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第81章 白の重み

挿絵(By みてみん)


――― エララ ―――


白いホンダ・シビックのタイヤが、ダルマワンサの静かな砂利道で滑らかに停止した。


コロニアル様式の重厚な建築が、午後の陽射しを浴びて静謐な威厳を放っている。太く白い柱、チーク材の窓枠、そして計算し尽くされたように這う蔦。


エンジンを切った後も、私の指はキーに触れたまま数秒間動かなかった。


その日までの二週間という時間は、かつて経験したどの国家試験の準備よりも私の精神をすり減らしていた。


レオンハルト・ヴェイルの完璧すぎるチームとの果てしない調整。招待客の誰もアレルギーを起こさない花材の選定。誰の機嫌も損ねない完璧なケータリングメニューの構築。


ディオが「幸福のためのプロトコル」と呼ぶそれらの細かな決断の連続に、私の頭は破裂寸前だった。


「ちょっとエララ、車の中で悟りでも開くつもり? それとも降りる?」


サスキアの声で、私は現実に引き戻された。


彼女はすでに助手席のドアを開け放っており、エアコンの効いた車内にジャカルタの暴力的な熱風が容赦なく流れ込んでくる。


私は小さく息を吐き、助手席に放り出していたショルダーバッグを掴んだ。


「降りるわよ。少しだけ待って、キア」


サスキアは、まるでカンヌのレッドカーペットを歩く女優のような、わざとらしい足取りで車を降りた。


サングラスを鼻先にずらし、隙のないサファリスーツを着こなした二人の警備員が立つブティックの入り口を、値踏みするように見つめている。


「信じられないわ、エララ」


サスキアは警備員たちを足元から頭のてっぺんまでスキャンしながら、私に耳打ちした。


「ブティックの警備員が、私の歴代の元カレ全員を足して割ったよりイケメンで身なりがいいなんて。絶対にここのドレス、私の地元の村が丸ごと買える値段よ。最低でも都心のマンションの頭金レベルね」


私は呆れて首を横に振り、自然とこぼれそうになる笑みを噛み殺した。


「やめてよ、キア。今日は最後のフィッティングに来ただけなんだから」


「アークシロン・ヘリテージ・キャピタルの会長夫人の、最後のフィッティングでしょ。そこ、金字でアンダーライン引いといて」


彼女は私の腕を引き、重厚な入り口へと向かって歩き出した。


私たちが近づくと、警備員の一人が訓練された無駄のない動きで、分厚いチーク材の扉を開け放った。


チリン……。


扉の上で銀のベルが鳴った。ひどく澄んだ、神経を撫でるような音だった。


その瞬間、ダルマワンサの通りの喧騒が嘘のように消え去り、圧倒的な静寂が私たちを包み込んだ。


上質なラベンダーの香りが、肺の奥深くまで入り込んでくる。


決して主張しすぎない、しかし確実に自律神経の強張りを解きほぐす計算された香り。今朝からずっと張り詰めていた首筋の筋肉が、わずかに緩むのを感じた。


内装は象牙色とゴールドで統一されていた。


暖かみのある間接照明が、塵一つない大理石の床に反射し、そこに立つ自分のひどく疲れた顔を映し出している。


「アトマンタ夫人、お待ちしておりました」


洗練された足取りで、一人の女性が近づいてきた。


デザイナーのナタリーだ。左右対称の完璧なボブヘアに、ノースリーブのクリーム色のブレザー。首にかけたメジャーを、まるで最高級のジュエリーのように扱っている。


彼女は私の目の前で立ち止まると、彫刻家のような鋭い目で私の全身をスキャンした。


「前回お会いした時より、少しお痩せになりましたね、エララ様」


ナタリーの声には、プロとしての微かな懸念が混じっていた。


「挙式前のストレスは、何より体重をさらっていきますから。でもご安心を。本日のドレスは、貴女の身体に完璧に寄り添うはずです」


「ありがとうございます、ナタリーさん。最近、少し睡眠不足なだけで」


私がナタリーと短い挨拶を交わしている間、サスキアはすでに店内を徘徊していた。


マネキンに掛けられた布地の端に触れ、隠しきれない感嘆の表情を浮かべている。


「ねえエララ、ちょっと来て」


サスキアが小声で私を呼んだ。彼女は、水面のように滑らかなシルクの生地を撫でている。


「この生地、もし屋台の激辛スープなんかこぼしたら、スープの方が土下座して謝ってきそうじゃない? すっごい滑らか!」


私はこめかみを軽く押さえた。


「キア、お願いだから。ここで屋台のスープの話はしないで」


ナタリーは、花嫁の型破りな友人の振る舞いにも慣れているのか、ただ優雅に微笑むだけだった。


そして、階段のそばで待機していた二人のアシスタントに視線で合図を送った。


「さあ、エララ様。メインの試着室の準備が整っております」


私はブティックの奥へと案内された。


大きな引き戸が開かれると、そこにはサスキアのアパートの部屋全体と同じくらいの広さがある空間が広がっていた。


床から天井まで届く巨大な鏡が部屋を囲み、無限の反射を作り出している。まるで、私の内なる不安をあらゆる角度から見せつけられているようだった。


部屋の中央、木製のトルソーの上で、そのドレスが待っていた。


象牙色のAラインのウェディングドレス。


ミカドシルクの重厚な光沢と、極上のチュールの層が完璧な調和を保っている。過剰なスパンコールや装飾はない。ただ、胸元から透ける背中にかけて、狂気的なまでに精緻な手刺繍が施されていた。


二人のアシスタントが、無言で私の着替えを手伝い始める。


仕事着を脱ぎ捨て、明るい照明の下で肌を晒すことに微かな心細さを覚えた。しかし、ドレスの生地が肌に触れた瞬間、その冷たく滑らかな感触が不思議な安堵をもたらした。


幾重にも重なるシルクとチュールが擦れ合う音が、密室に響く。


肩にドレスの重みを感じた。それは確かに物理的な重量だったが、同時に、私がこれから背負うものの確かな輪郭でもあった。


「少しだけ、息を止めてくださいませ」


アシスタントの一人が囁いた。


ジッ……。


背中に隠されたファスナーが、迷いのない動きで引き上げられる。


ミリ単位の狂いもなく、ドレスが私のウエストを締め付けた瞬間、私は反射的に深く息を吸い込んだ。


余分な隙間も、布のたるみも一切ない。まるでこのドレスが、私の皮膚そのものから生え出たかのような錯覚に陥った。


私は背筋を伸ばし、正面の巨大な鏡に映る自分を見つめた。


心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴っている。


鏡の中からこちらを見つめ返している女性は、まるで他人のようだった。小学一年生の生徒たちに振り回され、疲労困憊していた教師のエララではない。


借金取りから逃れ、薄い折りたたみマットレスの上で眠っていたエララでもない。


そこにいるのは、気高く、静かな威厳を纏い、そして……ひどく美しい女性だった。


計算されたネックラインが鎖骨の影を強調し、豊かに広がるスカートが、圧倒的な存在感を放ちながらも上品さを失っていない。


「完璧です」


私の背後から、ナタリーが満足げに呟いた。


「さあ、ご友人にもお見せしましょう」


試着室の扉が静かにスライドして開く。


私は、分厚い絨毯に裾を引っ掛けないよう、左手で少しだけドレスを摘み上げながら、ゆっくりと外へ足を踏み出した。


部屋の隅でマネキンの写真を撮るのに夢中になっていたサスキアが、こちらを振り向いた。


ドサッ。


彼女の手からスマートフォンが滑り落ち、絨毯の上に鈍い音を立てて転がった。


サスキアは口を半開きにし、まるで別次元から降臨した未知の生命体でも見るかのように、目を極限まで見開いている。


「嘘でしょ! エララ!」


サスキアの金切り声が、静謐なブティックの空気を切り裂いた。


「あんた、本当に宗教画から抜け出してきたみたいじゃない! 綺麗すぎるって、マジで! もう小学校の先生のレベルじゃないわよ、これ。地上に降り立った女神様よ!」


彼女は駆け寄ってくると、まだ信じられないという顔で私の周囲をぐるぐると回り始めた。


「ボスが見たら、その場で気絶するわよ! いや、ブティックの警備員の前で今すぐ結婚式始めろって言い出すかも!」


私は小さく吹き出した。彼女の恥じらいのない大げさな反応のおかげで、張り詰めていた緊張が少しずつ溶けていくのを感じる。


「でも、ナタリーさん」


サスキアは突然振り返り、わざとらしく深刻な顔でデザイナーを見つめた。


「これ、クリスタルがちょっと足りなくないですか? 胸元のところに、もっとスワロフスキーを足してくださいよ。エララはアークシロンのトップの妻になるんですよ! 遠くの敵の目も眩むくらい光らせないと! あのカミーユとかいう女が直視した瞬間、一時的に失明するくらいに!」


ナタリーはこめかみを押さえ、サスキアの突拍子もない要求に対して、必死にプロとしての表情を保とうとしていた。


「サスキア様、このドレスのコンセプトは『時代を超越するエレガンス』でございます。過剰なクリスタルは、せっかくの美しいシルエットを破壊してしまいます」


「えー、つまんないの」


サスキアは唇を尖らせたが、その視線は私のドレスから一秒たりとも離れなかった。


その時、入り口のベルが再び鳴った。


ちりん……。


一瞬だけジャカルタの熱気が入り込み、重い扉が閉まる音とともに再び遮断される。


サスキアの笑い声で満たされていたブティック前方の空気が、唐突に質感を失ったように静まり返った。


重く、一定のリズムを刻む足音が近づいてくる。


その足音の主を、私はよく知っていた。静かで、圧倒的な自信に満ち、声を荒げることなく周囲を支配する絶対的な権力者の歩み。


ディオだった。


フォーマルなジャケットは着ていない。清潔な白いシャツの袖を肘まで捲り上げ、左腕にはパテック・フィリップのノーチラスが落ち着いた光を放っている。


髪は少し乱れており、つい先程まで行われていたであろう重要な会議の疲労が、その端正な顔に微かな影を落としていた。


彼の足取りが、試着室の入り口でピタリと止まった。


沈黙が、空間を支配した。


ディオはそこに釘付けになっていた。乱れた髪を直そうと持ち上げられていた彼の手が、空中で完全に凍りついている。


漆黒の瞳が瞬きすら忘れ、象牙色のドレスに包まれた私の姿を、つま先から髪の毛一本に至るまで執拗にスキャンしていた。


彼の唇が微かに開き、言葉を失っているのが鏡越しに見えた。


彼が誇るあの冷徹なまでの冷静さが、完全に崩壊している。たっぷり十秒間、彼はただそこに立ち尽くし、まるでダルマワンサの街角に間違えて降り立った天使を幻視しているかのようだった。


サスキアが、空気を読む天才としての本能を発揮したのはその時だった。


彼女は、待ち針を持っていたナタリーの腕を強引に掴んだ。


「ナタリーさん! あっちの隅にあるドレスのボタン、なんか斜めになってる気がする! すっごい斜め! 今すぐ確認しないと! 緊急事態! 生死に関わる問題よ!」


サスキアは、ナタリーと二人のアシスタントを光の速さで部屋の外へと引きずり出し、私たち二人のための完全な密室を作り上げた。


無数の鏡に囲まれた空間に、私とディオだけが取り残された。


ディオが、ゆっくりと足を踏み出す。


その一歩一歩は、まるで深い水底を歩いているかのように重く、慎重だった。彼は私の背後で立ち止まり、巨大な鏡に映る私たちの姿を見つめた。


鏡の中の二人は、ひどく対照的だった。彼の纏う暗い影と、私の纏う純白。力と、柔らかさ。


ディオが身を屈め、露出した私の肩に静かに顎を乗せた。


彼の身体から発せられる熱が、薄いチュール越しに私の皮膚を焼き、全身の産毛が総毛立つ。


極めて近い距離。シトラスの爽やかさと、微かなコーヒーの深みが混ざり合った彼特有の香りが私を包み込み、圧倒的な絶対の安全圏へと私を引きずり込む。


温かく大きな手が私の細いウエストに回され、背中が彼の広い胸にぴったりと密着するまで引き寄せられた。


彼の親指が、シルクの生地をゆっくりと撫でる。それは、自分が所有するものへの、ひどく親密で独占欲に満ちた動きだった。


背中越しに、彼の心臓が狂ったような速さで鼓動しているのが伝わってくる。


ディオが私の耳元に唇を寄せた。


彼の熱い吐息が首筋の皮膚をくすぐり、私は反射的に目を閉じた。


「……分からないな」


彼のバリトンボイスはひどく低く、掠れており、私の足先まで震えさせるような響きを持っていた。


「あと二週間も、どうやって君を奪わずに耐えればいいのか。今すぐ、このまま君を連れ去ってしまいたい」


私は小さく息を呑んだ。


鏡に映る自分の顔が、信じられないほど赤く染まっている。ディオの腕の力がさらに強くなり、まるで私が幻ではなく、二度とどこへも消えたりしないことを確かめているようだった。


「本当に綺麗だ、エララ」


彼が再び囁いた。その声には、混じり気のない純粋な崇拝が滲んでいた。


「この騒がしすぎる世界には、君は美しすぎる」


私は彼の肩に頭を預け、鏡越しに彼の暗い瞳を見つめ返した。


無限の反射が続くこの部屋の中で、私はついに、自分が本当に存在するべき場所を理解した。


ブラウィジャヤの冷たい豪邸でもなく、埃っぽい学校でもない。


私の家族の借金を買い取り、それと引き換えに、私の魂に真の自由を与えてくれたこの男の腕の中こそが、私の帰る場所なのだ。

白いドレス、似合ってたかな。読んでくれてありがとう。ブックマークで応援してくれると嬉しいです。

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