第76章 帰る場所
――― エララ ―――
荒れ狂う嵐の中で、ようやく見つけた錨のようだった。
首筋に触れるディオの息遣いが、小刻みな震えから徐々に深く、穏やかなリズムへと変わっていく。厚手のトレンチコートに染み付いた冷たい雨の匂いと、微かなミントの香りが鼻先をかすめた。
カフェの一階を、重く、けれど温かい静寂が包み込んでいる。
誰も言葉を発しない。ディマスも、ヤニさんも、サスキアでさえも、床に散らばりかけた心を拾い集めるための見えない空間を私たちに与えてくれていた。
目を閉じ、自分と同じ速さで打ち鳴らされる彼の鼓動に耳を澄ませる。大柄で、どんな困難にも動じないはずのこの人が、今はまるで私を唯一の命綱であるかのように強く抱きしめていた。
「先生!」
甲高く、甘えん坊な声が静寂を破った。
ぱた、ぱた、ぱた……。
木製の階段を急いで下りてくる小さな足音。びくっと肩が跳ねる。名残惜しさを振り切るようにディオの胸から身を離し、手の甲で乱暴に目元を拭った。
埃の積もった床に膝をつき、両腕を大きく広げる。
少しサイズの大きいウサギ柄のパジャマを着たライラが、最後の段を飛び降りた。不安げだった小さな顔が、朝日のような明るい輝きを取り戻している。
どんッ。
勢いよく飛び込んできた小さな体を受け止める。きつく抱きしめると、サラサラの髪から甘いイチゴのシャンプーの香りがした。
視界の隅で、ディオがその光景を見下ろしているのが分かった。込み上げる感情を抑え込むように胸を上下させ、その黒い瞳を再び潤ませている。世界のすべてが元通りになった奇跡を噛み締めるように、彼は喉仏を大きく動かした。
腕の中で、ライラが顔を上げる。不満そうに小さな唇を尖らせ、子供特有の抗議の目を向けてきた。
「先生、どこに行ってたの? パパ、急に遠くに行くって……」
ディオの足元に置かれた二つの銀色のスーツケースをちらりと見てから、ライラは再び私を見つめた。
「先生がいないなら、ライラ、行きたくない! 先生を置いていくパパなんて、嫌だもん」
その純粋な訴えに、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。この子にとって、自分がどれほど大きな存在になっていたのか。父親に反発してまで、私を求めてくれる。
再び視界が滲んだ。けれど今度は、痛みからくる涙ではない。指先まで満たされるような、確かな温もりだった。
「パパはもう、どこにも行かないよ」
小さな背中を、落ち着かせるようなリズムで優しく撫でる。
「みんな、ここにいる。誰も置いていかないし、どこにも行かないからね」
顔がよく見えるように、少しだけ腕の力を緩めた。ライラはじっと私を見つめ返し、頬に残る涙の痕に気づいて小さな眉をひそめる。
「どうして泣いてるの?」
不安に揺れる、混じり気のない灰色の瞳。
少し掠れた声で、できるだけ明るく笑いかけた。
「嬉しくて泣いてるの。今日、またライラちゃんに会えて、すごく嬉しいから」
小さな手が伸びてきて、柔らかい親指が私の頬をそっと拭う。
「先生、悲しいの? パパが悪いことした? パパが先生を泣かせたの?」
ディオの方を睨みつけるライラの姿に、思わず吹き出しそうになった。
「ううん、違うよ。感動してるだけ。パパは全然悪くないよ。むしろ、世界で一番優しい人」
その言葉を聞いて、ライラの顔にパッと希望の光が差した。乳歯の並んだ可愛らしい笑顔が弾ける。
「じゃあ……先生、明日も来てくれる? またボボと一緒に、お勉強したり遊んだりできる?」
カフェの空気が、ふっと止まった。
無邪気な問いかけが宙に浮き、私たち三人の未来を決める確かな答えを待っている。
ライラの頭を撫でる手を止め、ゆっくりと顔を上げた。すぐそばに立つディオを見上げる。彼は息を詰め、すがるような目で私の唇から紡がれる言葉を待っていた。
再びライラに視線を戻す。迷いのない、はっきりとした声で、心の中で温めていた爆弾を落とした。
「遊びに来るだけじゃないよ」
自分自身の勇気に、頬がカッと熱くなるのを感じた。
「これからは……先生も、ライラちゃんと一緒に住むの。パパとも、一緒に」
ディオの目が限界まで見開かれた。
常に冷静で隙のない彼が、口を半開きにして言葉を失っている。まるで、私が夜空から星を摘み取り、彼の手のひらにそっと乗せたかのような顔だった。
げほっ、ごほっ!
部屋の隅で、ディマスが自分の唾でむせ返る音がした。黒いエプロンで口元を覆い、必死に動揺をごまかしている。その横では、ヤニさんが両手で口を強く押さえ、堪えきれない嬉し泣きに肩を震わせていた。
そして当然、サスキアがこの劇的な静寂を長く許すはずがなかった。
「よっしゃあ、そうこなくっちゃ!」
入り口のドアに寄りかかっていた親友が、お祭りの爆竹のような大声を上げた。
ぱち、ぱち、ぱち!
盛大な拍手をしながら、ずかずかと歩み寄ってくる。
「ディオさん、早く日取り決めなよ! 気分屋の親友が心変わりする前にさ! 早くしないと売り切れちゃうよ! ハグだけじゃなくて、ちゃんと指輪も用意しなきゃね!」
サスキアの容赦ない野次に顔から火が出そうになったが、決してうつむきはしなかった。ライラから体を離して立ち上がり、服の皺を軽く伸ばす。
ディオを真っ直ぐに見つめた。
見栄も恐怖もすべて脱ぎ捨てた、むき出しの愛情。(覚悟はできてる?)と挑発するような視線で。
ディオの顔から驚きの色が波のように引いていき、代わりに、失いかけた命を取り戻した男の深く安堵した笑みが浮かんだ。その黒い瞳には、揺るぎない決意の光が宿っている。
彼は銀色のスーツケースをその場に置き去りにし、一歩前に出て、私の手を力強く握りしめた。
「分かった」
低く響くバリトンボイスには、かつての圧倒的な威厳と確信が戻っていた。
「それなら……今すぐ、君のご両親に挨拶に行こう」
二人の新しい始まりです。温かい気持ちになってくれたら嬉しいです。ブックマークで応援してくださいね。いつもありがとう。




