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第82章 翠玉の赦し

 ――― エララ ―――


 大粒のエメラルドが、ブラウィジャヤ邸のダイニングに静かに響き渡る。


 かつては息が詰まるような虚飾の戦場だったこの食卓に、今は奇妙なほどの穏やかさが漂っていた。


 クローブとナツメグの香りを纏ったオックステールスープの湯気が、アンティークの茶器から立ち昇るジャスミン茶の香りと混ざり合う。


 テーブルの下で、ディオの大きな手が私の膝にそっと触れた。その確かな重みが、これが夢ではないという唯一の錨になっている。


 テーブルの端では、父が憑き物が落ちたような様子で、静かにスープを啜っていた。


 株式市場の話題を振る父に、ディオは特有の低い声で、的確かつ静かに応じている。


 今夜、レオンハルトの姿はない。イヤホンをつけた護衛たちも、分刻みのスケジュールを捲し立てるウェディングプランナーもいない。


 母自身の希望により、ここには私たち四人だけしかいなかった。


 向かいに座る母の姿は、私の知るインディラ・ドウィジャヤとは別人のようだった。


 皮膚が引き攣るほどきつく結い上げられていた夜会巻きはない。


 簡素なヘアクリップで留められた髪の生え際には、二週間に一度の高級サロンで隠し続けていたはずの白髪が、数本だけ光を反射していた。


「スープの塩加減はどう、エララ?」


 柔らかい声に、思わず肩が跳ねる。


「……ちょうどいいです。とても美味しい」


「よかった。お昼からイナさんに仕込んでもらったの。あなたが一番好きだった、お祖母様のレシピだから」


 喉の奥に、熱い塊がせり上がってきた。


 母が、私の些細な好みを覚えている。見栄と借金に狂う前の、遠い昔の記憶。


 ココナッツプリンのデザートが終わる頃、母はかつての機械的な優雅さとは違う、どこか人間らしい仕草でナプキンを置いた。


「あなた、ディオさんをテラスへ案内してあげて。建築の話の続きがあるのでしょう?」


 父は静かに頷き、立ち上がってディオの肩を軽く叩いた。


「行こうか、ディオ君。女同士の話があるようだ」


 ディオが私を一瞥する。その黒い瞳が大丈夫かと問いかけていた。


 私は小さく頷き、微かに微笑み返す。このカタルシスは、とうの昔に行われるべきものだった。


 ガラス戸が閉まり、テラスのオレンジ色の灯りの下に二人の男のシルエットが浮かび上がる。


「リビングへ行きましょう、エララ。ここは少し、息苦しいわ」


 右手の奥にあるファミリールームには、長らく外されていた古い家族写真が戻されていた。


 ベルベットのソファに腰を下ろすと、母もすぐ隣に座る。


 張り詰めた沈黙。母は俯き、自身の指先を見つめていた。


 社交界の女王として君臨していた手には、隠しきれない細かな皺が刻まれている。


 その膝の上で、母は古い深緑色のベルベットの箱を強く握りしめていた。縁の金箔は、すでに所々剥げ落ちている。


「エララ……」


 震える声。暖色のランプに照らされた母の顔を見ると、その瞳はすでに濡れていた。


「ごめんなさい」


 ぽつり、と。インディラ・ドウィジャヤの口から決して出るはずのなかった言葉が、薄いメイクの頬を伝う一滴の涙と共に零れ落ちた。


「お母さんは、あなたを壊してしまうところだった」


 嗚咽が混じり始める。


「貧しさへの恐怖で……目が眩んでいたの。あなたを守るべき娘ではなく、この空っぽな生活を維持するための道具だとしか思えなくなっていた」


 氷のように冷たく、ひどく震える手が、私の手を包み込んだ。


「あの夜、家を飛び出したあなたを憎んだわ。でも……グランドハイアットの壇上で、青いドレスを着てレイに立ち向かうあなたを見た時、気づいたの」


 母は片手で顔を覆い、肩を激しく震わせた。


「絵本をねだっていた私の小さな娘はもういない。私があなたを、戦場に立つ戦士に変えてしまった。私自身が、あなたの最大の敵だったから……」


 取り繕うことのない、本音の涙だった。


 何十年も被り続けた分厚い仮面が、音を立てて崩れ去っていく。


 もう、限界だった。私は身を乗り出し、記憶よりもずっと小さく脆くなったその肩を抱きしめた。


「もういいんです、お母さん……。もう、許していますから」


 私の目からも、堪えきれずに涙が溢れ出す。


「こんなに早く、許される資格なんてないのに……」


 かつては牢獄のように感じていたこの部屋で、私たちはただ身を寄せ合い、長い間泣き続けた。


 長年背負ってきた憎しみの重りが、涙と共に少しずつ溶けていく。


 やがて母は少しだけ体を離し、シルクのハンカチで目元を拭った。


 膝の上の緑色の箱を見つめ、ゆっくりと蓋を開ける。


 カチャリッ。


 ランプの光が、息を呑むほど美しい宝石の表面で乱反射した。


 エメラルドカットが施された大粒の緑柱石。


 周囲を細かいダイヤモンドに囲まれたそれは、熱帯雨林の奥深くのように濃密な緑色を放ち、永遠の威厳を保っている。


「あなたのお祖母様の、そしてその前のお曾祖母様のものよ」


 涙に濡れた声は、それでも確かな芯を持っていた。


「ドウィジャヤ家に伝わるエメラルドのネックレス。新しい人生を歩み始める娘にだけ、受け継がれるもの」


 母がネックレスをつまみ上げる。ホワイトゴールドのチェーンが、冷たい光を帯びて揺れた。


「アルナには渡せなかった。あなたが私の選んだ相手と結婚する時に、これを着けさせるつもりだったの。でも……」


 母は自嘲気味に微笑んだ。


「心に自由を持たない女性が身に着けても、この石は輝かないわ。後ろを向いてちょうだい」


 言われるがままに背を向ける。冷たい母の指先が、ひどく慎重な手つきで私のうなじに触れた。


 カチッ。


 小さな金属音と共に、留め具が掛けられる。


 胸元に触れるエメラルドの石はひやりと冷たく、胸の奥に広がる温かさとは対極の温度を持っていた。


「このネックレスと共に、私のすべての祝福をあなたに」


 耳元で、母が囁く。


「ディオの素晴らしい妻におなりなさい。そして……誰にも買われることのない、勇敢なエララのままでいて」


 振り返り、首元に鎮座するエメラルドに触れる。


 歴史と期待の重み。しかしその重力は、今の私には心地よかった。


 私はもう一度、今度は力強く母を抱きしめた。


 鼻腔をくすぐるジャスミンの香り。かつては首を絞められるように感じたその匂いが、今はただ、帰るべき場所の匂いがした。


 赦しの香りだった。


 テラスへ続くガラス戸の向こうに、二つのシルエットが見えた。


 父とディオが、こちらを見つめていた。この神聖な時間に踏み込んではならないと知っているかのように、彼らは外に留まっている。


 ディオが私を見て、誇りと深い愛情に満ちた微笑みを浮かべた。


 父もまた、妻と娘の和解に安堵したように、小さく頷く。


 今夜、ブラウィジャヤの屋根の下で、単なる宝石以上のものが受け継がれた。


 首元のエメラルドは確かに重い。


 しかし、私の心を縛り付けていた鎖は完全に消え去り、明日からの幸福を受け入れるための、広大な余白だけが残されていた。


お母さんの本音、届きましたか。許すことの難しさと優しさを書きました。読んでくれてありがとう。ブックマークで応援してくれると嬉しいです。X でお話するのも大歓迎だよ。→ x.com/mrnoxvane

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