第68章 偽りの涙
サスキアの指先が、私の肩に深く食い込んでいた。
薄いコットンの生地越しに、彼女の体温がじりじりと伝わってくる。
その鋭い眼差しは、私の心の奥底に沈殿している迷いを、一つ残らず引きずり出そうとしているかのようだった。
「いい、よく聞いて、エララ」
彼女の声は低かったが、そこにはどんな怒号よりも重い響きがあった。
「あんたが今さら身を引こうとしているのは、ライラちゃんの幸せを願っているからじゃない。ただの劣等感よ。自分よりも『母親』という肩書きを持つ過去の女の方が、正当な権利を持っていると思い込んで怯えているだけ」
その言葉は、額を弾かれた時よりもずっと深く、私の急所を貫いた。
私はたまらず視線を逸らそうとしたが、サスキアは逃がしてはくれなかった。
彼女の顔が、視界を塞ぐように迫る。
「でも、カミーユはあの子の母親なのよ、キア。血の繋がった、たった一人の……」
絞り出した声は、情けないほどに震えていた。
「私は、昨日今日彼らの人生に迷い込んだ部外者に過ぎないわ。もし、ライラが本当に母親を必要としていたら? あの子が今感じている苦しみは、ただ母親の愛を理解できていないだけだとしたら?」
サスキアは鼻で笑った。
私の論理を、根底から蔑むような冷ややかな音だった。
彼女は私の肩を離すと、部屋に敷かれたペルシャ絨毯の上を苛立たしげに歩き回り始めた。
「自分の赤ん坊を捨てて、金持ちの男と逃げた女のどこに母親の資格があるっていうのよ、エララ。七年も経ってから急に母親面を始めるなんて、虫が良すぎると思わない?」
サスキアは足を止め、窓の外を指差した。
「それは愛じゃないわ。ただの執着よ。彼女にとってライラちゃんは、ディオやティエリの前で自分の立場を守るための道具に過ぎない。彼女が欲しいのは娘じゃない、自分を守るための盾なのよ」
道具。
その言葉が、私の胸に冷たく突き刺さった。
かつて私の家族も、私を同じように呼ぼうとした。
どうして私は、これほどまでに明白な構図に気づかなかったのだろう。
自分の過去と重ね合わせる余裕さえ、失っていたというのか。
サスキアは再び私の前に腰を下ろすと、私の両手を包み込むように握った。
その瞳には、先ほどまでの鋭さに代わって、切実な色が混じっていた。
「ディオはあんたを選んだ。ライラちゃんもあんたを選んだの。正体も分からない女への同情心だけで、あの二人の心を壊すつもり? またディオを一人にするの? かつて彼の人生を粉々にした怪物と、たった一人で戦わせるつもりなの?」
静寂が、冷え切った部屋を支配した。
壁にかかった時計の秒針が刻む音だけが、私の人間としての落第点へのカウントダウンのように響く。
サスキアの言葉が、私が涙で築き上げた罪悪感の壁を、音を立てて崩していく。
「でも、彼女は泣いていたわ……。本当に、心から申し訳なさそうに。顔はぐちゃぐちゃで、声も枯れていて……」
私はまだ、自分の迷いを正当化するための隙間を探していた。
「役者だって、ギャラが良ければそれくらい泣いてみせるわよ!」
サスキアは呆れたように天を仰いだ。
「その賢い頭で少しは考えなさい。どうして彼女はあんたに連絡してきたの? 本当に法的、道徳的に謝罪したいなら、どうしてディオの弁護士を通さない? なぜ、恋に浮かれているだけの小学校教師を狙い撃ちにするのよ」
私は言葉を失った。
そうだ。なぜ、私なのだ。
「あんたが今のディオにとって、最大の弱点だからよ」
サスキアの言葉は、容赦なく核心を突く。
「あんたを退かせれば、ディオの守りは崩れる。彼女はあんたの良心を利用して、内側から城門を開けさせようとしているのよ」
胃の奥から、せり上がるような不快感が込み上げてきた。
まだ起きていない裏切りの苦い味が、舌の根に残る。
ドキ、ドキ……
その時、白いシーツの上に置かれたスマートフォンが、激しく震え出した。
画面には、先ほどと同じ「Unknown Number (+33)」の文字が点滅している。
静まり返った部屋に、その振動音は不吉な警告音のように響き渡った。
私の顔から、一気に血の気が引いていく。
指先が凍りついたように動かない。
「彼女よ。カミーユ……」
サスキアの動きは、稲妻よりも速かった。
私が手を伸ばす前にスマートフォンを奪い取ると、その瞳に戦士のような光を宿した。
それは、ネット通販の誤配送を問い詰める時よりも、ずっと激しく、冷徹な光だった。
「出なさい」
サスキアが短く命じた。
「スピーカーにして。彼女がどれほどの名優か、私が直々に鑑定してあげるわ」
「キア、やめて……」
「出なさい、エララ。さもないと、私が代わりに出て、地元で一番汚い言葉で罵倒してやるから!」
私は深く息を吸い込み、肺の奥まで空気を満たした。
震える手でサスキアから端末を受け取る。
画面をスライドさせ、スピーカーのアイコンを叩いた。
静寂。
遠くで、かすかなノイズが混じる。
「エララ……?」
カミーユの声が聞こえてきた。
掠れていて、今にも消えてしまいそうなほど、悲劇のヒロインを完璧に演じている声。
「出てくれてありがとう。私……あなたに拒絶されたら、もうどうしていいか分からなくて……」
サスキアが手で合図を送る。
合わせなさい。硬くならないで。
「ええ、カミーユ。何か用?」
自分の声が、まるで出来の悪いロボットのように聞こえた。
「ディオとは話してくれた? 彼は……私の謝罪を受け入れてくれるかしら?」
私はサスキアを見た。
彼女は空中で指を回し、もっと揺さぶれと促している。
「まだよ、カミーユ。私にも……時間が必要なの。昨日のカフェでの一件で、ディオはひどく怒っているわ」
私は、迷える女の声音を必死に模倣した。
すると、電話の向こうの空気がわずかに変わった。
すすり泣きで隠してはいるが、そこには焦りにも似た、切迫した響きが混じり始める。
「時間がないの、エララ。お願い、直接会って話せないかしら? 二人だけで。ディオがあなたに話していることが、すべてではないと証明したいの。証拠もあるわ。お願い……ライラの安全のためなの」
サスキアの目が見開かれた。
彼女はスマートフォンを指差し、声を出さずに口を動かした。
『イ・エ・ス・と・言・い・な・さ・い』
私は唾を飲み込んだ。
心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴っている。
これは、虎の穴に自ら飛び込むようなものだ。
「ええ……会いましょう」
私はついに答えた。
「いつ?」
「今すぐ。私が泊まっているホテルのスイートルーム、1204号室よ。外には出られないの、誰かに見張られている気がして……」
カミーユの声に、安堵の色が広がった。
あまりにも、出来過ぎた安堵だった。
私は目を閉じ、サスキアによって磨き上げられた勇気の残骸をかき集めた。
「分かったわ。今から行く」
「ありがとう、エララ。あなたは私の救世主よ。待っているわ」
ぷつり、と通信が切れた。
暗転した画面を見つめる私の指先に、冷たい感覚が這い上がってくる。
決意は固まった。
自分の世界が崩れようとしている時に、毛布の下で震えているわけにはいかない。
「上出来よ」
サスキアは立ち上がり、仕事鞄をひったくるように掴んだ。
「すぐに準備しなさい。私はリビングで待ってる。十分以内に出てこなかったら、ディオに電話して『あんたの婚約者が狂ったフランス女に拉致された』ってぶちまけてやるから」
私は深く息を吐き出し、床から立ち上がった。
乱れた髪を指で整える。
優しく、従順な小学校教師の仮面は、この部屋に置いていこう。
今日、私は愛する男の過去と、自分の目でありのままに向き合うのだ。
第 68 章をお読みいただき、ありがとうございます。
エララがついに決断を下しました。
偽りの涙の裏に隠された真実とは?
次回もどうぞお楽しみに。
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