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第79章 初めての呼び名

挿絵(By みてみん)


――― エララ ―――


白いホンダ・シビックのタイヤが、カフェ・アークスの敷地に敷き詰められたブロックをゆっくりと踏みしめた。


エンジンを切る。低い振動音が消え、冷房の効いた車内に静寂が降りた。デジタルダッシュボードの時計は、午後四時ちょうどを表示していた。


窓の外のセノパティ通りは蒸し暑そうだ。昨夜の雨の名残である水たまりに、鋭い西日が反射している。


私はハンドルの後ろで、数秒間じっと座っていた。


二階建ての店舗のファサードを見上げると、胸の奥で奇妙な感情の渦が巻くのを感じた。ブラウィジャヤ邸での長い夜の残滓が、まだ神経の端にこびりついている。


昨日、私は家族から逃げてきた逃亡者としてここに来た。現実から身を隠すために四百万ルピアで雇われた、ただの家庭教師として。


だが今日は違う。残りの人生を共に生きてほしいと、あの人に額にキスされた女としてここに来たのだ。この家の、次期女主人として。


温かいさざ波が、胃の奥から胸へとこみ上げてくる。


薄灰色の瞳をした小さな女の子の反応を想像すると、急に心臓が早鐘を打ち始めた。私は大きく息を吸い込み、その鼓動をどうにか落ち着かせようと試みた。


車のドアを開け、外に降り立つ。


ジャカルタの熱気が即座に肌を打ったが、足取りは羽のように軽かった。水色のブラウスのシワを伸ばし、身だしなみが整っていることを確認してから、ガラスのドアへと歩き出す。


カラン、カラン。


陽気なベルの音が響く。挽きたてのコーヒー豆の香りが、一瞬にして肺を満たした。今やこの香りは、私にとって「帰る場所」の公式な定義となっている。


バーカウンターの奥では、ディマスが湿った布で大理石の表面を拭いていた。私の姿を捉えた瞬間、その動きがピタリと止まる。


彼は布をエスプレッソマシンの横に放り投げた。


長髪の青年は背筋をピンと伸ばし、右手をこめかみに当てて、ひどく大げさな軍隊式の敬礼をした。


「お疲れ様です、我らが女王陛下!」


わざとらしく張り上げた声が店内に響き渡る。


「申し訳ありません、レッドカーペットはまだクリーニング中でして! 本日はこちらの木の床でご容赦ください!」


私は思わず吹き出した。肩にこわばっていた緊張が、一瞬にして空中に溶けていく。どうやら私の新しい身分は、このカフェのスタッフの間ではすでに公然の秘密となっているらしい。


「うるさいわよ、ディマス。そんな大声出したら、お客さんが逃げちゃうでしょ」


私は首を横に振りながら彼を通り過ぎ、プライベートエリアへと続く横のドアに向かった。


「お客さんは大丈夫ですよ! 大ボス様の心が、もうどこかへ逃げ出したりしなければね!」


背中越しに飛んでくるからかいの言葉に、私はただ満面の笑みを浮かべるだけだった。言い返す気にもなれない。


一階のパブリックエリアと二階への階段を隔てる、重い木のドアを押し開けた。


階段を上るたび、靴音が静かに響く。


ここには魔法のような空間の境界線がある。エスプレッソマシンの音やディマスの笑い声が遠ざかり、代わりに分厚い静寂が私を包み込んだ。


二階の廊下に出ると、溶けたバターと焼けたチョコレートの甘い匂いが漂ってきた。ビ・ヤニさんがオーブンから何かを取り出したばかりなのだろう。


ドアの近くにあるコンソールテーブルに仕事用のバッグを置き、グレーのソファと毛足の長いラグが主役のリビングルームへと足を踏み入れる。


すり足のような足音が、清潔なキッチンの方から聞こえてきた。


ディオだった。


昨夜私の肝を冷やしたトム・フォードのスーツ姿ではない。広い肩幅を強調する無地の白いTシャツに、膝丈のダークカラーのショートパンツ。


その姿はあまりにも家庭的で、無防備で。なぜだか、完璧に着飾っている時よりもずっと、私の心の防壁を脅かしてくる。


漆黒の瞳が部屋の中央に立つ私を見つけると、彼の顔に大きな笑みが広がった。


それは純粋な安堵の笑みだった。まるで、昨夜の出来事が疲労のあまり見た美しい夢ではなかったと、今ようやく確信できたかのような。


ディオは躊躇うことなく、私に向かって歩み寄ってきた。


逞しい腕が私の腰を抱き寄せ、彼の広い胸にぶつかるまで引き寄せる。私が言葉を発するよりも早く、彼は顔を伏せ、私の額に深く、長いキスを落とした。


私は目を閉じ、彼の唇の温もりが肌に浸透していくのを感じた。


「おかえり。俺の未来の妻」


顔のすぐ前で囁かれる。そのバリトンは低く掠れていて、私たちの間の空気を震わせた。


顔がカッと熱くなる。心臓が再び肋骨を激しく叩き始めた。


「……心臓に悪いから、やめてください」


私は小さく呟き、赤くなった顔を彼の首筋に一瞬だけ埋めてから、そっと身を引いた。


ディオは低く笑った。私の手を取り、グレーのソファに並んで座るように促す。


太ももが触れ合うほど、私たちは密着して座っていた。仕事用のスラックスの生地が彼の露出した脚の肌と擦れ、伝わってくる熱に少しだけ落ち着きを失う。


私はうつむき、膝の上で自分の指をきつく握りしめた。先ほど消え去ったはずの緊張感が、再び私を支配し始める。


「ライラちゃん、本当に分かってくれるでしょうか……」


押し殺した声で尋ねた。


「もしショックを受けたら? もしかして……自分のお母さんの代わりを作られるって、嫌がったりしないでしょうか」


ディオは顔を向けた。私の落ち着きのない指をほどき、冷たくなった両手を、彼の大きくて温かい手のひらで包み込む。


彼の親指がリズミカルに動き、私の手の甲を優しく撫でた。その大きな体躯とは対照的な、繊細な手つきだった。


「あの子は賢い子だよ、エララ」


絶対的な確信を込めた瞳で、ディオは私を見つめた。


「それに、君も気づいているだろう。俺がプロポーズする勇気を持つずっと前から、あの子はすでに君を選んでいたんだ。心配はいらない」


ギィッ。


廊下の方から聞こえた蝶番の音が、私たちの会話を遮った。


パタ、パタ、パタ。


小さな足音がフローリングを叩く。ライラが寝室から駆け出してきた。昼寝のせいか、茶色い髪があちこちに跳ねている。


左手には、耳のあたりが少し薄汚れたぬいぐるみのボボをしっかりと抱きしめていた。


ソファから二メートルほど離れた場所で、小さな足がピタリと止まる。


澄んだ薄灰色の瞳が瞬き、父親と先生の顔を交互に見つめた。子供特有の鋭い直感が、この部屋に漂う普段とは違う空気を即座に読み取ったのだ。


彼女の視線が、いつもなら広げられているはずの折りたたみテーブルを探す。だが、そこには何もない。教科書も、色鉛筆も。


そして何より奇妙なのは、目の前にいる二人の大人の顔が、優しい光を帯びながらも、ひどく真剣だったことだ。


「おいで」


ディオが呼んだ。自分の膝の上の空いたスペースを軽く叩く。


ライラは素直に従った。すり足でゆっくりと近づき、父親の膝の上によじ登る。ディオの胸に背中を預けるように横向きに座ったが、その視線は不思議そうに眉をひそめたまま、私から離れなかった。


「先生、今日は本、持ってないの?」


寝起きの少し掠れた声で、無邪気に尋ねてくる。


私は生唾を飲み込んだ。喉が急にカラカラに乾いている。


「今日はね、お勉強はお休みなの」


声が震えないように、必死に制御しながら答えた。


ディオが後ろからライラのお腹に腕を回す。娘の小さな肩に顎を乗せ、彼女にとって世界で一番安全な防護壁を作り上げた。


「ライラ」


ディオの声は静かに、とても慎重に紡がれた。


「パパと先生から、ライラにとても大切な話があるんだ」


小さな女の子は首を傾げ、至近距離から父親の顔を見上げた。


「大切な話?」


ディオは短く息を吸い込んだ。


「来月からね、先生はもう、おじいちゃんたちの家には帰らないんだ。サスキアおばさんの家にも泊まらない」


エアコンの冷たい風が、ふと止まったような気がした。私は息を止め、心臓が止まりそうな思いでライラの反応を見つめていた。


ライラは反対側に首を傾けた。困惑したように瞬きをする。


「それって……先生、ずっとここにいるの? 毎日?」


胸を締め付けられるような純真さで、彼女は尋ねた。


ディオは娘の薄灰色の瞳をまっすぐに見つめ返した。そこに一切の迷いはない。


「ああ」


力強い声だった。


「パパと先生は、結婚するからね。先生はずっと、私たちと一緒に暮らすんだ」


ディオは言葉を切った。一瞬だけ顔を上げ、泣くまいと下唇を噛み締めている私を見つめ、そして再び娘へと視線を戻す。


「……先生は、ライラのママになるんだよ」


時間が、極限まで遅くなったように感じた。


完全な静寂がリビングルームを包み込む。外のセノパティ通りを行き交う車の音さえ、このガラスの壁を通り抜けることはできなかった。


ライラの丸い目が、限界まで見開かれる。小さな口がわずかに開いた。


ポスッ。


腕の中から、柔らかい塊が滑り落ちた。ぬいぐるみのボボが、音もなく毛足の長いラグの上に落ちる。


小さな体は硬直していた。彼女は今、これまでの人生でずっと空席だった一つの言葉を処理しているのだ。


昨日、見知らぬ女が金切り声で叫び、彼女を恐怖のどん底に突き落としたその言葉。それが今、自分が熱を出した時にいつも頭を撫でてくれた、大好きな人のものになった。


一秒。二秒。三秒。


何の前触れもなかった。ライラはディオの膝から飛び降りた。


その小さな体が宙を舞い、全力で私の胸に飛び込んでくる。


私は息を呑み、危うく後ろに倒れそうになりながらも、咄嗟にその体を受け止めた。小さな両腕が私の首にきつく巻きつき、溢れんばかりの愛情で私を締め付ける。


ストロベリーのシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった瞬間、腕の中の小さな体が激しく震え始めた。


きつく抱きしめられたまま、ライラが顔を上げる。


ふっくらとした頬にはすでに涙が溢れ、顎へと伝い落ちていた。顔は真っ赤に染まっている。


嬉し泣きでひび割れた、甲高い声。彼女が発したそのたった一言が、私の中に残っていた最後の防壁を完全に打ち砕いた。


「ママ……っ」


私の世界は一度崩壊し、そして、以前よりもずっと美しい形に組み直された。


嗚咽が漏れた。もう堪えることなどできず、涙が止めどなく溢れ出す。私は持てるすべての魂を込めて彼女を抱きしめ返し、その柔らかい髪に顔を埋めた。


「そうよ……そう。ママはここよ」


胸を締め付けるような歓喜の涙の中で、私はうわ言のように繰り返した。


隣で、静かな気配が動いた。


ディオが身を乗り出してきた。彼の長く逞しい腕が伸び、私とライラを同時に包み込む。彼は私とライラをその広い胸の中に引き寄せ、どんな嵐にも決して破られることのない、絶対的な温もりで私たちを包み込んだ。


ライラの肩越しに、ディオが顔を伏せるのが見えた。


冷徹な企業エリートたちから恐れられるその男は、赤くなった自分の目尻を、手の甲で密かに拭っていた。


このグレーのラグの上で。歓喜の嗚咽と、互いを強く抱きしめる腕の中で。家族の絆は今、永遠のものとして刻み込まれた。


もうカミーユの影はない。レイの脅威も届かない。ここにあるのは、ディオと、ライラと、私だけ。


欠けることのない、一つの家だった。



ついに呼んでもらえましたね。涙なしでは読めない章です。読んでくれてありがとう。ブックマークしてくれると嬉しいです。

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