第74章 大理石の上の真実
――― エララ・ドウィジャヤ ―――
目の前の磁器のカップからは、もう湯気が上がっていない。
紅茶は濃く濁り、天井から傲慢に吊り下げられたクリスタルシャンデリアの光を静かに反射している。
私はその水面を見つめ、震える指が大理石のテーブルに触れるたびに生じる小さな波紋の中に、答えを探そうとしていた。
今日のブラウィジャヤ邸は、ひどく広く、それでいて息が詰まるほど狭く感じられる。
中央空調から吹き出す冷気が肌を刺すが、私の頭の中は昨日グランドハイアットのロビーで爆発したパズルの破片で熱を持っていた。
母が纏うジャスミンの香水の香りが部屋に充満している。
いつもなら窒息しそうな不快感を覚えるその香りが、今は砂上の楼閣のようなこの世界で唯一の「現実」のように思えた。
私は今、ひと吹きで崩れ去るカードの山の上に座っているような気分だ。
父は私の向かいに座り、ビジネス新聞をゆっくりと置くと、読書用の眼鏡を外した。
明るい照明の下で、父の顔の皺は以前よりも深く刻まれているように見える。
突然の帰宅と腫らした私の目を見て、父は無言で説明を求めていた。
「エラ、一体どうしたんだ?」
父の声が静寂を破る。重々しく、威厳に満ちた声。
「ディオ君と喧嘩でもしたのか?」
私は苦虫を噛み潰したような思いで、唾を飲み込んだ。
舌が強張り、言葉が喉に詰まった石礫のように感じられる。
冷たい酸素を肺いっぱいに吸い込み、私はついに、その事実を打ち明けた。
「ディオ……彼は、ベクター・ホールディングスのオーナーだったのよ、お父様」
一瞬で、時が止まった。
隅に置かれた古い時計の刻む音さえ消えたかのようだった。
父は絶句し、眼鏡のツルを持つ手がかすかに震えている。
信じられないという思いと、明らかな混乱が混ざり合った視線が私に突き刺さる。
「ディオ君が? ベクター・ホールディングスのオーナーだと?」
父は短く笑った。それは不自然で、無理に絞り出したような乾いた笑いだった。
「エラ、冗談はやめなさい。ベクター・ホールディングスがシンガポールの巨大投資会社であることは知っているだろう。数兆ルピアの資産を持つ組織だぞ」
父は首を振った。
「セノパティで小さなカフェを営んでいる男が、そのオーナーであるはずがない」
私は笑わなかった。
父を真っ直ぐに見つめ、瞳に宿る真剣さが言葉以上に多くを語るのを待った。
「昨日、グランドハイアットでゲイリー・ヴェイルに会ったわ。お父様の会社を今、実質的に管理している男よ」
こめかみの鼓動が激しくなるのを感じながら、私は言葉を繋いだ。
「カミーユに会った時、ゲイリーもそこにいた。お父様の会社の息の根を止めることも生かすこともできるあの男が、ディオの右腕だったの」
私は一度言葉を切った。
「ゲイリーは私の問いに直接は答えなかった。でも、あの沈黙……ディオの正体を尋ねた時のあの沈黙が、何よりの答えだったわ」
父は黙り込んだ。
ソファに深く背を預け、私の背後にあるチーク材の本棚を虚ろに見つめている。
父の瞳の奥で、高速で思考が回転しているのが分かった。
ディオとのこれまでのやり取りを、父は頭の中で計算し直しているのだ。
レイの脅しを前にしても動じなかったあの冷静さ。
私たちの社会的地位に一度も気圧されることのなかった態度。
そして、ドウィジャヤ・トレーディングの負債が魔法のように他人の手に渡ったあの不可解な経緯。
「では……」
父の声は弱々しく、囁きのようだった。
「私がこれまで『質素』で『幸運な男』だと思っていた人物が……実際には私の首を絞めている張本人だったというのか?」
隣の席で黙って紅茶を啜っていた母が、ゆっくりとカップを置いた。
いつもなら傲慢で要求の多い母の顔が、今はどこか柔らかく見える。
母は立ち上がり、私の隣に座り直した。
温かい感触が、私の頭に触れた。
母が私の髪を優しく撫でる。
私がまだ幼かった頃にしかしてくれなかった、稀有な愛情の表現。
「彼には、理由があったのかもしれないわよ」
母の声は穏やかで、毒が含まれていない。
「結論を出す前に、本人に直接説明を求めたらどうかしら」
その言葉に、私の防波堤が崩れた。
溜め込んでいた涙が溢れ出し、熱い頬を伝い落ちる。
私は両手で顔を覆い、突然虚無感に襲われた豪華なリビングで、静かに声を殺して泣いた。
「怖いの、お母様」
泣きじゃくりながら、私は本音を漏らした。
「彼にとって、私は単なる『買収すべき資産』に過ぎないんじゃないかって。彼の優しさも、守ってくれたことも、全部計画の一部だったんじゃないかって」
私は顔を上げ、涙で霞む視界で母を見た。
「彼の愛が、精巧に組み立てられたシナリオの一部だったら? もう彼の口から出る言葉のどれを信じていいのか分からない。どれが真実で、どれが戦略なのか、どうやって見分ければいいの?」
母は深い眼差しで私を見つめた。
偽りに満ちた世界で酸いも甘いも噛み分けてきた、一人の女性の目だった。
母は私の手を握り、力を込めた。
「エララ、聞きなさい」
母の口調は静かだが、断固としていた。
「もしディオが本当にベクター・ホールディングスのオーナーなら、それほどの富と権力を持つ男が、わざわざあなたにホットチョコレートを作ったり、学校まで迎えに行ったりする必要なんてないわ」
母は親指で私の頬の涙を拭った。
「お父様の会社を買い叩きたいだけなら、電話一本、あるいは弁護士やゲイリーのようなアシスタントに命じるだけで済むはずよ。自分の顔を晒す必要さえない」
母の言葉が続く。
「カフェで子供と遊んだり、あなたの愚痴に耳を傾けたりして時間を無駄にする必要もない。ビジネスは氷のように冷たいものよ、エラ。でも、彼があなたに見せたものは……温かかった。それは本物よ」
私は言葉を失った。
母の論理が、カミーユに会ってから築き上げていた疑念の壁に亀裂を入れる。
バルコニーで私を見つめていたディオの瞳。
私が怯えていた時に抱きしめてくれた腕の強さ。
世界が崩れ落ちそうになった時、いつも隣にいてくれた彼。
あれらすべてを、偽装できるだろうか。
私を抱きしめた時の、あの激しい鼓動さえも、企業戦略の一部だというのか。
しかし、邪推が再び脳裏をよぎる。
カフェで私を嘲笑ったカミーユの残像が、耳元で囁く。
『あなたは彼の新しいおもちゃに過ぎないのよ』
「でも、どうして最初から正直に言ってくれなかったの?」
私は絞り出すような声で尋ねた。
「おそらく、彼は『会長』としてではなく、『ディオ』として愛されたかったんだろう」
父が突然、口を開いた。そこには新しい理解の色があった。
「お前が『ドウィジャヤ・トレーディングの娘』としてではなく、『一人の教師』として認められたかったのと同じようにな」
私の心が揺れ動く。
父と母の言う通りかもしれない。
彼はただプライバシーを守りたかったのか、あるいは彼の正体がもたらす重圧から私を守りたかったのか。
けれど、騙されていたという痛みは、まだ胸の奥で疼いている。
その時だった。
バタンッ!
ブラウィジャヤ邸の正面玄関が、凄まじい勢いで叩きつけられるように開いた。
その衝撃音が家中に響き渡る。
私たち三人は驚いて飛び起き、一斉にドアの方を振り返った。
サスキアが、肩で息をしながら飛び込んできた。
髪は乱れ、顔は怒りと疲労で赤く染まっている。
ヘルメットを脱ぐ暇さえなかったのか、シールドを跳ね上げただけの姿だ。
彼女の鋭い視線が、真っ直ぐに私を射抜いた。
「サスキア? 一体どうしたの?」
私はパニックになりながらソファから立ち上がった。
サスキアは父と母の驚愕の視線を無視して突き進み、震える手で私の肩を掴んだ。
「おじ様、おば様、すみません。今すぐこの娘を拉致させていただきます」
サスキアは私を睨みつけた。
「エララ! 今すぐ来い!」
彼女の声は掠れ、切迫していた。
「キア、落ち着いて。何があったの?」
「落ち着いてる暇なんてないのよ!」
サスキアは私の体を激しく揺さぶった。
「ディオさんよ、エラ! あの人、行っちゃうわ! 今夜の便でニューヨークへ発つって!」
心臓が跳ね上がった。周囲の酸素が突然消えたような感覚に陥る。
「カフェを閉めて、ライラを連れて消えるつもりよ!」
「……え?」
声が出なかった。
「あの人、諦めたのよ、エララ! あんたに嫌われたと思って、あんたの人生から永遠に消えようとしてるの!」
サスキアが私の腕を強引に引く。
「今すぐ来なさい! じゃないと、一生後悔することになるわよ!」
心臓が狂ったように鼓動を刻む。
ディオを失うという恐怖が、先ほどまで感じていた怒りや裏切られたという思いを、一瞬で飲み込んでいった。
私は父と母を振り返った。許可を求めるまでもなかった。
「行きなさい、エラ」
父が力強く言った。
「しっかり話し合って、彼を連れ戻すんだ」
二度目の言葉を待つことなく、私はバッグを掴んでサスキアの後を追った。
パニックの残響が渦巻くブラウィジャヤ邸を飛び出し、夜の闇へと駆け出した。
家族が動き出しました。最後まで読んでくれてありがとう。ブックマークしてもらえるとうれしいです。またね。




