第66章 沈黙の波紋
――― サスキア ―――
顔に貼り付けたシートマスクの冷たい美容液が、毛穴の奥まで染み込んでいく。
色褪せた薄い絨毯の上にクッションを積み重ね、そこに背中を預けた。レンテン・アグンの狭いアパートは、今日もひどく蒸し暑い。
ノートパソコンの画面では、韓国の俳優が土砂降りの雨の中で泣き叫んでいる。私は一時停止ボタンを押した。
途端に部屋は静まり返り、首振り扇風機が気怠げに動く音だけが響く。
ぎい、ぎい。
傍らに手を伸ばし、激辛カサバチップスの袋を乱暴に開けた。
ばりっ。
刺激的な唐辛子の香りが鼻腔を突き抜け、遅めの夕食への食欲をそそる。
「貧乏独身女の夜の儀式、開始」
マスクのせいで動かしにくい唇から、くぐもった独り言が漏れた。
浴室のドアの上に掛けられた、プラスチック製の猫の時計を見上げる。短い針はすでに八時十五分を指していた。
眉をひそめると、額のシートマスクが少しよれた。
普段なら、エララはとっくに帰宅している時間だ。ディオのカフェで夕食をとっているにせよ、ライラの家庭教師をしているにせよ、彼女なら必ず短いメッセージを送ってくる。ブラウィジャヤの屋敷から逃げ出して以来、彼女はそういう連絡を絶対に怠らない人間だった。
だが今夜、木製のテーブルに置かれた私のスマートフォンは沈黙したままだ。
「ディオ様と甘い夜でも過ごしてるのかね」
ばり、ばり。
チップスを噛み砕きながら、適当な推測を口にする。センパティの渋滞に巻き込まれているだけかもしれないが。
パソコンの再生ボタンを押そうとした瞬間、テーブルの上の薄い端末が激しく震え出した。
ぶううんッ
画面には『親友エララ』の文字が点滅している。私はニヤリと笑い、チップスの粉がついた指をバティック柄のダスターで適当に拭った。
「はいはい、大奥様! 今どこ? もう門の南京錠は閉めちゃったよ。鍵は飲み込んだからね!」
いつものように、冗談交じりの高い声で電話に出る。
だが、受話器の向こうから笑い声は返ってこなかった。
風の音だけが、不気味なほど静かに流れている。
「……キア」
エララの声だった。
妙に平坦で、静かすぎる。それは彼女が人前で感情の爆発を必死に押し殺すとき、決まって使う声のトーンだった。
「今夜は、アパートには帰らないと思う」
私は背筋を伸ばし、口に運ぼうとしていたチップスを袋の中に戻した。ネット通販の割引を嗅ぎつけるためだけに使っていた私の探偵の勘が、けたたましく警鐘を鳴らしている。
「はあ? 帰らない? ボスのところにお泊まりってこと?」
胸の奥で嫌な予感が渦巻いているのに、あえて茶化すような口調を作った。
「違うの、キア。私……ブラウィジャヤで寝ることにした。実家で。たぶん、数日くらい」
全身の血の巡りが一瞬止まったかのように感じた。
乾き始めたシートマスクの下で、瞬きを繰り返す。
「嘘でしょ、ラ。どうしたの? 私の薄っぺらいマットレスに飽きた? お姫様の背中には硬すぎた?」
無理に笑い声を作った。いつものように呆れたツッコミが返ってくることを期待して。
電話の向こうで、エララが笑った。
だが、それは私の知っている彼女の笑い声ではなかった。喉の奥から絞り出したような、感情が完全に欠落した、ひどく乾いた音。
「ううん。キアのベッドは快適だよ。ただ……昔の自分の部屋が恋しくなっただけ。実家の空気がね」
他人にとっては、もっともらしい理由に聞こえるかもしれない。
だが、あの家でトラウマに震え、泣きじゃくっていた彼女を知っている私にとって、それは急ごしらえの嘘にしか聞こえなかった。
「あ、そうだ、キア……」
エララが重いため息をついた。
「明日、当番の先生に伝えておいてくれないかな。私、学校を休むって。数日間、休暇を取るから」
シートマスクが破れそうなほど、私は目を剥いた。
エララ・ドウィジャヤが、学校を休む?
三十九度の高熱があっても、生徒に割り算を教えるために教室へ這って行くような女だ。彼女にとって教室は酸素そのもののはずだ。
「休暇? ラ、具合でも悪いの? それともまたお父さんと何かあった? あのクソみたいなレイに監禁されてるとかじゃないよね? 今すぐブラウィジャヤに乗り込むから!」
私は完全にふざけるのをやめた。
「違うよ、キア。本当に」
エララの声が、さらに小さく、弱々しくなった。
「ただ……疲れたの。すごく、疲れた」
限界を迎えた人間の、すり減った声だった。
「何も考えずに休みたいの。授業案のことも、生徒のことも。ごめんね、もう寝る。ご近所さんによろしく」
ぷつっ。
一方的に通話が切られた。
暗くなっていく画面を、私は呆然と見つめた。
顔に張り付いたシートマスクを乱暴に剥ぎ取る。ベタつく美容液のことなどどうでもよかった。丸めたマスクを、机の下のゴミ箱へ正確に投げ捨てる。
「疲れた、だと?」
狭い部屋の中で、立ち上がって歩き回る。
エララが教えることに疲れるわけがない。彼女の論理的思考を完全に麻痺させるほどの、とてつもなく重い何かが起きたのだ。
昨夜、実家の両親と和解してすべてが上手くいったはずなのに。なぜ突然、学校を捨ててブラウィジャヤに引きこもるのか。
思考をまとめる間もなく、再びスマートフォンが震えた。
ぶううん。
焦燥感を煽るような、長い振動。エララが考え直してかけてきたのかと思い、急いで画面を見る。
だが、そこに表示された名前に、私は息を呑んだ。
『ディオ様(VIP保護者)』
私は小さく咳払いをして、パニックを悟られないよう声を整えた。
「もしもし、こんばんは。ディオさん?」
「こんばんは、サスキア先生。夜分遅くに申し訳ありません」
受話器の向こうから響く、深いバリトンボイス。
丁寧で落ち着いているが、岩のように強固な普段の彼の声の裏に、微かな焦りが滲んでいるのを私は聞き逃さなかった。
「いえ、大丈夫ですよ。どうかされましたか?」
ディオは少しの間、沈黙した。
背景からエスプレッソマシンの微かな蒸気音が聞こえる。まだカフェにいるらしい。
「お聞きしたいのですが……今日、学校で何か変わったことはありませんでしたか? エララに関するトラブルとか。生徒や、他の教師との間で」
私の眉間の皺がさらに深くなる。
「何もありませんでしたよ。むしろ今日の昼間、帰る時のエララはすごく幸せそうでした。ずっとニコニコしていて」
「……そうですか」
ディオの返答は平坦だった。
だが、その短い言葉の奥に、深い失望と困惑が渦巻いているのがわかった。気まずく、重苦しい沈黙が二人の間に降りてくる。
親友としての直感が、ひとつの結論を導き出した。
「ディオさん」
私は教師としての建前を捨てた。
「お二人の間に、何か問題でもありましたか? 喧嘩とか」
「いいえ。何も。夕方、カフェにいた時は普段通りでした」
ディオにしては、少しだけ返答が早すぎた。
私は机の縁に腰を掛け、重い溜息を吐いた。エララには後で怒られればいい。今は、この謎を解く方が先だ。
「ディオさんが何も問題がないと仰るなら、あなたはまだ何も知らないということですね」
あえて言葉を切り、彼が耳を傾けるための間を作った。
「さっき、エララから電話がありました。今夜はアパートには帰らないそうです。ブラウィジャヤの実家で寝ると。そして一番おかしいのは……明日から数日間、学校を休むと言い出したことです」
完全な沈黙。
エスプレッソマシンの音さえ聞こえなくなった。スピーカー越しに、息が詰まるような重圧だけが伝わってくる。
ディオは本当に何も知らされていなかったのだ。エララは彼との繋がりすら、一切の予告なしに断ち切った。
「彼女が……休む?」
ようやく絞り出されたディオの声は、ひどく掠れていた。その一言に、彼のすべての活力が吸い取られてしまったかのように。
「私には、何も言っていませんでした」
私はズキズキと痛み始めたこめかみを揉んだ。
「間違いなく、何か深刻な問題が起きています。エララが殻に閉じこもって逃げ出すなんて、レベル一の危険信号ですよ」
私は、エララが暴走した時にいつも引き受ける調停役のポジションについた。
「私からのアドバイスですが……今夜は彼女に連絡しないでください。こういう時のエララは、追えば追うほど逃げます。彼女の頭の中を整理する時間が必要です。明日の放課後、私がブラウィジャヤに行きます。直接、尋問してきますから」
「……ありがとうございます、サスキア先生」
ディオの声には、かつて見せたことのない脆さが混じっていた。
「どうか……状況が分かったら、教えてください」
「もちろんです。明日の夕方には、必ず報告します」
通話が切れた。
暗くなった画面に、シートマスクの残骸でベタつく自分の顔が映っている。
私は玄関に向かい、南京錠がしっかりと掛かっていることを確認した。ドアの隙間から夜風が忍び込み、肌を粟立たせる。
今夜のアパートは、いつもよりずっと広く、そして静かに感じられた。
エララの笑い声も、彼女の古いスクーターのエンジン音もない。ただの空っぽのコンクリートの箱だ。
「あんた、何を隠してるのよ、エララ」
鍵の掛かったドアに向かって、小さく呟く。
明日が、とてつもなく長い一日になることだけは間違いなかった。
第 66 章をお読みいただき、ありがとうございます。
今回はサスキアの視点から、物語の裏側を描きました。
親友ならではの鋭い勘が、真実に迫ります。
次回もどうぞお楽しみに。
ブックマークとコメントをいただけると、とても励みになります。
皆様のご支援が、執筆の大きな力になります。




