第70章 真実の毒
――― エララ ―――
カミーユの荒い呼吸が、静まり返ったカフェの空気を切り裂いた。
真空状態に放り出されたような、息苦しい沈黙が辺りを支配する。
彼女は震える手で、乱れた金髪を整えた。
サスキアに掴まれた際に乱れた髪が、彼女の完璧な虚飾をわずかに崩している。
頬にはもう、涙の跡など残っていない。
そこにあるのは、凍りついた怒りと、陶器の仮面がひび割れたような、冷酷な表情だけだった。
周囲の客たちが、ひそひそと囁き始める。
その羽音のような囁き声が、私の耳の奥で不快に響いた。
カミーユは、警戒した様子で近づいてくる店長を一瞥した。
彼女が傲慢に手を挙げると、その無言の圧力に押されたのか、店長は足を止めた。
再び私に向けられた彼女の視線は、毒を孕んだ針のように鋭い。
「……野蛮な連中ね」
声は穏やかだったが、その冷たさは私の血を凍らせるのに十分だった。
「ディオがこんな掃き溜めに身を隠しているのも無理はないわ。周囲がこれほど教養のない人間ばかりではね」
彼女はテーブルからエルメスのバッグを手に取った。
その動作は驚くほど洗練されており、先ほどの醜態などなかったかのようだ。
背筋を伸ばして立ち上がった彼女は、まるで巨人が小人を見下ろすような、圧倒的な優越感を漂わせる。
カミーユは、警備員に押さえつけられているサスキアを蔑むように鼻で笑った。
「あなたについては警察に暴行罪で届けるわ。覚悟しておきなさい――」
「誰を届けるというのですか?」
重く、静かな声が、カミーユの言葉を鋭いメスのように断ち切った。
私たちは一斉に、カフェの入り口へと視線を向けた。
そこに、一人の男が立っていた。
身体に完璧にフィットしたネイビーブルーのスーツを纏い、その立ち姿は彫刻のように端正だ。
傘は持っていないはずなのに、その肩には雨の雫一つ付いていない。
無表情なその顔からは、冷徹なプロフェッショナリズムのオーラが放たれていた。
ゲイリー・ヴェイル。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
私はその顔を知っている。
父の会社、ドウィジャヤ・トレーディングに送り込まれた、ベクター・ホールディングスの代理人。
父の会社の命運を、その指先一つで握っている男だ。
カミーユの動きが止まった。
罵詈雑言を吐き出していた唇は固く結ばれ、その瞳には明らかな動揺が走る。
彼女の目に宿ったのは、純粋な恐怖だった。
「ゲイリー……さん?」
私は信じられない思いで、その名を呟いた。
ゲイリーは周囲の喧騒を無視して、まっすぐにこちらへ歩いてきた。
私たちのテーブルの傍らで足を止めると、彼は私に向かってわずかに頭を下げた。
その慇懃な、しかしどこか距離のある敬意の示し方に、私の混乱は深まるばかりだ。
彼はそのまま、カミーユを断罪するような冷ややかな目で見据えた。
カミーユが、突然笑い声を上げた。
それは甲高く、神経を逆撫でするような、狂気を孕んだ笑いだった。
「素晴らしいわ……」
彼女はわざとらしく首を振り、哀れみを含んだ視線を私に投げかける。
「エララ、あなたは本当に何も知らないのね。自分を助けてくれた、ディオという男の正体を」
私は眉をひそめ、冷や汗で滑りそうになるテーブルの端を強く握りしめた。
「……どういう意味?」
カミーユが、ゆっくりと私の方へ身を乗り出した。
彼女が纏う高価な薔薇の香水の香りが、今は肺を刺す毒ガスのように感じられる。
「彼がただのカフェのオーナーだとでも思っていたの? 貧しいあなたを哀れんで、愛のために家族を救ってくれたヒーローだと?」
彼女は言葉を切り、その残酷な沈黙を十分に楽しむように時間を置いた。
「ディオ・アトマンタは、アークシロン・ヘリテージ・キャピタルの会長よ。三つの大陸で数兆もの資産を操る、唯一の支配者」
世界が、音を立てて崩れ去った。
カフェの喧騒も、自分の鼓動も、サスキアの荒い息遣いも、すべてが遠のいていく。
耳の奥で、キーンという長い耳鳴りだけが響いていた。
会長? アークシロン?
私の知っているディオが?
「なぜあなたの家族が救われたと思う、エララ?」
カミーユの声は、今や耳元で囁かれる毒蛇の吐息のようだった。
「ベクター・ホールディングスは、ディオの所有物よ。彼がお父様の借金を買い取ったのは、慈悲からじゃない。私の代わりとなる、新しい『飾り物』が必要だったからよ」
彼女の言葉が、私の心臓を容赦なく抉る。
「彼はあなたの人生を買い取ったのよ、エララ。一番汚いやり方でね。忠誠心を愛と勘違いさせるなんて、彼らしいやり方だわ」
ゲイリー・ヴェイルが一歩前に出た。その表情が険しくなる。
「奥様、言葉を慎んでください。あなたにそんなことを言う権利は――」
「権利はあるわ!」
カミーユが叫び、再び私を絶望の淵へと突き落とすような眼差しを向けた。
「あなたは私と何も変わらない、エララ。結局、金持ちの男に自分を売り渡した女よ。違いがあるとすれば、私は自分の野心に正直だったということ。あなたは……その清純な教師の制服の下に、醜い真実を隠しているだけ」
血の気が引いていくのがわかった。
カミーユに対する怒りではない。
内側から湧き上がる、耐え難いほどの吐き気に襲われていた。
「黙れ、この毒婦が!」
サスキアが叫び、再びカミーユに飛びかかろうとした。
しかし、ゲイリーはその腕を素早く、そして抗えない力で制止した。
私の身体は、激しく震えていた。
膝の力が抜け、立っていることさえままならない。
カミーユの脅しなど、どうでもよかった。
私を打ちのめしたのは、これまで心の拠り所にしてきたあの温もりが、すべて計算されたものだったという疑念だ。
私を「価値のある人間」だと思わせてくれたあの眼差しは、ただの買収工作の一部だったのか。
なぜ、彼は嘘をついたの?
カミーユは、私の瞳に宿る絶望を見て、満足げに微笑んだ。
彼女はコートの襟を整え、最後にもう一度、勝利を確信した視線を部屋全体に投げかけた。
「彼の新しい人形としての役割を楽しみなさい、エララ。彼が飽きて、もっと新鮮な女を探し始めるその日までね」
カミーユは背を向けた。
彼女のハイヒールがマーブル模様の床を叩く音は、私を嘲笑うリズムのように響く。
不快な薔薇の香りが薄れていくのと引き換えに、私の魂を切り裂く真実だけがそこに残された。
「ラ……あんな女の言うこと、信じちゃダメ! 二人の仲を壊したいだけよ!」
サスキアが私の肩を抱き寄せた。
私は答えることができなかった。
視線は、目の前の空っぽのテーブルに釘付けになったままだ。
ディオと過ごしたすべての瞬間が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
あのホットチョコレート、バルコニーでの抱擁、私を見つめる優しい瞳……。
それらすべてが、アークシロンという巨大な怪物が描いたシナリオだったというのか。
私は顔を上げ、苦渋に満ちた表情で立ち尽くすゲイリー・ヴェイルを見つめた。
「ゲイリーさん……」
声が震え、消え入りそうになる。
彼は私を見つめ返した。その冷徹な瞳の奥に、隠しきれない罪悪感の色が揺れている。
「本当……なのですか?」
私は、せり上がってくる苦い唾液を飲み込んだ。
「ディオ様が……あの人が、ベクター・ホールディングスのオーナーなのですか?」
沈黙が、死刑宣告のように私たちを包み込んだ。
ゲイリーはすぐには答えず、ただ静かに、重く首を垂れた。
その瞬間、私は理解した。
ようやく手に入れたはずの平穏な世界が、再び粉々に砕け散ったことを。
私は、囁き声が満ちたカフェの真ん中で、立ち尽くしていた。
自分を救い出してくれたヒーローが、実は自分の人生という悲劇を操っていた演出家だった。
その事実は、どんな暴力よりも深く、私の心を切り裂いた。




