第69章 剥がれ落ちた仮面
――― エララ ―――
高級ホテルのカフェという場所は、時に残酷なほど静寂を際立たせる。
グランドハイアットのラウンジに響く、磁器のカップと銀のスプーンが触れ合う音。
それはまるで、何かの崩壊を告げるカウントダウンのようだった。
高い天井を支える大理石の柱はどこまでも冷淡で、窓の外に広がるジャカルタの喧騒を嘲笑っている。
空調から吹き出す冷気が、薄手のブレザー越しに私の肌を刺した。
それなのに、テーブルの下で握り締めた指先だけは、嫌な汗で湿っている。
目の前では、サスキアが定規で引いたような完璧な姿勢で座っていた。
彼女の視線は入り口の重厚な扉に固定され、獲物を待つ鷹のように鋭い。
運ばれてきたアラビカコーヒーには一切手を触れず、立ち上る苦い湯気だけが、彼女の硬直した横顔をなぞっていた。
「そのハンカチ、そんなに振り回してたら破れるわよ、ラ」
サスキアが前を向いたまま、低く短い声で言った。
私は弾かれたように指を止める。
いつの間にか、小さな布切れをちぎれんばかりに捻り上げていた。
耳の奥では、先ほど電話で聞いたカミーユの啜り泣きが、呪文のように繰り返されている。
罪悪感という名の毒が、ゆっくりと背中を這い上がってくる。
私は、一人の母親が過去を贖おうとする道を塞いでいる、冷酷な部外者なのではないか。
「……間違った一歩を踏み出しそうで、怖いのよ、キア」
私は蚊の鳴くような声で呟いた。
サスキアは視線を動かさない。
「間違った一歩っていうのはね、証拠もない涙を信じることよ。黙って見てなさい」
その時だった。
コーヒーの芳醇な香りを暴力的に塗りつぶす、重苦しい芳香が漂ってきた。
濃厚な薔薇の香り。
それはまるで見えない壁のように、私たちのパーソナルスペースを侵食していく。
胸の奥が、生理的な拒絶反応でわずかに疼いた。
カミーユ・デュヴァルが、そこに立っていた。
彼女の足取りは、まるで一歩ごとに命を削っているかのように重々しい。
首元には緩やかにシルクのスカーフが巻かれ、青白い顔の半分を隠している。
縁取られた瞳は赤く腫れ、照明の下で隠しようのない疲弊を晒していた。
彼女は私たちのテーブルの前で立ち止まり、縋るような眼差しを私に向けた。
「会ってくれてありがとう、エララさん……」
掠れた、今にも消え入りそうな声。
カミーユは私の隣の席に、崩れ落ちるように腰を下ろした。
彼女の視界にサスキアは入っていないようだった。
震える手が伸びてきて、テーブルの上にある私の手の甲を覆う。
ひやりとした。
まるで死人のような、温度のない手だった。
「ディオは……あの人は、あなたに真実を話していないのでしょう?」
カミーユは声もなく泣き始めた。
大粒の涙が、痩せこけた頬を伝い落ちる。
「彼は私が捨てて行ったと思っている。でも、パリでの日々がどれほど地獄だったか、彼は知らない。ティエリは……あの男は、毎日私を精神的に追い詰めた。もし命令に従わなければ、ディオとあの幼い子を消すと脅されたの」
彼女の指が、私の肌に食い込む。
「私は二人を守るために、自分を犠牲にした。この七年間、一分一秒たりとも、ライラのことを忘れたことはなかった。私は……ただ、あの子に会いたいだけなの」
震える声が、私の思考を麻痺させていく。
子供の安全のために自分を悪者に仕立てた母親、という悲劇的な物語。
それは、あまりにも強力な引力を持って、私の心を揺さぶった。
「本当に……仕方がなかったの……?」
私の声が、情けないほどに揺れた。
カミーユは何度も頷き、私の手に顔を埋めるようにして、許しを乞うた。
「お願い、エララさん。ディオを説得して。無理やり連れて行くつもりなんてない。ただ……ママはあなたを愛し続けていたんだって、あの子に伝えたいだけなの……」
ガタンッ!
静かなラウンジに、磁器が激しくぶつかり合う音が響き渡った。
サスキアが、テーブルを叩き割らんばかりの勢いでカップを置いたのだ。
彼女は背もたれに深く寄りかかり、腕を組んで、冷ややかな笑みをカミーユに向けた。
「素晴らしい演技ね」
サスキアの言葉は、氷の刃のように鋭かった。
「ゴールデンタイムのドラマでも、もう少しひねりがあるわよ」
カミーユの肩がびくりと跳ねた。
啜り泣きが止まり、濡れた瞳が困惑したようにサスキアを捉える。
「あなた……誰? なぜ、そんなにひどいことを……」
「私? 私は、お涙頂戴の話を聞くとすぐにふにゃふにゃになっちゃう、このお人好しの親友の『論理の錨』よ」
サスキアが身を乗り出す。その瞳には、一切の慈悲がなかった。
「いい、おばさん。七年よ。七年っていうのは、近所のコンビニに買い物に行って道を忘れるような時間じゃないわ。今までどこで何をしていたの? フランスでの立場が危うくなって、急に自分の子宮を思い出したわけ?」
カミーユの顔から、血の気が引いていく。
「あなたに……私の苦しみの何がわかるっていうの!」
「苦しみ?」
サスキアは乾いた笑い声を上げた。
それは、静まり返ったカフェの中で、不気味なほど残酷に響く。
「本当の苦しみっていうのはね、赤ん坊が夜泣きするたびに起きてミルクを作るディオの隣に、誰もいないことよ。ライラが母親はどこにいるのかって聞いた時、あの子の心を傷つけないために必死で嘘を考えなきゃいけない絶望のことよ。あんたが恋しいのは子供じゃない。手の中から滑り落ちそうな、パトロンの資産でしょう?」
周囲の客が、何事かとこちらを振り返り始めた。
インカムを手にしたマネージャーらしき男性が、不安げな表情で距離を詰めようとしている。
「言葉を慎みなさい!」
カミーユの叫び声が、数オクターブ跳ね上がった。
先ほどまでの儚い未亡人のような雰囲気は、一瞬で霧散した。
「あら、図星をつかれて怒っちゃった?」
サスキアの舌鋒はさらに容赦を失う。
「あんたはただの、身勝手な女よ。ゴミのためにダイヤを捨てたくせに、今さらヒーローのつもり? エララのことは涙で騙せても、私は無理。あんたの魂から漂う腐った臭いは、一キロ先からでもわかるわ」
カミーユの顔から、悲劇のヒロインの仮面が完全に剥がれ落ちた。
瞳には、どす黒い怒りが渦巻いている。
優雅だったはずの佇まいは消え、飢えた獣のような凶暴さが露わになった。
「Vous êtes des idiotes!(この愚か者共が!)」
カミーユはフランス語で毒づき、それから鋭い英語で捲し立てた。
「自分が誰に向かって口を利いていると思っているの? 安月給で食いつないでいる、底辺の教師の分際で! 私と対等に話せるレベルじゃないのよ! ディオは私のもの、あの子は私のチケットなの! あなたのような下層階級の女に、私の権利を奪わせはしない!」
底辺、下層階級。
その言葉が、私の心の中で冷たく冷え切った。
サスキアの言う通りだった。
彼女はライラを愛しているのではない。ただの「所有物」として執着しているだけだ。
サスキアが、電光石火の動きで立ち上がった。
カミーユが罵声を浴びせ終わるより早く、サスキアの手が空を裂いた。
ガシッ!
「あああっ!」
カミーユの悲鳴が上がった。
サスキアの手が、整えられたカミーユのブロンドの髪を、背後から力任せに掴み取ったのだ。
頭を無理やり後ろに反らされ、カミーユの顔が天井を仰ぐ形になる。
椅子が転倒する音と、周囲の客の悲鳴が混ざり合う。
警備員たちが、慌ててこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
「底辺の教師、ですって?」
サスキアが、苦痛に顔を歪めるカミーユの耳元で、地獄の底から響くような声で囁いた。
「その底辺の教師が、今から教えてあげるわ。ライラの平穏を乱そうとしたら、その自慢の髪が根こそぎなくなるまで引きずり回されるっていう、人生で一番痛い授業をね!」
「離して! 警察を呼ぶわ!」
カミーユが狂ったように叫び、サスキアの腕を爪で掻きむしろうとする。
だが、サスキアはさらに顔を近づけ、狂気を孕んだ瞳で彼女を射抜いた。
「呼びなさいよ! どうせ刑務所に行くなら、あんたのその整形だらけの顔、ティエリが二度と判別できないくらいに切り刻んであげるから!」
カミーユの体が、激しく震え出した。
彼女の瞳に、本物の恐怖が宿る。
目の前にいるのは、守るべきもののために、自分の人生さえ投げ出す覚悟のある狂犬だと悟ったのだ。
警備員がサスキアの肩を掴んだ瞬間、彼女は最後の一押しを加えて手を放した。
カミーユは荒い息をつきながら立ち上がったが、その姿に先ほどの気品はない。
ブロンドの髪は鳥の巣のように乱れ、震える手で自分の頭を抱えている。
一方のサスキアは、警備員に両腕を抑えられながらも、勝利を確信した不敵な笑みを浮かべていた。
第 69 章、いかがでしたでしょうか。サスキアの覚悟が爆発する瞬間、私自身も書きながら手が震えました。彼女の愛ゆえの狂気が、皆さんにどう届いたか知りたいです。もし共感してくださったら、コメントやブックマークで応援していただけると嬉しいです。次章もどうぞお楽しみに。




