第80章 偽りのない朝
――― エララ ―――
鏡に映る顔には、もうあの泥のような疲労感は張り付いていない。サーモンピンクのシルクブラウスの襟元を整える指先は、以前よりもずっと軽い。
この一週間は、まるで覚めない夢のようだった。
父の書斎の机に積まれた、あの忌まわしい赤いファイルの山を見て息が詰まることもない。レイ・ダルヴィアンからの、精神を削り取るような脅迫メッセージに怯える夜もない。今の私にあるのは、ディオからの「朝ご飯は食べた?」という穏やかな通知と、画面越しに舌足らずな声で笑うライラの姿だけだ。
深く息を吸い込む。ルームフレグランスの微かなバニラの香りが、肺の奥まで甘く広がっていく。自由というものには、こんなにも明確な匂いがあったのだ。
コツ、コツ。
大理石の階段を下りる靴音が響く。かつてはこの家全体を覆っていた重苦しい静寂は、もうどこにもない。
リビングに目を向けると、父がいつものソファに深く腰を下ろしていた。広げられた経済紙の向こう側にある瞳には、かつての逃避的な暗い影はない。頬には血の気が戻り、世界の重荷をすべて背負っているかのような両肩の強張りも解けている。
「おはよう、お父さん」
声をかけると、父は新聞を少し下げて、温かな、けれどどこかまだぎこちない微笑みを浮かべた。
「ああ、おはよう、エラ。今日は学校は休みだったな?」
「うん。ディオが知り合いを連れてきて、結婚式の打ち合わせをするって言ってたから」
私たちの間には、まだ薄いガラスのような緊張感が残っている。長年かけて壊れた家族の絆は、そう簡単には元通りにはならない。それでも、この家を漂っていた猛毒のような空気は、確かに浄化されつつあった。
少し離れた大理石のテーブルでは、母が上機嫌で白い百合を花瓶に生けている。その指先はまるで美術館の学芸員のように慎重で、顔には「理想の娘婿」を迎えるための華やかな光が満ちていた。
化石のように冷え切っていたブラウィジャヤ邸が、急に脈を打ち始めている。
午前十時。
ドロロロ……。
閑静な住宅街の朝の空気を、重厚で威圧的なエンジン音が切り裂いた。バッグを手に取ろうとしていた私の動きが、反射的に止まる。ただの乗用車の音ではない。
窓に歩み寄り、薄いレースのカーテンを少しだけ指で避けた。
漆黒の大型SUV——最新型のレンジローバーが三台、まるで軍事パレードのような完璧な陣形で前庭に滑り込んできた。磨き上げられた黒い車体に朝の光が鋭く反射し、暴力的なまでの威圧感を放っている。
三台のドアが、一糸乱れぬ動きで同時に開いた。
降りてきたのは、十数人の男たちだ。隙のない仕立ての黒スーツに身を包み、耳には通信用のイヤホン。手にはジュラルミンケースや、大きな図面のようなものを抱えている。ウェディングプランナーのスタッフなどではない。
どう見ても、紛争地帯を制圧しに来た戦術部隊だ。
「な、何なの、あの人たちは……?」
隣から覗き込んだ母の声が、微かに震えている。好奇心よりも警戒が勝っている証拠だ。
玄関のドアの前には、すでに父が硬い表情で立っていた。先頭の車から降りてきた一人の男が歩み寄るのを見て、父の額にじわりと冷や汗が滲むのが分かった。
レオンハルト・ヴェイル。
一点の乱れもなく撫でつけられた銀髪。仕立ての良さが遠目にも分かるチャコールグレーのスーツが、その長身と隙のない姿勢を包み込んでいる。彼は立ち止まり、まるで攻略すべき城の弱点を探るかのように、冷徹なプロの目でブラウィジャヤ邸の外観を値踏みした。
コツンッ。
レオンハルトの革靴が、ポーチのタイルを正確に叩く。
「おはようございます、ドウィジャヤ氏」
低く、絶対的な権力者の響きを持つ声だった。父の背筋が、条件反射のようにピンと伸びる。
「突然の訪問をお許しください。本日は、オペレーションの準備を開始するために参りました」
圧倒的な支配力。自分の家であるはずなのに、父はまるで面接会場に呼ばれた哀れな志願者のように小さく見えた。
私たちはメインリビングに集まった。手伝いのヤニさんが慌ててブラックコーヒーを出したが、その香りは、レオンハルトの部下たちが広げた真新しい書類のインクの匂いと、微かに漂う高級な白檀の香水に完全に呑み込まれていた。
バサッ。
大理石のテーブルの上に、巨大な図面が広げられる。それは結婚式のプランなどという生易しいものではなかった。空路のセキュリティ確保、三つの大陸から手配される専属ベンダーのリスト、そして超VIPゲストのための分刻みのプロトコル。
父が、乾いた喉を鳴らすように一度咳払いをした。
「あの、ヴェイル氏。費用のことなのだが……」
父は言葉を区切り、家長としての最後のプライドを振り絞るように言った。
「私も、娘の結婚式だ。オペレーション費用の一部を負担するための予備資金は用意してある。せめてもの、親としての務めを果たしたい」
セキュリティのグラフを指していたレオンハルトの指が止まる。彼はゆっくりと顔を上げ、極めて礼儀正しく、しかし致命的なほど冷酷な微笑を浮かべた。
「ドウィジャヤ氏。失礼ながら申し上げます」
静かで、刃物のように鋭い声だった。
「これは、アークシロン・ヘリテージ・キャピタルの『会長』の結婚式です。このプロジェクトの予算は『無制限』。すべての資金は、すでにニューヨークの本部から直接決済されております」
彼は優雅な手つきで、シャツの袖口を整えた。
「あなたの任務はただ一つ。当日そこに立ち、お嬢様の幸せな姿を見て微笑むこと。それだけです」
父は絶句した。その顔には、安堵と、底知れぬ無力感が入り混じっていた。数百万、数千万という父の申し出が、この途方もない資本の怪物の前では、道端の小銭以下の価値しかないと突きつけられたのだ。
「お義父さん、無理はしないでください」
聞き慣れた、落ち着いたバリトンボイスが玄関の方から響いた。
ディオだ。
彼は、レオンハルトが構築した息の詰まるような絶対的な階級空間を、いとも簡単に無視して歩み寄ってきた。そのまま父の隣に立ち、親しげにその肩を軽く叩く。
「全部俺がやりますから。お義父さんはゆっくり休んで、当日まで体調を崩さないようにしてください」
あまりにも自然な「お義父さん」という響きに、父は一瞬呆然とし、やがて目元を微かに潤ませて深く頷いた。
その横で、限界を迎えたのは母だった。
かつての、ステータスと虚飾を愛する病的な性質が、今度は「爆発的な誇り」となって顔を出したのだ。母は私にすり寄り、興奮しきった声で耳打ちしてきた。
「エラ、見た!? お母さん、今度の奥様会で絶対に自慢してやるわ! 私の娘婿は本物の大富豪だって! ほら、やっぱりお母さんの言った通り、お金を持ってる男を捕まえて正解だったでしょ!」
私は顔から火が出そうになり、母の腕をこっそりとつねった。
「お母さん、顔に出すぎ。ヴェイルさんのチームが見てるから、やめて」
しかし母は、かつて私を支配していた時とは違う、どこか甘えたような態度で言い返した。
「いいじゃない! 事実なんだから。ねえ、ディオさん。お母さん、お友達に少しだけ自慢してもいいわよね?」
ふっ、と。
ディオが低く笑った。その軽やかな音が、部屋の異様な緊張感を一瞬で溶かしていく。彼は悪戯っぽい目で私をちらりと見てから、母に向かって頷いた。
「ええ、お義母さん。構いませんよ。子供は親の言うことを聞くものですからね」
私は唇を尖らせた。絶対に、私がかつて親に反抗ばかりしていたことをからかっている。そのやり取りに、部屋の空気がふっと緩んだ。あの氷のように冷たいレオンハルトでさえ、この温かな家族の茶番劇を見て、微かに口角を上げていた。
やがて、レオンハルトは黒い革張りのバインダーを開き、父の前に差し出した。
「こちらが、ゲストのリストになります」
父がそれを受け取る。ページをめくった瞬間、父の指先が小刻みに震え始めた。
「こ、これは……大臣? 大使も……?」
父が息を呑む音が聞こえた。
「シリコンバレーの世界的企業のCEOまで、ここに名を連ねているのか……?」
それは、ジャカルタのしがない商社で何十年ももがいてきた父の想像を、はるかに超えるスケールだった。国際ニュースの見出しでしか見ないような名前が、私の結婚式の招待客として並んでいる。
レオンハルトは父に一歩近づき、その肩を軽く叩いて、極めて友好的な冗談を口にした。
「今日から、あなたはビジネスや監査における私の部下ではありません、ラフリ氏。あなたは、私のボスの『義理の父親』なのですから」
父は引きつったような、名誉と恐怖が入り混じった奇妙な笑い声を漏らした。そして、セノパティのカフェでいつも静かにコーヒーを淹れていたあの男が、その気になれば一つの国の経済を揺るがすことができる存在なのだと、今更のように気付いた顔でディオを見た。
その時。
レオンハルトがゆっくりと体の向きを変え、私の方を真正面から見据えた。
空気が、一瞬にして凍りつく。
レオンハルトは深く、極めて深く頭を下げた——最敬礼だ。彼の背後に控えていた十数人の黒スーツの男たちも、機械のような正確さで一斉に頭を下げる。
広大なリビングから、一切の音が消え去った。
「エララお嬢様」
レオンハルトの声には、絶対的な服従と敬意が込められていた。
「ドウィジャヤ・トレーディングのオフィスで初めてお会いした際の、私の冷徹な振る舞いをお許しください。あれはすべて、平穏な日常を望む『ある人物』の身分を隠し通すための措置でした」
レオンハルトが視線を動かすと、ディオが気まずそうに小さく咳払いをした。
「世界中でアトマンタ家に仕えるすべての者を代表し、ご結婚のお祝いを申し上げます……」
彼はまっすぐに私を見つめ、これまで見せたことのない、心からのプロフェッショナルな微笑みを浮かべた。
「……会長夫人」
胃の奥が、ぎゅっと収縮した。
恐怖ではない。あまりにも巨大で、現実離れした事実が、圧倒的な重みを持って頭上から降ってきたのだ。耳の奥で、自分の心臓の音がうるさいほどに鳴り響いている。その称号はあまりにも重く、壮大で、そして逃げ場のない現実だった。
私は、隣に立つディオを弾かれたように見上げた。
彼はただ、私に向かって小さく片目をつぶってみせた。
『俺の本当の世界へ、ようこそ』——その黒い瞳が、そう語りかけていた。
新しい称号、慣れるまで時間がかかりそう。読んでくれてありがとう。ブックマークしてくれると励みになります。




