第67章 二十四時間の空白
――― エララ ―――
午前十時の陽光は、容赦のない鋭さで部屋に差し込んできた。
ブラウィジャヤ邸の重厚なシルクのカーテンの隙間から、金色の筋が幾本も伸びている。
それは空気中を漂う微細な塵を照らし出し、まるで私の怠惰を責め立てているかのようだった。
私は動けなかった。
厚手の毛布の中に身を丸め、枕に顔の半分を埋めたまま、ただ天井を見つめている。
かつての私の部屋。広く、涼しく、完璧に整えられたこの空間。
けれど今の私にとって、この部屋のすべての隅々が、私の臆病さをあざ笑う沈黙の証人のように感じられた。
私は、逃げたのだ。
教師としての三年のキャリアの中で、初めて無断でクラスを空けた。
代わりの先生を見て困惑するガファの顔や、ライラがいつも座っている真ん中の空席が脳裏をよぎる。
彼女はきっと、期待に満ちた瞳で私を待っていたはずなのに。
その思考が、重い鉄槌のように私の胸を打ち据えた。
罪悪感がじわじわと這い上がり、残っていた眠気よりも濃く私を侵食していく。
私はディオさんに嘘をついた。ライラから逃げ出した。
私たちが必死で築き上げてきたあの穏やかな砦を、私は自ら捨て去ったのだ。
たった一本の、過去からのビデオ通話に怯えて。
「馬鹿ね、エララ……」
枕に向かって、枯れた声で呟いた。
震える手でナイトテーブルを探り、朝から震え続けているスマートフォンを手に取る。
画面が点灯し、胃の底が冷たくなるような通知の羅列が目に飛び込んできた。
ディオ:『おはよう、エララ。ゆっくり休めているかな。今朝、ライラがなぜ迎えに来ないのかと聞いてきたけれど、君には少し自分一人の時間が必要なんだと伝えておいたよ。起きたら連絡をくれるかな?』
その他にも、教師たちのグループチャットからの未読メッセージや、キアからの三件の着信履歴。
私はそれらすべてを無視した。
指先が小刻みに震える。ディオさんに「おはよう」と返す勇気すらなかった。
元妻から連絡があったことに怯え、泣き腫らした顔でそんな言葉を吐けるはずがない。
トン、トン
不意にドアが叩かれ、私は反射的に毛布を頭まで被った。
「エラ、起きているの? 入るわよ」
ドアが静かに開いた。
母様が、お盆に乗せた鶏粥と温かいミルクを運んでくる。
かつての威圧的なハイヒールの音はない。足音は驚くほど柔らかかった。
母様はベッドの端に腰を下ろした。
毛布越しに、私の背中をそっと撫でる。
「少しでも食べなさい。あなたの好きな、あの店の味に似せて作らせたから。お父様から、具合が悪いと聞いたわ」
母様の声は穏やかだった。
その優しさが、今の私には毒のように回る。
ようやく「家族」としての形を取り戻し始めたこの家で、私はまた新しい火種を持ち込もうとしている。
「……ありがとう、お母様。そこに置いておいて」
布越しに、掠れた声で答えるのが精一杯だった。
「あまり閉じこもっていてはいけないわよ。太陽はもうあんなに高いのだから」
母様は一度だけ私の頭を撫で、部屋を出て行った。
入れ替わるように、今度は力強いノックの音が響く。
父様だった。仕事用のシャツを着ているが、ネクタイは締めていない。
ベクター・ホールディングスの傘下に入ってから、父様はどこか憑き物が落ちたような顔をしていた。
「エラ、私はもう出るよ」
父様はドアの敷居に立ち、探るような視線を向けてきた。
「お前……ディオ君と喧嘩でもしたのか?」
私は唾を飲み込んだ。
「ううん、違うの。ただ……少し疲れただけ。この一週間、いろいろあったから」
父様は頷いたが、完全に信じたわけではないだろう。
「そうか。なら休むがいい。だがな、現実から逃げすぎるんじゃないぞ。問題というのは借金と同じだ。先延ばしにすればするほど、利息は膨れ上がるものだからな」
父様が去ると、部屋は再び静寂に包まれた。
私は起き上がり、窓際の床に座り込んだ。
スマートフォンを開き、ギャラリーにある一枚の写真を見つめる。
三人で撮った自撮り写真。
真ん中でライラが満面の笑みを浮かべ、私は驚いたような顔で笑い、ディオさんはカメラを見つめている。
その瞳には、嘘偽りのない慈しみが宿っていた。
視界が熱くなる。私はまるで泥棒になった気分だった。
カミーユの言葉が、呪文のように耳の奥でリフレインする。
昨日のビデオ通話。彼女の溢れる涙、乱れた髪、そして悲痛な懇願。
『私はただ、罪を償いたいだけなの、エララ……。あの子の安全のために、私は去るしかなかったのよ……』
その声が、どうしても頭から離れない。
もし彼女の言っていることが真実だとしたら?
もしディオさんが、真実の半分しか知らなかったとしたら?
私は、心から悔い改めようとしている母親の行く手を阻む、邪魔者でしかないのではないか。
時間は残酷なほどゆっくりと流れていった。
午後一時。
いつもなら、私は学校の正門で待っている時間だ。
あの白いハッチバックが近づいてくるのが見えるはずだ。
ディオさんが車から降り、ドアに寄りかかりながら、私だけに向けた秘密の微笑みをくれるはずの時間。
けれど、ブラウィジャヤ邸の前の通りは静まり返っている。
時折、物売りの声が遠くで聞こえるだけだった。
バタンッ!
突然、部屋のドアが乱暴に開け放たれた。
私は心臓が飛び出すかと思うほど驚き、座っていた姿勢から後ろに転びそうになった。
そこに立っていたのは、サスキアだった。
彼女はまだ教師用のバティックの制服を着ていた。
背中は汗でぐっしょりと濡れ、いつも整えられている髪はヘルメットのせいで無残に跳ねている。
顔は真っ赤に上気し、ジャカルタの渋滞を必死で駆け抜けてきたのが一目でわかった。
「あんた……正気なの?」
キアは挨拶もなしに踏み込み、背後のドアを震えるほど強く閉めた。
仕事用の鞄をソファに投げ捨てると、鈍い音が響く。
「学校中が大騒ぎよ! あの目覚まし時計より正確なエララ先生が、診断書も連絡もなしに消えたんだから! 校長には問い詰められるし、他の教師たちはあんたがまたレイのせいで逃げたんだって噂してるわよ!」
私は俯き、震える指先でシーツの端をいじった。
「ごめん、キア……。今日はどうしても、行く勇気が出なかったの」
キアが歩み寄ってくる。
彼女の影が、床に座り込む私を覆い尽くした。
彼女は私の肩を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「ディオさんが、今朝学校に来たわよ、エララ」
心臓が一瞬、鼓動を止めた。
「彼は始業のベルが鳴るまで、ずっと正門で待ってた。中に入ろうともせず、ただじっと道路を見つめて、あんたの車が現れるのを待ってたのよ」
キアは深く息を吐き出した。その瞳には、怒りと悲しみが混じり合っている。
「あの顔……。 La、あんな顔、見てられなかったわ。まるで行き先を失くした子供みたいだった」
私の細い糸のような自制心が、音を立てて切れた。
朝から堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出す。
両手で顔を覆い、激しく肩を震わせて泣きじゃくった。
正門で一人、私を待っていたディオさんの姿を想像するだけで、魂が引き裂かれるようだった。
「ごめんなさい……ごめん、キア……」
キアは荒々しく溜息をつくと、私の隣の床にどさりと座り込んだ。
そして私の肩を抱き寄せ、制服の袖が濡れるのも構わずに泣かせてくれた。
「話しなさい。今すぐに」
キアの声は厳しかった。
「何一つ隠さずに。なんでこんなメロドラマみたいな真似をして逃げ出したのか、全部よ」
私は途切れ途切れの声で、すべてを話した。
フランスの番号からの着信。カミーユとのビデオ通話。
彼女の涙、彼女の言い分。
ティエリという男からライラを守るために、あえて身を引いたという物語。
「彼女は泣いていたの、キア……。ティエリがライラを企業政治の道具にする前に、あの子を奪い返したい、罪を償いたいって……」
私は涙を拭い、虚ろな瞳で親友を見つめた。
「もしディオさんが後で後悔したら? もしライラが本当に実の母親を必要としていたら? 私はただの部外者なのよ、キア。カミーユから母親になる機会を奪っている泥棒みたいに思えて……」
キアは私の話を無表情で聞いていた。
話が進むにつれ、彼女の顔はどんどん険しくなり、瞳は鋭く細められていった。
まるでクラスで一番手の焼ける生徒を見るような、冷ややかな視線。
豪華な寝室に、重苦しい沈黙が流れる。
私はキアからの同情を待っていた。
「大変だったわね、エラ」という言葉を期待していた。
けれど、返ってきたのは――。
パチンッ!
「痛っ!」
私は悲鳴を上げ、額を押さえた。
キアが中指で、思い切り私のデコを弾いたのだ。
「何するのよ、キア!」
キアは素早い動きで立ち上がり、腰に手を当てて私を見下ろした。
その瞳には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいる。
「あんた、バカなの? それとも脳みそがおめでたいことになってるの?」
私は呆然と口を開けた。
「……何よ、それ」
「エララ・ドウィジャヤ、よく聞きなさい!」
キアは私の鼻先を指差した。
「嘘を見抜くのが得意だった私の親友はどこへ行ったの? なんでこんな安い三流芝居に騙される、ふにゃふにゃ女になっちゃったわけ?!」
「でも、彼女は泣いていたのよ! あのビデオの中の彼女は、本当にボロボロで――」
「へえ! 一流の詐欺師だって、報酬が足りなきゃ泣いて見せるわよ!」
キアの声が、刃のように鋭く空気を切り裂く。
「あんた、忘れたの? この七年間、誰がライラを一人で育ててきたと思ってるの? あの女がティエリと贅沢三昧してる間、誰がライラのおむつを替えてきたのよ! たった一日現れた女の涙を、毎日あんたに愛を証明してきた男の苦労より信じるっていうの?!」
キアが顔を近づけてくる。
「もし本当にあの子を守りたかったなら、赤ん坊を連れて一緒に逃げるはずでしょ! 貧乏だと思い込んでいた男に、あの子を置いていくはずがないわ! 彼女がライラを捨てたのは、自分の華やかな生活に子供が邪魔だったからよ! そして今ライラを求めているのは、フランスで何か都合の悪いことが起きたからに決まってるじゃない!」
私は言葉を失った。
キアの放つ冷徹な論理が、私の曖昧な不安を粉々に砕いていく。
「目を覚ましなさい、エララ! ゴミのためにダイヤモンドを捨てたような女のために、悲劇のヒロインぶってる場合じゃないわよ!」
第 67 章をお読みいただき、ありがとうございます。
サスキアの鋭い指摘が、エララの迷いを打ち砕きます。
親友だからこそ言える真実の言葉。
次回もどうぞお楽しみに。
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