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第8章 二階の静寂

挿絵(By みてみん)


 ジャカルタの空は、残酷なほどに晴れ渡っていた。


 強烈な太陽の光が、アスファルトを容赦なく焼き焦がしている。


 車のエアコンが唸りを上げ、冷たい風を送り続けていた。


 私はエンジンを切った。


 カチッ


 一瞬の静寂。


 バックミラーを引き寄せ、自分の顔を映し出す。


 髪は乱れていないし、化粧も崩れていない。


 ただ、瞳の奥に隠しきれない緊張が滲んでいた。


「落ち着いて、エララ。ただのランチよ」


 自分に言い聞かせるように、小さく呟く。


 大きく息を吸い込み、ドアを開けた。


 セノパティ通りの熱気が、一気に肌を包み込む。


 焼けたアスファルトの匂いと、目の前の建物から漂うコーヒーの香りが混ざり合っていた。


 カフェのガラス扉の前で、一瞬足が止まる。


 心臓の鼓動が、いつもより少しだけ速い。


 私は意を決して、扉を押し開けた。


 チリン!


 ドアベルの音が響き、冷房の涼しさと濃厚な豆の香りに包まれる。


 店内はランチタイムを楽しむ人々で賑わっていた。


 そして、案の定、彼らの目に留まる。


「おっ!こんにちは、先生!」


 隅の席から声が上がった。


 革ジャンを着た男と、その仲間たち。


 彼らは仕事をしていないのではないかと思うほど、いつもここに溜まっている。


「こんにちは……」


 私はぎこちなく応えた。


 無意識に、耳元の髪を指で弄る。


 落ち着かない時の悪い癖だ。


「ヒュー!昼間から一段と輝いてるね、先生!」


 別の男が茶化すように言った。


 言い返そうとしたその時、カウンターと厨房を仕切るカーテンが揺れた。


 ピンク色のワンピースを着た小さな影が、こちらに向かって走ってくる。


 サンダルがパタパタと床を叩く、軽快な音が響いた。


「先生!」


 私の顔から、自然と笑みが零れる。


 腰を落として、ギュッと握りしめてくる小さな手を包み込んだ。


「こんにちは、ライラちゃん」


 カーテンが再び開いた。


 そこに立っていたのは、ディオさんだった。


 グレーの無地のTシャツに、黒いエプロン。


 そこには「チーフ・ベビーシッター」という文字が刺繍されている。


 少し乱れた髪が、かえって彼に「父親」としての柔らかな雰囲気を与えていた。


「いらっしゃい、エラ先生」


 彼のバリトンボイスは、騒がしいカフェの中でも驚くほど穏やかに響く。


「お招きありがとうございます、ディオさん」


 平静を装って答えるが、周囲の視線が突き刺さるようで居心地が悪い。


「ヒューヒュー!アツアツだね、兄貴!」


 客の一人が冷やかしの声を上げた。


 ディオさんは小さく首を振り、口角を僅かに上げて苦笑いを見せる。


 彼はカウンターの横にある木製の扉を指差した。


「こちらへ。ここは少し騒がしすぎますから」


「先生、こっちだよ!」


 ライラちゃんが私の手を強く引く。


 テーブルの間を通り抜ける間、背後から冷やかしの口笛が聞こえた。


 私は聞こえないふりをして、足早に進んだ。


 ディオさんが仕切りの扉を開ける。


 バタンッ


 扉が閉まった瞬間、カフェの喧騒が嘘のように消え去った。


 静寂。


 隅にある冷蔵庫の低い稼働音だけが聞こえる。


 私は目を瞬かせ、周囲を見渡した。


 ここは二階へと続くプライベートな空間だ。


 整然と並んだ靴箱があり、バニラの芳香剤の香りが微かに漂っている。


「どうぞ、上がってください」


 ディオさんはエプロンを脱ぎ、扉の裏に掛けた。


 私たちは階段を上り、二階へと向かう。


 目の前に広がったのは、リビングルームだった。


 決して広くはないが、驚くほど居心地が良さそうだ。


 チャコールグレーのソファ、幾何学模様のカーペット、そして本がぎっしりと詰まった本棚。


 目に付くような派手な高級品はないが、置かれているものすべてに質の良さが感じられた。


 ライラちゃんは私たちを追い越して、部屋の隅にあるコンソールテーブルへ走っていく。


「パパ、おもちゃ片付けたよ!」


 誇らしげに報告する彼女の姿に、私は目を細めた。


 ふと、ライラちゃんが立っているテーブルの上に目が留まる。


 そこには、一つの写真立てが置かれていた。


 少しだけ傾いたフレームの中には、一人の女性が写っている。


 長い金髪に、目が眩むほど美しい微笑みを浮かべた外国人の女性。


 私の足が、自然と止まった。


 ライラちゃんのお母さん。


 胸の奥に、得体の知れない感情が走った。


 嫉妬ではない。


 ただ、突然突きつけられた「過去」の断片に、気圧されただけだ。


「エラ先生?」


 ディオさんの声に、ハッと我に返った。


 彼は階段の端に立ち、少し不思議そうに私を見ている。


「あ、すみません。なんでもありません」


 私は慌てて視線を逸らし、歩き出した。


 ダイニングスペースは、オープンキッチンと一体になった開放的な造りだった。


 白い大理石のカウンターが、窓から差し込む日光を反射して輝いている。


「ここに座ってください」


 ディオさんがチーク材の椅子を引いてくれた。


「ありがとうございます」


 私が席に着くと、ディオさんはライラちゃんを専用のクッション付きの椅子に座らせた。


 テーブルの上に並んだ料理を見て、私は思わず目を見張った。


 たっぷりのサクサクとしたスパイスの揚げ玉が載った鶏の唐揚げ。


 食欲をそそる真っ赤なサンバル・テラシ。


 香辛料で黄金色に焼き上げられたグラメに、新鮮な生野菜。


 香ばしい香りが鼻をくすぐり、お腹が小さく鳴りそうになる。


「……すごいですね。こんなにたくさん」


「大したことはありません。たまには家でゆっくり食べたいと思いまして」


 ディオさんは向かい側に座り、事もなげに言った。


 キッチンの方から足音が聞こえてくる。


 湯気が立ち上る大きなボウルを抱えた、中年の女性が現れた。


「ディオさん、鶏のスープをお持ちしました」


 女性は親しみやすい笑顔で言った。


「ありがとう、ヤニさん」


 ヤニさんがテーブルの中央にボウルを置く。


 透き通ったスープの中には、人参やジャガイモ、そして鶏肉がたっぷりと入っていた。


 彼女は私の方を向き、丁寧に頭を下げた。


「先生、どうぞ召し上がってください。温かいうちに」


「ありがとうございます、ヤニさん」


 私が答えると、彼女は頷き、そのまま階段の方へ戻ろうとした。


「ヤニさんは一緒に食べないんですか?」


 思わず口をついて出た。


 これだけの料理を作ってくれた人を差し置いて食べるのは、どこか申し訳ない気がした。


 ディオさんは私のグラスにミネラルウォーターを注いだ。


「ヤニさんは、お客さんがいる時は遠慮するんです。下で食べると言って聞きませんよ」


「下で?」


「ディマスと一緒にね」


 ディオさんが小さく笑いながら、ライラちゃんの皿に米を盛り付けた。


「ディマス……?」


「ああ、昨日『ボスの彼女が来た!』って騒いでいた、あの髪の長いバリスタですよ」


 あの騒がしい青年の顔が思い浮かんだ。


 私は思わず吹き出し、手の甲で口元を隠した。


「ああ……あの『広報担当』の方ですね」


 ディオさんは声を上げて笑った。


 その瞳が、悪戯っぽく細められる。


「その通りです。あまりにうるさいので、よく給料をカットしてやるんですがね」


 張り詰めていた空気が、一瞬で解けていく。


「さあ、食べてください。冷めてしまいますよ」


 私は頷き、スプーンを手にした。


 目の前には美味しい料理、穏やかな男性、そして愛らしい子供。


 一瞬だけ、実家の重苦しい問題や、空っぽの口座のことを忘れられそうな気がした。


「いただきます!」


 ライラちゃんの元気な声が、静かな部屋に響き渡った。

Thank you very much for reading to the end.

As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.

If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.

Your feedback is a great encouragement for my writing.


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