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第73章 偽りの看板

挿絵(By みてみん)


――― サスキア・プトゥリ ―――


スクーターのエンジン音が、セノパティの街に残る霧雨を切り裂いていく。


マフラーが時折、抗議するように乾いた音を立てた。


午後の空気は重く、湿り気を帯び、アスファルトの匂いが鼻を突く。


いつもなら、韓国ドラマでも見ながらベッドで丸まっていたいような天気だ。


けれど、今の私の目の前には、どんなドラマよりも残酷で息苦しい現実が横たわっている。


カフェ・アークスの角を曲がる。


普段なら、十メートル先からでも心地よいアコースティックギターの音色が聞こえてくるはずだった。


それなのに、今日は……。


静かすぎる。


鳥肌が立つような、不自然な静寂。


私はバイクのエンジンを切った。


軒先から舗石に滴り落ちる雨音だけが、耳障りに響く。


視線の先、大きなガラス扉。


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


内側から斜めに掛けられた、茶色の木製プレート。


そこに刻まれた「CLOSED」の文字が、まるで敗北を宣言するように私を拒絶していた。


「嘘でしょ……」


ヘルメットも脱がず、私は扉へと駆け寄った。


ガラスに顔を押し付け、暗い店内を覗き込む。


いつも客で賑わっていた木製の椅子は、無機質にテーブルの上へ積み上げられていた。


磨き上げられていたはずのエスプレッソマシンは、黒い布に覆われている。


まるで、葬儀を待つ棺桶のように。


私は拳を固め、ガラスを激しく叩いた。


ドン、ドンッ! ドン、ドンッ!


「ディオさん! ディマス! 誰かいないの! 開けて!」


叫び声が、誰もいない通りに虚しく反響する。


私はさらに激しく叩き続けた。


通りすがりの人に借金取りだと思われても構わない。


「ディオさん! 開けてください! サスキアです!」


狂ったように叫び続けて、2 分が経っただろうか。


二階へ続く階段から、人影がゆっくりと降りてくるのが見えた。


その足取りは、一歩一歩が耐え難い重荷であるかのように、ひどく緩慢だった。


内側から鍵が回される。


カチリ、という金属音が、ひどく冷たく響いた。


扉が、わずかに開く。


私は絶句した。


そこに立っていたのは、私の知っている「ディオさん」ではなかった。


いつも黒のポロシャツを完璧に着こなし、控えめな微笑みを浮かべていた「イケオジ」の影さえない。


しわくちゃの黒いシャツ。


無造作に開けられた襟元。


目は赤く充血し、それは怒りではなく、幾晩も眠れなかった絶望の色を宿していた。


そして、何よりも衝撃だったのは。


鼻を突くような、鋭いタバコの臭い。


ディオさんはタバコを吸わないはずだ。


ライラちゃんの周りの空気を、誰よりも大切にしていた人なのに。


今の彼からは、染み付いたニコチンの臭いと、重苦しい諦念が混じり合って漂っていた。


「エララは、ここにはいないよ。キア」


掠れた声。


言葉の端が、ボロボロに崩れていた。


「いないことくらい分かってます! 彼女はブラウィジャヤの家で、引きこもって修行僧みたいになってるんだから!」


私は扉を押し開け、強引に中へと踏み込んだ。


ディオさんは抵抗しなかった。


ただ力なく後退し、冷え切ったカフェの中に私を招き入れた。


ヘルメットをカウンターに叩きつけ、私は彼を鋭く睨みつけた。


「ディオさん、説明してください。それも、たっぷりとね」


彼はバーカウンターの裏へと回った。


コーヒーを淹れる様子はない。


ただ、冷たい大理石の天板に両手を突き、俯いて自分の影を見つめていた。


「彼女は……全部知ったんだね?」


ディオさんが呟く。


「私が何者なのか。アークシロンのことも」


私は短く頷いた。


ディオさんはゆっくりと顔を上げ、私を射抜くような視線を向けた。


それは、彼が今まで必死に隠してきた、鋭く冷徹な「支配者」の眼差しだった。


「ええ。あなたがアークシロン・ヘリテージ・キャピタルの会長だってこと。ベクター・ホールディングスがあなたの会社の一つだってことも、全部」


ディオさんは深く息を吐き、再び視線を落とした。


「じゃあ……あのパテック・フィリップの時計の話、本当だったんですね?」


私の声が、震えていた。


「あなた、本当に……本物の『セレブ』だったんだ」


ディオさんは笑った。


乾いた、聞いているこちらが痛くなるような笑い。


「失敗したセレブだよ、キア。身分を隠したのは、トラウマがあったからだ。貧乏だと思われて捨てられた過去のせいで、臆病になってしまったんだ。エララには、ただの『ディオ』として愛してほしかった。毎朝コーヒーを淹れる、ただの男として。彼女の父親の借金を買い取る会長としてではなくね」


彼はカウンターの縁を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。


「だが、間違っていた。真実を隠すことで、私は彼女の人生を弄ぶ演出家のように見えてしまった。今のエララの目には、私は守護者なんかじゃない。金で彼女の忠誠を買った、卑怯な詐欺師に映っているはずだ」


「でも、あなたは彼女の家族を救った! あのレイを追い出したじゃないですか!」


「汚いやり方でね。彼女の基準では」


ディオさんが言葉を遮った。


「彼女は誠実さを何よりも重んじる女性だ。私はその土台を、自らの手で粉砕してしまったんだよ」


私は言葉を失った。


目の前にいるのは、頑丈な鍵を素手で壊すような強い男ではない。


自分のプライドとエゴに押し潰され、今にも崩れ落ちそうな、一人の脆い人間だった。


「時間をあげてください、ディオさん。エララはただ驚いてるだけです。自分の彼氏が、その気になれば街一つ買い占められるような人だってことを、整理する時間が必要なだけなんです」


冗談めかして言ってみたが、凍りついた空気は一向に溶けなかった。


ディオさんは背筋を伸ばし、しわくちゃのシャツを整えた。


「時間は……もうないんだ。キア」


心臓の鼓動が速くなる。


「どういう意味ですか?」


「行くよ。今夜。ニューヨークへ」


私は呆然とした。


「はあ!? ニューヨーク!? 逃げるつもりですか!?」


「逃げるんじゃない。あるべき場所に戻るだけだ」


ディオさんの声は、感情を削ぎ落としたように平坦だった。


「私がここにいるのは、エララの人生にとって毒でしかないんだ。彼女はようやく家族と和解し、愛する仕事も持っている。私がここに留まれば、彼女は私が作り出した『恩義』という重荷に一生縛られ続けることになる」


彼はカウンターの下から一通の封筒を取り出し、私の方へ差し出した。


「ゲイリーがすべてを処理する。ライラの転校手続き、この店の売却……すべてだ。ライラに『先生が戻ってくる』なんて偽りの希望を持たせて苦しめたくない。そして、エララの前に顔を出し続けて、これ以上彼女を傷つけたくないんだ」


私はその封筒を、恐ろしいものを見るような目で見つめた。


本当に諦めるというのか。こんなに、あっさりと。


「ディオさん、正気ですか? あなた、百獣の王でしょ? たった一度のすれ違いで、地球の裏側まで尻尾を巻いて逃げ出すつもり!?」


怒りが込み上げてきた。


「エララはあなたを愛してる! 彼女が欲しいのは説明であって、置き手紙じゃない!」


ディオさんは私を見つめた。


その瞳の奥に、私は深い傷跡を見た。


かつての裏切りが、彼の「無条件に愛される自信」を根こそぎ奪ってしまったのだ。


関係に亀裂が入った瞬間、捨てられる前に自分から手を離してしまう。それが彼の防衛本能だった。


「はあ……。休んでくださいよ、ボス。そんなにボロボロじゃ、せっかくのイケメンが台無しです」


私はついに、力なくそう言った。


心を閉ざしてしまった男を説得することほど、無駄なことはない。


ディオさんは小さく頷いた。


「気にかけてくれてありがとう、キア。……彼女を、頼む」


私は答えなかった。


ヘルメットをひったくるように掴み、墓場のように静まり返ったカフェを飛び出した。


スクーターを走らせ、渋滞の始まりかけたジャカルタの街を突き進む。


昼下がりの風が顔を叩くが、胸の中の熱い塊は消えなかった。


ヘルメットの中で、私は叫んだ。


「もう! あのバカップル! 片方は部屋に引きこもって、片方はアメリカに高飛び!? 二人まとめて叩き直してやりたい!」


アクセルをさらに回す。


目的地は一つ。ブラウィジャヤの屋敷だ。


巨大な門をぶち破ることになろうと、あの高慢なインディラ夫人が立ちはだかろうと、知ったことか。


エララに伝えなきゃいけない。


あのバカな男の飛行機が飛び立ち、彼女のたった一つの幸せを連れ去ってしまう前に。


サスキアが動き出しました。ここからが本番です。ブックマークで応援してくれるとうれしいです。いつもありがとう。

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