第75章 氷雨の終着駅
――― エララ ―――
キィッ、キィッ
フロントガラスを乱暴に引っ掻くワイパーの音が、車内の息詰まるような沈黙を切り裂いていた。
サスキアの運転は狂気を孕んでいた。クラクションの抗議を無視し、濡れたアスファルトの上を滑るように車線変更を繰り返す。前方を走る車の赤いテールランプが滲んで見えた。瞬きすら惜しかった。
シートベルトを握りしめる両手は、指の関節が白くなるほど、強く握りしめている。肺の奥底に鉛が詰まったように、浅い呼吸しかできない。
脳裏に焼き付いているのは、冷たい空港の出発ゲート。銀色のスーツケースを引き、二度と振り返らないディオの広い背中。その想像だけで、今すぐ心臓が止まりそうだった。
「もっと早く、キア。お願い」
震える声が唇からこぼれ落ちる。
「これ以上踏んだら、セノパティじゃなくて病院行きよ!」
サスキアは前方を睨みつけたまま、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。
無情にも時間は過ぎていく。雨に濡れた夜の闇が、私の大切なものを飲み込もうとしていた。
キーッ!
鋭いブレーキ音と共に、車がカフェ・アークスの駐車場に乱暴に滑り込んだ。シートベルトが胸に食い込む。
窓越しの景色に、血の気が引いた。
いつも温かな光とコーヒーの香りに包まれていた場所は、死んだように暗かった。街灯の薄暗い光が、ガラス扉の向こうで傾いた「CLOSED」の木札を墓標のように照らし出している。
エンジンが止まるのも待たず、ドアを押し開けた。
冷たい夜風と雨粒が顔を打ち据える。そんなものはどうでもよかった。
水たまりを蹴立てて、薄暗い店舗の入り口へと走る。結露したガラスの向こうに、微かな人影が動くのが見えた。
全身の体重をかけて、重い扉を押し開ける。
からん、からん
場違いに明るいベルの音が、吹き込む雨風の音と混ざり合って店内に響き渡った。
敷居を跨いだ瞬間、足が床に縫い付けられた。息が上がり、濡れた前髪が額に張り付いている。
サスキアが後ろに続き、逃げ道を塞ぐ門番のようにドアフレームに寄りかかった。
バーカウンターの前に、ディオが立っていた。
漆黒のロングトレンチコートを纏ったその姿は、私の知る温厚なカフェのマスターではない。冷酷で手の届かない、アークシロンの会長としての姿。足元には、無機質な銀色のスーツケースが二つ並んでいる。
キャリーハンドルに伸ばしかけていた彼の大きな手が、空中でぴたりと止まった。
視線が絡み合う。その瞬間、彼が被っていた分厚い氷の仮面が、音を立てて崩れ落ちた。
少し離れた場所で、ヤニさんがヒジャブの端で顔を覆い、分厚い茶色の封筒を胸に抱きしめて嗚咽を漏らしている。ディマスは血走った目で立ち尽くし、カウンターに置かれた退職金の封筒から目を逸らしていた。
視線を下げ、スーツケースを確認し、再び黒いコートを見つめる。道中で必死に縋っていた「何かの間違いだ」という希望が、粉々に砕け散った。
「あなた……」
絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「本当に、行っちゃうの?」
ディオの喉仏が、苦しげに上下に動いた。
世界中の企業を震え上がらせるはずの男が、今は怯えた子供のように視線を彷徨わせている。私と目を合わせることすらできない。
「エララ……俺は……」
掠れた低い声。その先が続かない。
深く、重い溜息。
「すまない」
「……すまない?」
一歩、前へ踏み出す。限界まで堪えていた涙が、熱い線となって冷え切った頬を伝い落ちた。
「それだけ? 私を置いて消えようとしておいて、言えるのがそれだけなの!?」
悲鳴のような声が、静まり返った店内に響いた。悲しみと、混乱と、行き場のない怒り。
ディオは微かに手を持ち上げた。私に触れたいのに、触れる資格がないとでも言うように。
「聞いてくれ。俺がここにいれば、君の人生を壊すだけだ。俺は君を騙し続けていた。俺は——」
「だから逃げるの!?」
ディマスやヤニさんの目など、もうどうでもよかった。目の前の、この大馬鹿な男のことしか考えられない。
「ニューヨークに逃げ帰るの!? 卑怯者みたいに、全部放り出して!」
『卑怯者』という言葉に、ディオの肩がビクッと跳ねた。
「君を守るためだ——」
「自分のエゴを守るためでしょ!」
距離を詰め、震える両手で彼の広い胸を叩いた。力なんて入っていない。ただの絶望の塊だった。
「バルコニーで言った言葉は全部嘘だったの!? お金で何でも解決できると思ってるから、あんなこと言えたの!?」
ディオは逃げなかった。私の弱々しい拳を、ただ黙って受け止めている。
視界が涙で完全に滲む。呼吸がうまくできない。
「私の家だって言ったじゃない! 一緒に乗り越えるって言ったじゃない!」
喉の奥が焼け付くように痛い。
「たった一度の嵐で、スーツケースをまとめるの? 私は……私は、引き止める価値もない女だったの? そんなに簡単に捨てられるの!?」
その悲痛な問いかけが、彼の最後の理性を断ち切った。
ばっ
強い力で腕を引かれ、次の瞬間、息が止まるほど強く抱きしめられていた。
太い腕が背中を締め付け、大きな手が私の後頭部を包み込む。彼の顔が、私の首筋に深く埋められた。
「愛してる……」
耳元で囁かれた声は、ひどく震えていた。
シトラスと深煎りコーヒーの香りが、雨の匂いと混ざり合って鼻腔を満たす。彼の熱い吐息が肌に触れ、分厚い胸板が小刻みに震えているのが伝わってきた。
「自分の命よりも。狂おしいほど、君を愛してる」
骨が軋むほど強い抱擁。それでも、離してほしくなかった。
「君を傷つけたくなかった。ライラにも、これ以上嘘をつきたくなかった。もしこの決断が間違っているなら……どうか許してくれ」
ディオは溺れる者が必死に空気を求めるように、私の髪に顔を押し当てて深く息を吸い込んだ。
「怖かったんだ、エララ……君が真実を知った時、どうすればいいか分からなかった」
その声に滲んでいたのは、絶対的な権力者にはあるまじき、純粋な恐怖。
「君に憎まれるのが、恐ろしかった。軽蔑の目で見られるくらいなら、いっそ君の前から消え去る方がマシだと思ったんだ」
その不器用で、あまりにも脆い告白を聞いた瞬間。胸の中で渦巻いていた怒りが、嘘のように溶けて消えた。
この巨大な男は、ただ過去の裏切りに深く傷ついた、臆病な一人の人間に過ぎなかったのだ。失うことを恐れるあまり、自分から手放そうとするほどに。
涙が堰を切ったように溢れ出す。彼の胸を叩いていた手を広げ、その広い背中に腕を回した。
トレンチコートの冷たい生地を、指が白くなるほど強く握りしめる。
「行かないで……」
彼の胸に顔を埋めたまま、しゃくり上げた。
「私を置いていかないで。嘘をつかれて怒ってるし、あなたの正体にも混乱してる。でも、お願い……私の人生から消えないで」
ディオはきつく目を閉じた。私の髪に、温かい雫が落ちるのを感じた。
彼は私の頭頂部に何度もキスを落とした。後悔と、深い祈りを込めるように。
「……行かない」
低く、確かな響き。
胸の奥から響くその声は、この世界のどんな契約書よりも重い、絶対の誓いだった。
「もうどこにも行かないよ。俺の愛しい人」
薄暗いカウンターの隅で、ディマスが黒いエプロンの端で目を擦り、安堵の笑みを浮かべていた。ヤニさんは口元を覆いながら、嬉し泣きに肩を揺らしている。
そして入り口では、ドアフレームに寄りかかったサスキアが腕を組み、小さく首を振っていた。
「やっとか……ほんと、世話の焼けるバカな二人」
やっと二人が向き合えました。読んでくれてありがとう。ブックマークしてもらえると、すごく励みになります。また次章で。




