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第72章 崩壊の残響

挿絵(By みてみん)


――― ディオ・アトマンタ ―――


モニターの光が、暗い室内で冷たく拍動している。


視線の先には、オーヴァン・グローバルの株価チャートが映し出されていた。


急降下する赤い線は、まるで深く切り裂かれた傷口から溢れ出す鮮血のようだ。


かつて私を裏切り、嘲笑った者たちの破滅。


本来ならば、この光景は極上の美酒よりも私を酔わせるはずだった。


だが、今の私にとって、画面上で明滅する兆単位の数字は無価値な記号に過ぎない。


ザ・ノードの空気は、いつも以上に肌を刺す。


サーバーの熱を抑えるために設定された十六度の静寂。


その冷気が、防音壁を通り抜けて私の骨の髄まで浸食し、思考を凍りつかせていく。


ジ、ジ……。


デスクに置かれた黒いガラスのスマートフォンが、短く震えた。


密閉された空間に響くその振動音は、まるで不吉な警笛のように私の鼓膜を叩く。


私は、重い腕を伸ばしてそれを手に取った。


画面には「ゲイリー・ヴェイル」の名が表示されている。


「……ああ、ゲイリーだ」


自分の声が、ひどく掠れていることに気づく。


長い間、言葉というものを忘れていたかのような、重苦しい響きだった。


「ご報告いたします、会長」


ゲイリーの声は、いつものように冷静で、無機質だった。


その効率的な響きが、今の私には皮肉なほど遠く感じられる。


「国際線の搭乗ゲートにて確認が取れました。カミーユはすでに出国審査を終えています。彼女を乗せたパリ行きの機体は、10 分前に離陸しました。今夜、彼女がインドネシアの地を離れたことは間違いありません」


私は、肺の奥に溜まった熱い空気をゆっくりと吐き出した。


胸を圧迫していた重石が、一つだけ取り除かれたはずだった。


カミーユは去った。ライラへの脅威は、ひとまず霧散したのだ。


これは勝利だ。


彼女の傲慢な野心は潰え、私は守るべきものを守り抜いた。


そう自分に言い聞かせるが、喉の奥には苦い後味だけが残っている。


「……よくやった。感謝する、ゲイリー」


「ですが、会長……」


ゲイリーが言葉を濁した。


鉄の規律を持つ彼が、これほどまでに躊躇いを見せるのは稀なことだ。


私の心臓が、不規則なリズムを刻み始める。


「グランドハイアットのカフェでの一件について、補足すべき事項がございます」


「……言え」


「カミーユは……去り際に、エララ様の目の前で最悪の爆弾を投下しました。あなたの正体――アークシロン・ヘリテージ・キャピタルの会長であり、ベクター・ホールディングスの実質的なオーナーであることを、すべて暴露したのです。エララ様は、そのすべてを耳にされました」


ドクンッ、と心臓が跳ねた。


目の前の視界が、一瞬だけ白く染まる。


完璧に管理されていたはずの酸素が、この豪華な監獄から一斉に奪い去られたようだった。


堅牢なザ・ノードの壁が、音を立てて私を押し潰そうと迫ってくる。


「エララ様は、ひどく動揺された様子で現場を立ち去られました」


ゲイリーの声に、隠しきれない悔恨が混じる。


「申し訳ございません。サスキア様とカミーユの衝突を止めることを優先した結果、私の介入が、カミーユの言葉を裏付ける形となってしまいました。私の失態です」


私は、激しく脈打つこめかみを指先で押さえた。


目の奥を刺すような鋭い痛みが走る。


「……お前のせいではない、ゲイリー」


声を絞り出す。


「正しい判断だ。もしサスキアが警察沙汰になれば、エララはさらに私を憎んだだろう。親友を法的なトラブルに巻き込んだ男としてな。お前は最善を尽くした」


「……恐縮です。引き続き、遠方より状況を注視いたします」


通話が切れた。


ツ、ツ……。


無機質な電子音が、静寂をよりいっそう深いものにする。


私はスマートフォンをデスクに放り投げた。


ゴンッ!


硬い音が室内に反響し、虚しく消えていく。


私は革張りの椅子に深く身を沈め、暗い天井を見上げた。


カミーユは去った。


私は過去との戦いに勝利し、同時に未来を失ったのだ。


この勝利は、あまりにも空虚で、吐き気がするほど醜い。


震える指先が、再びスマートフォンへと伸びる。


画面に表示された「エララ」の文字。


その上の「発信」ボタンを押すことができない。


彼女の顔が脳裏に浮かぶ。


あの、陽だまりのように温かく、濁りのない瞳。


今は、裏切りへの絶望で凍りついているのだろうか。


ブラウィジャヤの古い屋敷で、独り、私への憎しみに震えているのだろうか。


私は、伸ばした手を力なく引き戻した。


人生で初めて、私は「対峙」することに恐怖を感じていた。


一通のメモで多国籍企業を倒すことができるこの私が、一人の女性の冷たい声を想像するだけで、指先が震えて止まらない。


あまりにも、遅すぎたのだ。


私は、この関係を「沈黙」という名の嘘の上に築き上げてしまった。


正体を隠すことが、彼女を守ることだと信じていた。


「会長」としての私ではなく、「バリスタのディオ」としての私を愛してほしかった。


だが、エララのような誠実な女性にとって、隠し事と嘘に境界線など存在しない。


彼女の目には、今の私は、彼女の人生という舞台を裏で操っていた傲慢な演出家にしか映らないだろう。


借金の肩代わりも、高額な給与も、すべては愛ではなく「資産買収」の一環に見えるはずだ。


奥歯を噛み締める。


自分の過去を呪った。


去り際に私の頸動脈を正確に切り裂いていった、カミーユという毒を呪った。


絶望が、冷たい墨汁のように私の心に染み込んでいく。


もし、彼女が二度と私を許さなかったら?


その問いが、呼吸をするたびに胸を抉る。


エララは、偽善に満ちた家族の中で育ったからこそ、何よりも誠実さを重んじる人だ。


そして今、私はその「偽り」の象徴となってしまった。


私はうつむき、手首のパテック・フィリップを見つめた。


鈍く光る冷たい金属が、まるで私を縛り付ける手枷のように感じられる。


二つの人格を使い分ける芝居には、もう疲れた。


最初から、私に「普通の幸せ」など許されていなかったのかもしれない。


私はただ、この冷たい部屋で数字を監視し、誰にも触れられずに生きていく運命だったのだ。


ふと、暗い誘惑が頭をよぎる。


すべてを捨てて、逃げ出すこと。


ニューヨークへ戻ろうか。


エララに蔑みの言葉を投げかけられる前に、ライラを連れて遠くへ消えるべきではないか。


彼女の瞳に宿る「嫌悪」を見たくない。


彼女が私を「会長」と他人行儀に呼ぶ声を聞きたくない。


私は椅子から立ち上がった。


足取りは鉛のように重い。


ザ・ノードの重厚な扉を開け、外へと踏み出す。


カチリッ。


背後で扉が閉まる音は、まるで私の人生の一部が断絶されたかのような響きだった。


二階の居住スペースへと続く廊下は、静まり返っている。


……バニラの香り。


微かな残り香が、鼻をかすめた。


昨日、彼女がここでライラに勉強を教えていた時の名残だ。


その甘い香りが、今の私には鋭利な刃物となって突き刺さる。


彼女の笑い声、柔らかな指先、交わした約束。


そのすべてが、砂の城のように崩れ去っていく。


「……パパ?」


小さな声が、静寂を破った。


私はその場に凍りついた。


ゆっくりと振り返る。


そこには、寝起きの顔をしたライラが立っていた。


二つに結った髪は乱れ、灰色の瞳を眠そうにこすっている。


その無垢な姿が、私の残された防波堤を容赦なく破壊していく。


「先生、まだ来てないの?」


消え入りそうな声で、娘が尋ねた。


私は、吸い寄せられるように彼女の元へ歩み寄った。


その場に膝をつき、小さな体を壊れ物を扱うように抱きしめる。


この子を離してしまえば、私の世界は完全に崩壊してしまう。そんな恐怖に突き動かされていた。


「……まだだよ、ライラ」


声が激しく震える。


「先生は、少し疲れているんだ。お休みが必要なんだよ」


ライラは私の腕の中で少しだけ身を引くと、不思議そうに私の顔を覗き込んだ。


その澄んだ瞳に見つめられ、私は息が止まりそうになる。


「先生、病気なの?」


娘の瞳に、純粋な心配の色が広がる。


「お見舞いに行こうよ、パパ。私が病気の時、先生も来てくれたもん。温かいチョコレート、作って持っていってあげたいな」


私は言葉を失った。


舌が上顎に張り付いて動かない。


私は、強く、強く目を閉じた。


こらえていた熱いものが、一滴だけ溢れ出し、娘のパジャマの肩を濡らす。


この幼い子に、どう説明すればいいのだろうか。


「先生」はもう、私たちの顔を見たくないかもしれないのだと。


パパが、大切な秘密を隠していたせいで、すべてを壊してしまったのだと。


「パパ……どうして泣いてるの?」


ライラの小さな指が、私の頬に触れた。


私は何も答えられず、ただ彼女を抱きしめ直した。


温かいはずの部屋の中で、私は凍えるような孤独に震えていた。

静かな章だったけど、読んでくれてありがとう。ディオの涙、届いたかな。次もまた来てね。ブックマークしてもらえると、すごくうれしいです。

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