアから降り注ぐ眩いばかりの光が、視界を白く染め上げる。
百合、ジャスミン、薔薇。何千本もの生花の香りが一斉に鼻腔を突き抜け、舌の上でその甘さを味わえるほどに濃厚だった。
家族席の空気もまた、異様な緊張に包まれていた。
最前列に座る母は、背中に板でも入れたかのように硬直している。光を反射する豪奢なスパンコールのクバヤを着飾っているが、その顔は能面のように強張っていた。
一定のリズムで動くシルクの扇子の奥で、母の口は半開きになっている。
理由なら痛いほどわかっていた。数分前、父がディオの招待客たちの推定資産を母に耳打ちしたのだろう。
ドウィジャヤ家が何十年もすがりついてきた虚飾のプライドなど、この世界の金融を支配する竜たちの集会においては、路傍の石ころにも等しい。
母は祭壇を凝視している。
ディオが今日用意したこの舞台が、明確な「宣言」であることに気づいたのだ。彼は地方の没落企業の娘を娶るのではない。母でさえ夢見ることを恐れた絶対的な階級へと、エララを引き上げようとしているのだと。
「歩こう、エラ」
感極まった父の掠れた声が落ちる。
私は一歩を踏み出した。分厚い純白の絨毯に沈み込む靴の感触は、雲の上を歩いているようで現実味がない。
何百人もの視線が一斉にこちらへ向く。
国家の経済をペン先のサイン一つで動かせる、世界で最も権力を持つ人間たちの視線が、私の肌を突き刺す。
けれど、私の目には彼らの姿など映っていなかった。
視線はただ一点、前方へと縫い付けられている。白い花々のアーチの下に立つ、一人の男。
ディオ。
漆黒のタキシードは鋭利なカッティングで、彼の広い肩幅を完璧に縁取っていた。後ろに撫でつけられた髪。
普段は冷徹なまでの静けさを纏うその顔に、今は私だけに向けられた柔らかい光が宿っている。
暗い瞳は瞬き一つせず、私だけを見つめていた。この空間にいる他の人間など、彼にとっては意味を持たない輪郭のぼやけた影に過ぎないかのように。
祭壇の脇には、レオンハルト・ヴェイルが両手を前で組み、彫像のように直立している。
プロフェッショナルで無表情な顔の奥に、主人がついに望むものを手に入れたことへの、微かな誇りの色が閃いていた。
母の後ろの席では、サスキアが体裁など完全に投げ捨てていた。
ズビッ、ズビッ……
マスカラを黒く滲ませ、ティッシュを握りしめながら号泣している。彼女はしゃくりあげながら、私に向かって小さく親指を立ててみせた。
アルナ姉さんとナタン義兄さんは、息子を抱きながら母の隣に立っている。姉さんの目には涙が光り、義兄さんは私に向けて力強く頷いた。
そして、ディオの足元。
フラワーガールのライラが、天使のような白いドレスを着て立っている。彼女は今まで見た中で一番の笑顔で、小さな手を私に向かって振っていた。
やがて、私の歩みはディオの目の前で止まった。
父は、最後の宝物を手放すかのような酷くゆっくりとした動作で、私の腕から手を離した。震える父の手が、ディオの手を握る。
「娘を……頼みます」
父の声はひび割れていた。
「私の生涯をかけて、必ず」
ディオは深く、力強く頷いた。
彼が私の手を取る。大きくて温かい掌が私の冷え切った指先を包み込んだ瞬間、胸の奥で暴れていたパニックが嘘のように消え去った。
絶対的な安全という感覚が、細胞の隅々にまで静寂を浸透させていく。
私たちは祭壇に向き直った。
牧師の言葉は、遠くで鳴る蜂の羽音のようにしか聞こえない。周囲の世界がゆっくりと色褪せ、私とディオだけが、二人だけの静寂の繭に包まれたようだった。
「私、ディオ・アトマンタは、エララ・ドウィジャヤを妻とし……」
ディオのバリトンの低音が響き渡る。揺るぎない、絶対的な権威を帯びた声。
彼が紡ぐ言葉は単なる誓いではなく、世界に向けて打ち立てた楔だった。彼は私を真っ直ぐに見つめ、その瞳の奥に私の魂を閉じ込める。
そして、私の番が来た。
極度の緊張でいつもなら震えてしまうはずの声が、ボールルームの隅々にまで澄み渡るほど強く響いた。
今日、この瞬間から、私の人生はもう逃避ではない。私を救い出してくれた愛への献身だと、はっきりと自覚しながら誓いの言葉を口にする。
世界で最も権力を持つ何百人もの証人の前で交わされた誓い。けれど私たちにとって、この部屋には二人しか存在していなかった。
「これより、二人は夫と妻になります。花嫁に誓いの口づけを」
ディオが一歩近づく。温かい手が私の顎を包み込み、親指がそっと頬を撫でた。
彼がゆっくりと顔を近づけ、私たちの呼吸が混ざり合う。
彼の唇が、私の唇に触れた。
最初は柔らかく、深い敬意に満ちた口づけ。
やがてそれは深い圧へと変わり、私たちがくぐり抜けてきたすべての嵐を永遠に封じ込める印となった。その口づけには、感謝と、安堵と、無限に広がる未来への約束が込められていた。
わあぁぁっ……!
グランドハイアットのボールルームを揺るがすほどの、割れんばかりの拍手が爆発した。巨大資本家たちも、大臣たちも、家族も、全員が立ち上がって賛辞を送っている。
私は少しだけ身を引き、荒い呼吸のまま、満面の笑みを浮かべた。ディオの目には、純粋な勝利の輝きが宿っている。
「ママ! パパ!」
甲高い声が、喧騒を突き抜けた。
ライラが白いドレスの裾を翻し、祭壇に向かって走ってくる。格式高いプロトコルも、重要人物たちの視線も、彼女には関係ない。ただ、私たちの真ん中にいたかったのだ。
ディオが声を上げて笑った。
私の世界では、これまでほとんど聞くことのなかった彼の心からの笑い声。彼は身をかがめ、いとも簡単にライラを抱き上げた。
ライラはキャッキャと笑いながら、小さな腕をディオの首に回し、もう片方の手で私の手を強く握った。彼女は父親の肩に頭を乗せ、薄灰色の瞳を輝かせて私を見つめる。
私は二人の顔に自分の顔を近づけ、ディオとライラの額に、自分の額をこつんと合わせた。
「わたし、ママができたの!」
割れるような拍手の中、ライラが弾けるような声で叫んだ。
ディオが腕の力を強め、私たち二人を同時に抱き寄せる。私の世界全体が、決して揺らぐことのない一つの腕の中に包み込まれた。
降り注ぐクリスタルの光の下、かつて私を踏みにじろうとした世界を前にして、私はついに「本当の家」の意味を知った。
私たちは、一つになった。
もう二度と、私たちを引き裂ける嵐など存在しない。
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