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第78章 塗り替えられる夜

挿絵(By みてみん)


――― エララ ―――


ダッシュボードの冷たいデジタル時計が、午後九時ちょうどを示している。


黒い高級SUVの密閉された車内は、外の凍てつくようなジャカルタの雨を完全に遮断していた。


いつもの、あの目立たない白いコンパクトカーではない。


分厚い本革のシートに深く沈み込んでいると、隣に座る彼がこれまで纏っていた「平凡なカフェのマスター」という精巧な偽装が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていくような錯覚に陥る。


夕方に数時間の仮眠をとったことが功を奏したのか、ハンドルの奥に見えるディオの横顔は、静かな鋭さを完全に取り戻していた。


無精髭の影は消え去り、アイロンの行き届いた濃紺のシャツが、彼の広く逞しい肩を包み込んでいる。


その完璧な横顔から、どうしても目を逸らすことができなかった。


後部座席では、ライラがご機嫌な様子で、プレミアムスピーカーから流れる静かなジャズのメロディに合わせて小さな足を揺らしている。


ヴィーン。


膝の上に置いていたスマートフォンが短く震え、心地よい静寂を破った。


画面には、サスキアからのメッセージが表示されている。


ルームミラー越しに、ディオがちらりと後ろを一瞥した。


雨に濡れたリアウィンドウの向こうには、サスキアが運転する私の白いホンダ・シビックのヘッドライトが、忠実な犬のように一定の距離を保って追従している。


ロックを解除してメッセージを開くと、思わず小さな笑みが漏れた。


『マジでただのお抱え運転手なんですけど。前の車でイチャイチャしてるのを見せつけられて、慰謝料請求していい?』


「お友達、また何か文句を言っていますか?」


前を向いたまま、ディオの端正な唇がわずかに弧を描いた。


「ええ。精神的苦痛に対する正当な補償を要求されています」


私は笑い泣きの絵文字だけを素早く打ち込み、画面を伏せた。


車は滑らかにカーブを曲がり、ブラウィジャヤ邸の高い鉄門をくぐった。


ほんの数週間前まで、私を絶望の淵に追いやっていたあの冷たく重苦しい豪邸が、今夜は嘘のように明るく照らされている。


電気代の支払いすら滞っていたあの暗闇の記憶が、温かい光によって上書きされていく。


玄関の広いポーチには、すでに家族全員が揃って私たちを待ち構えていた。


父はかつての威厳を保とうと背筋を伸ばしているが、その肩からは、重くのしかかっていた借金という憑き物が落ちたような深い安堵が滲み出ている。


隣に立つ母は、ここ数年の作り笑いではない、十歳は若返ったような心からの満面の笑みを浮かべていた。


アルナ姉さんが小さく手を振り、ナタン義兄さんはスラックスのポケットに手を入れて、いつも通りリラックスした様子で立っている。


エンジンが静かに停止し、私たちが車を降りるのとほぼ同時に、シビックを停めたサスキアが小走りで近づいてきた。


「はいはい、大物たちの恋愛株主総会はこちらですよ!」


パンッ。


サスキアは一度だけ大きく手を叩き、特有の軽快なテンポで場を仕切り始めた。


彼女はナタン義兄さんの足元に隠れていた甥のプトラと、ディオの隣に立つライラの前にしゃがみ込む。


「ライラちゃん、プトラくん。お姉さんと一緒にテレビの部屋に行こっか。新しいおもちゃ、今すぐ開けちゃおう!」


きらっと。


ライラの薄灰色の瞳が、期待に大きく輝いた。


彼女は今日初めて会ったばかりのプトラの手を、何の躊躇いもなくしっかりと握る。


「行く! 早く見たい!」


サスキアは手品のような鮮やかさで、ほんの数秒のうちに子供たちを別の部屋へと避難させた。


大人だけの、そして極めて重要な会話のための空間が、完璧に整えられた。


私たちは促されるまま家の中へと足を踏み入れる。


メインのリビングルームのソファに腰を下ろした瞬間、部屋の空気が一変した。


私はディオの隣に座り、両親と正面から向き合っている。


隣に座るこの男は、今日の午後、カフェの冷たい床で見たあの脆く傷ついた姿とは全くの別人だった。


背筋は完璧な直線を描き、広い肩が揺るぎない自信を放っている。


極めて礼儀正しく座っているにもかかわらず、部屋の空気を完全に支配するような、息苦しいほどの重厚な気配。


これは、ただの裕福な実業家の放つオーラではない。


何千人もの人間の運命を指先一つで左右する、絶対的な権力者の顔がそこにあった。


ディオは、父の目を真っ直ぐに見据えた。


一切の躊躇いも、無駄な前置きもない。


「ラフリさん、インディラさん」


ディオの低いバリトンボイスが、重く、そして深い敬意を伴ってリビングに響き渡った。


「この数週間、ご家族に多大な混乱とご心労をおかけしたことを、深くお詫び申し上げます。ですが、私の目的はただ一つ、エララさんの安全を確実なものにすることでした」


彼はそこで言葉を切り、あえて沈黙を置くことでその場の空気を支配した。


ちらりと私の方を向き、その漆黒の瞳で私を射抜く。


胃の奥が熱く締め付けられ、甘い痺れが全身を駆け巡るような感覚に襲われた。


「エララさんを幸せにするためなら、私は自分の持てるすべてを差し出す覚悟です」


ドキンッ。


「どうか、お嬢さんを私の妻として迎えることを、お許しください」


リビングの空気が完全に凍りついた。


私の心臓だけが、痛いほどの速さで肋骨を内側から叩き続けている。


父は沈黙していた。


目の前の男の底知れぬ覚悟を測るように、じっとディオを見つめている。


かつて会社を守るために私をレイに売り渡そうとした父。


その取り返しのつかない過ちと後悔に苛まれてきた父の顔に、やがて、ゆっくりと柔らかな笑みが広がった。


「私が守れなかったこの子を、君がどうやって守り抜いてくれたか……私は、この目で見ていました」


父の声は、少しだけ掠れていた。


そして、深く、力強く頷く。


「娘を頼みます、ディオ君。どうかもう二度と、あの子が理不尽なことで涙を流さないように、守ってやってほしい」


その言葉が空気に溶けた瞬間、張り詰めていた感情のダムが決壊した。


「ああ、エララ……!」


母が弾かれたように立ち上がり、テーブルを回り込んで私を強く抱きしめた。


かつては虚栄心と焦燥感にまみれていた母のジャスミンの香水が、今はただ、傷ついた心を癒やす温かい毛布のように私を包み込む。


アルナ姉さんも横から歩み寄り、私たち二人をまとめて抱え込んだ。


私は母と姉の背中に腕を回し、溢れ出る熱い涙を止めることができなかった。


母の震える肩越しにディオを見ると、彼はただ静かに、ひだまりのような優しさで微笑んでいた。


ありがとう、と。声に出さずに唇だけを動かして伝える。


しかし、その涙を誘う感動的な空気は、長くは続かなかった。


ナタン義兄さんが一歩前に出て、ディオの肩を遠慮なくポンと叩いた。


「いやあ、大した度胸だ」


義兄さんは、わざとらしく肩をすくめて笑った。


「僕がアルナさんにプロポーズした時なんて、緊張で冷や汗が止まらなくて、シャツが背中に張り付いてたよ。一般人のふりをしてる大富豪様は、やっぱり肝の座り方が違うな」


わははっ。


父の大きな笑い声が、高い天井に響いた。


「この騒がしくも手のかかる家族へようこそ、義弟よ」


ナタン義兄さんが差し出した手を、ディオがしっかりと握り返す。


重苦しかった空気が嘘のように溶け去り、私がずっと渇望していた、ごく普通の家族の温もりが部屋を満たしていた。


温かいジャスミンティーと茶菓子が運ばれ、会話は和やかな未来の話へと変わる。


「それで、結婚の時期はいつ頃を考えているんだい?」


父がティーカップを置きながら尋ねた。


ディオは少し身を乗り出し、膝の上で長い指を組む。


「これ以上、引き延ばすつもりはありません。お許しいただけるなら、二ヶ月後に」


「二ヶ月ですって!?」


母がむせ返り、目を限界まで丸くした。


「ディオさん、いくらなんでも急すぎるわ! ケータリングの選定は? 装花は? なにより会場よ! そんな短期間で、まともなホテルが押さえられるわけないじゃない!」


パニックに陥る母を見て、ディオは口角をわずかに上げた。


彼の視線が、ゆっくりと私に向く。


それは、絶対的な力を持つ者だけが浮かべることのできる、静かで残酷な自信に満ちた目だった。


「会場なら、すでに決めてあります」


ディオの静かな声が、波立つ空気を一瞬で凪にさせた。


「グランド・ハイアットの、あのボールルームで挙げます」


息が止まった。


あの場所。


レイとの婚約発表が行われ、そして私の尊厳が無惨に踏みにじられたあの空間。


私にとって、屈辱と恐怖、そして操作された絶望の記憶が染み付いた呪われた場所。


ディオの真っ直ぐな目を見て、私は彼の意図を完全に理解した。


彼はただ、空いている便利な場所を選んだわけではない。


これは彼なりの、圧倒的な力の誇示であり、狂気的なまでの保護欲の表れだった。


私の最悪の記憶を、私たちの完全なる勝利の記憶で塗り替える。


私が誰のものであるかを、世界に対して見せつけるために。


ディオの顔に浮かぶ揺るぎない決意を見て、家族は誰一人として反論できなかった。


母もただ、この男の決めたことには逆らえないと悟ったように、静かに、しかし安堵の溜息とともに頷くしかなかった。


夜は更け、日付が変わる頃、ディオはついに帰路につくことになった。


私たちは玄関の重い木製ドアの前に立っている。


両親は気を利かせて、すでに奥の廊下へと消えていった。


遠くの部屋からは、新しい遊び相手を見つけてはしゃぐライラの高い笑い声が微かに聞こえてくる。


ディオが私の前に立ち、少しだけ身をかがめて距離を詰めた。


彼の温かい吐息が、夜の冷気に冷やされた私の頬を優しく撫でる。


「次は、ウェディングドレスの試着で会いましょう」


かすれた、甘く危険な声が耳元をくすぐった。


顔が一気に熱くなるのを感じる。


私は恥ずかしさにうつむきながらも、幸せを噛み締めるように小さく頷いた。


「気をつけて、帰ってね」


ちゅっ。


ディオの熱い唇が私の額に長く触れ、魂の奥底まで染み込むような確かな熱を残していった。


長く苦しかった嵐は、今夜完全に過ぎ去った。


明日はきっと、雲ひとつない澄み切った空が待っている。



嵐の後の静けさ、感じてもらえたかな。読んでくれてありがとう。ブックマークで応援してくれると嬉しいです。感想とか、雑談とか、X で気軽に話しかけてね。→ x.com/mrnoxvane

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