第77章 雨上がりの誓い
――― エララ ―――
ディオの太い指が、私の手を痛いほど強く握りしめている。
数分前まで私たちを窒息させかけていた絶望の残滓が、カフェ・アークスのフロアから嘘のように引いていく。まるで嵐が過ぎ去った後のような、奇妙な高揚感が空間を満たしていた。
彼は、アドレナリンが直接血管に流れ込んだように落ち着きがなかった。蒼白な顔と目の下の濃い隈はそのままなのに、内側から溢れ出す焦燥感が彼を突き動かしている。私の手を絶対に離そうとしないまま、彼は乱れたシャツの襟を引き下げ、空いた片手でパニックに陥ったようにズボンのポケットをまさぐり始めた。
「車の鍵……鍵はどこだ?」
エスプレッソマシンの周囲を鋭い視線を走らせながら、彼は早口で呟く。
その異様な空気を、入り口のドア枠に寄りかかっていたサスキアが即座に察知した。親友であり、完璧な空気を読む天才である彼女のスイッチが入る。サスキアは足音を立てずに歩み寄ると、私の腰に顔を埋めていたライラに向かって明るく声をかけた。
「さあ、ライラちゃん。おばちゃんと一緒に遊ぼうか!」
サスキアは有無を言わさず、その小さな体を軽やかに抱き上げる。
突然体が宙に浮いて小さく息を呑んだライラだったが、サスキアに脇腹をくすぐられると、すぐにきゃあ、きゃあと笑い声を上げた。
「パパと先生には、少しだけ内緒のお話をさせてあげようね。おばちゃんのタブレットに、新しい猫のゲームが入ってるんだけど、見る?」
「見る!」
サスキアは私に向かって、片目を閉じてウィンクしてみせた。この場は完全に制圧したという、彼女なりの暗号だ。そのままライラを抱えてカフェの奥のコーナーへと消えていく。ディマスとビ・ヤニさんもその意図を完璧に汲み取り、気配を消して厨房の奥へと下がっていった。
フロアには、私と彼だけが残された。
「あった」
エスプレッソマシンの影から鍵を掴み取ると、ディオは振り返り、私の手を引いて出口のドアへ向かって歩き出そうとする。
私はその場に立ち止まり、繋がれた手にぐっと体重をかけて、彼の大きな背中を引き留めた。
「待って。どこに行くの?」
ディオは、まだ『CLOSED』の札が掛かったままのガラスドアを指差した。
「君の実家だ。今すぐ結婚を申し込む」
その声はひどく切羽詰まっていた。もし今この瞬間にそれを実行しなければ、世界が崩壊してしまうとでも信じ込んでいるかのように。
私は静かに、けれどきっぱりと首を振った。自分でも驚くほど、穏やかで絶対的な母性のようなものが、私の内側を支配していた。
「だめよ」
ディオの太い眉が、混乱に寄せられる。
「なぜ? 君はさっき——」
「まずは休んで」
私は彼の言葉を遮り、空いている方の手を伸ばして、彼の顎に触れた。伸びかけた無精髭の、ざらりとした感触が指先に伝わる。
「自分の顔を見て、ディオ。まるで幽霊みたいよ。両親への挨拶なら、夜になっても逃げたりしないわ」
「でも、エララ——」
これ以上の反論を許すつもりはなかった。私は彼の指の間に自分の指を深く絡ませ、突然大人しくなったこの大きな男を、出口から遠ざけるように引っ張った。
「上に行くわよ」
静かな、けれど絶対の命令。
冷徹な交渉術で恐れられるアークシロン・ヘリテージ・キャピタルの会長は、今はただの疲れ切った一人の男として、私に手を引かれるまま二階へと続く階段を上り始めた。
無人のカフェスペースを抜け、重厚な暗い色の木製ドアを押し開ける。
部屋に入った瞬間、エアコンの冷たい空気が火照った頬を撫でた。階下の感情的な喧騒とは対照的な、完璧に整頓された静寂の空間。
私は厚い絨毯の上を歩き、シーツの皺ひとつないキングサイズのベッドの縁まで彼を導いた。
ディオはベッドの端に腰を下ろす。彼の重みで、マットレスが微かに沈み込んだ。それでも彼は私の手を離そうとせず、両手で私の小さな手を包み込むように握りしめている。
「エララ……」
彼が見上げてくる。その漆黒の瞳には、不釣り合いなほどの怯えが揺れていた。
「やっぱり、今すぐ出発しよう。これが夢なんじゃないかと怖いんだ。君が正気に戻って、気が変わってしまう前に……今すぐ君を縛り付けておきたい」
胸の奥を、鋭い痛みが締め付ける。これほどの権力と富を持ちながら、私を失うことだけをこれほどまでに恐れている。その脆さが、たまらなく愛おしかった。
私はフラットシューズを脱ぎ捨て、絨毯の上に落とす。そして、彼の両膝の間に一歩踏み込み、シャツ越しに伝わる硬い胸板に両手を当てた。
力を込める必要すらなかった。軽く押し込むだけで、限界を迎えていた彼の体は抗うことなく後方へと倒れ込み、シーツの上に沈んだ。
「寝て、ディオ」
彼を見下ろしながら、私は優しく囁く。
「私はどこにも行かないから」
私もベッドに上がり、横たわる彼の傍らに膝を折りたたんで座った。
緊張が解け、少しだけ柔らかくなったその顔を見ていると、自然と笑みがこぼれた。手を伸ばし、彼の厚い黒髪をゆっくりと、一定のリズムで撫で始める。
至近距離に近づいたことで、彼の首元から白檀と柑橘が混ざり合った、深く男らしい香りが微かに漂ってきた。
私の手のひらの感触は、魔法のように効いた。必死に開けていようとしていたディオのまぶたが、徐々に重力に負けて落ちていく。
目を閉じたまま、彼は体を横に倒し、私の方へと寝返りを打った。太く逞しい腕が私の腰に巻きつき、独占欲を隠そうともせずに引き寄せる。彼は私の膝の近くに顔を埋め、激流の中で命綱にしがみつくように、深く息を吸い込んだ。
部屋を満たすのは、エアコンの微かな駆動音と、彼の規則正しい呼吸の音だけ。
「ごめん……」
不意に、彼の唇から震えるような呟きが漏れた。
「本当に……一生後悔するような真似をするところだった」
私の手が、一瞬だけ止まる。階下で見た、あの冷たい銀色のアタッシュケースの記憶が蘇り、心がちくりと痛んだ。けれど、もうその痛みを掘り返すつもりはない。
私は再び手を動かし、先ほどよりもさらに深い優しさで、彼の髪を梳いた。
「もういいの。その話は終わり」
彼を蝕む罪悪感を、言葉で断ち切る。
「大切なのは、今私たちがここにいるってこと。だから今は休んで。昨日の夜から、一睡もしていないんでしょう? 自分のエゴのために、これ以上自分を痛めつけないで」
ディオは、私の膝に顔を埋めたまま小さく頷いた。
快適な室温、静寂、そして髪を撫で続ける一定のリズム。それらがついに、彼の肉体的な限界の壁を完全に崩れ去らせた。強張っていた肩の力が抜け、呼吸が深く、重いものへと変わっていく。
意識が完全に夢の世界へと引きずり込まれる直前、彼の唇が微かに動き、消え入るような声で言葉を紡いだ。
「ごめん……俺が間違ってた……嫌わないでくれ、エル……」
視界が滲んだ。
世界を買える男が、ただ私に嫌われることだけを恐れて震えている。その事実が、私の中にあった最後の迷いすらも、跡形もなく焼き尽くしてしまった。
私は身をかがめ、彼の耳元に唇を寄せる。
「嫌うわけないわ」
その声が、彼の無意識の底まで届くことを祈りながら。
私は顔を傾け、彼の温かい額に長く唇を押し当てた。それは、私からの完全な許しの印だった。
彼の呼吸が完全に安定し、深い眠りに落ちたことを確認してから、私はゆっくりと体を起こした。腰に巻きついた彼の腕を極めて慎重に外し、代わりに抱き枕を滑り込ませる。彼はそれを抱きしめ、小さく寝息を立てた。
音を立てずにベッドを降り、セノパティの通りを見下ろす大きな窓へと歩み寄る。
外の雨はすっかり上がり、夕暮れの空が澄んだ青を取り戻し始めていた。私はポケットから、ずっと無視し続けていたスマートフォンを取り出す。
連絡先から一つの名前を探し出し、発信ボタンを押した。
呼び出し音が二回鳴ったところで、電話は弾かれたように繋がった。
『エラ!? どこにいるの!? 大丈夫なの!? お母さんから電話があって、あなたとディオが揉めてるって……』
アルナ姉さんのパニックに陥った声が、鼓膜を打つ。
私は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめて微笑んだ。ひどく疲れた顔をしていたけれど、その瞳には、もう隠しきれないほどの確かな光が宿っている。
「問題ないわ、お姉ちゃん」
私の声は、羽のように軽かった。
『よかった……! で、今はどこにいるの?』
私は肩越しに振り返り、ベッドで静かに眠る大きな背中を見つめた。
「ディオの部屋よ。それよりお姉ちゃん、準備しておいて」
『準備って?』
「今夜、彼がうちに来るわ。私にプロポーズするために」
電話の向こうで、一秒だけ完全な沈黙が落ちた。
次の瞬間、鼓膜が破れそうなほどの歓声と悲鳴が爆発し、私は思わずスマートフォンを耳から遠ざけた。アルナ姉さんの弾けるような笑い声が、長く苦しかったこの一日の終わりに、ようやく見つけた確かな未来の約束を祝福してくれていた。
嵐の後の静けさ、感じてもらえたかな。読んでくれてありがとう。ブックマークで応援してくれると嬉しいです。次もよろしく。




