第65章 偽りの残響
カフェ・アークスの重い木製のドアに手をかける。
湿り気を帯びた私の掌に、真鍮のノブは氷のような冷たさを伝えてきた。
いつもなら心を解きほぐしてくれるはずのドアベルの音。
チリンッ――
その高い金属音が、今日はまるで私の鼓膜を突き刺す拒絶の声のように聞こえた。
「裏切り者」と、誰かに耳元で囁かれたような錯覚に陥る。
焙煎されたばかりのコーヒーの香りが、店内に満ちている。
かつては私の神経を鎮めてくれる最高の安らぎだったその香りが、今はひどく息苦しい。
電話越しに聞いたカミーユの、あの湿った啜り泣きの残響が耳の奥にこびりついている。
「エララ?」
エスプレッソマシンの向こう側から、聞き慣れたバリトンの声が響いた。
ディオが黒いエプロンで手を拭きながら、こちらを見ている。
真剣な表情で豆の状態を確認していた彼の顔が、私に気づいた瞬間に和らいだ。
彼が私だけに、特別に用意してくれる微笑み。
目尻を下げ、深い愛情を湛えたその眼差しが、今の私にはあまりにも眩しすぎて直視できない。
ディオはカウンターを回り込み、迷いのない足取りでこちらへ歩み寄ってきた。
その大きな手が、私を抱きしめるため、あるいは額に口づけを落とすために伸びてくる。
ここ一週間、私たちの間で繰り返されてきた、甘く穏やかな儀式。
私は反射的に視線を落とした。
「あ、ちょっと待って、ディオ……。車のキーが、どこかに行っちゃって」
慌ててショルダーバッグの中をかき回す。
顔を隠すように髪を垂らし、実際には整理されているはずの中身を無意味に乱した。
ディオの足が、私のすぐ目の前で止まる。
彼の体温と、清潔なミントの香りがふわりと漂ってきた。
けれど、私は頑なに顔を上げなかった。
「エララ?」
彼の声から、先ほどの温もりが消えた。
代わりに、鋭い警戒心と困惑が混じり合う。
「……大丈夫か?」
「大丈夫。ただ、ちょっと疲れているだけ。今日の職員会議、すごく長引いちゃって」
一気に言葉を吐き出した。
ようやく掴んだボールペンを、あたかも重要な探し物だったかのように握りしめる。
一瞬だけ彼と視線を合わせ、すぐに階段の方へと逃げるように目を逸らした。
ディオは目を細め、私の顔に張り付いた「疲れ」という名の仮面を剥ぎ取ろうとしている。
その沈黙が、何分にも感じられた。
「もう四時十分ね。上に行かなきゃ。ライラが待ってるわ」
彼の手が触れる前に、私はその脇をすり抜けた。
触れ合いも、優しい挨拶もない。
鉄製の階段を一段ずつ、背後から幽霊に追いかけられているような心地で駆け上がった。
実際、私は追いかけられていた。
スマホの画面越しに泣き崩れていた、カミーユという名の過去に。
「先生! 見て、ブロックで大きなお家を作ったの!」
リビングに入ると、ライラが弾けるような笑顔で迎えてくれた。
カーペットの上に座り込み、色とりどりの積み木に囲まれている。
その無垢な姿は、いつもなら私の心を一瞬で溶かしてくれたはずだった。
「……ええ、上手ね、ライラ。でも、まずはお勉強をしましょう? 少しだけでいいから」
ソファに腰を下ろし、算数のドリルを開く。
けれど、ライラの顔を見るたびに、私の脳裏には別の残像が重なった。
この子の瞳。
カミーユと同じ、あの美しい薄灰色の瞳。
真っ直ぐな鼻筋も、笑った時の口元も。
『ティエリがライラを連れて行こうとしているの……私はただ、罪を償いたいだけ……』
カミーユの言葉が、頭の中で渦を巻く。
罪悪感が、じわじわと私の首を絞めていく。
私は、この子の母親から幸せを盗み取っている泥棒なのではないか。
ディオを助けているつもりで、実は一人の母親を絶望の淵に追いやっているのではないか。
「先生? どうしたの? これ、五たす三は?」
「え? あ……そうね。八よ、ライラ。正解」
ライラの笑い声が、遠くの出来事のように聞こえる。
私の心はここにあらずだった。
学校の駐車場で、秘密を抱えたまま震えていた車の中に置き去りにされたままだ。
背後のドアが静かに開いた。
ディオがトレイに二つのジュースとビスケットを載せて入ってきた。
ガラスの触れ合う音が、この張り詰めた空間で爆発でも起こしそうなほど慎重に、彼はそれをテーブルに置いた。
「飲みなさい、エララ。顔色が悪い」
ディオの低い声が、背中越しに届く。
彼は座ろうとはせず、ただ傍らに立って私を観察していた。
「ありがとう。いただきます」
他人行儀な言葉。
昨夜、キッチンで肩を寄せ合っていた二人とは思えないほどの距離感。
「下の店から何か食べ物を持ってこさせようか? 昼もまともに食べていないだろう」
「いいえ、結構よ」
「ホットチョコレートでも淹れようか?」
「必要ないわ」
「……喉が渇いたら、飲みなさい」
私の短く、冷たい拒絶。
ディオの中に、苛立ちと不安が募っていくのが空気の振動で伝わってくる。
彼は愚かな男ではない。
私が何かを隠していること、そしてその「何か」が致命的なものであることを、本能で察している。
「わかった」
ディオの声に、隠しきれない傷跡が混じった。
「何かあれば、呼びなさい」
彼は部屋を出て行ったが、その気配はドアのすぐ向こう側に留まっているようだった。
愛する女の豹変に、必死で理由を探している彼の姿が目に浮かぶ。
五時三十分。
私は逃げるようにライラのドリルを閉じた。
「今日はここまでにしましょう。先生、もう帰るわね」
「ええっ? もう? いつもはもっと一緒にいてくれるのに」
ライラが不満げに唇を尖らせる。
その純粋な瞳に見つめられるのが、今は何よりも苦しい。
「少し、頭が痛いの。ゆっくり休まないと」
乱暴にバッグへ荷物を詰め込む。
本、ペン、そして呪いの箱のようなスマートフォン。
一刻も早く、この場所から立ち去りたかった。
この部屋の空気も、ディオの気配も、ライラの存在も、すべてが私の裏切りを責め立てている。
階段へ向かって足を踏み出した、その時。
ガシッ――
強い力で、腕を掴まれた。
痛みはないが、決して逃がさないという意志の籠もった、鉄のような握力。
「待て」
ディオの声は低く、抑えきれない感情で震えていた。
彼は私の腕を引き、無理やり自分の方へと向かせた。
その瞳は鋭く、私の脳内を透視して隠し事を見つけ出そうとしているかのようだった。
「どうしたんだ、エララ。店に入ってきた時から、お前はおかしい。私を避け、目も合わせようとしない。私が何か、お前の気に障ることをしたか?」
「何でもないって言ってるでしょ、ディオ。ただ疲れているだけ。お願い、離して」
腕を振り払おうとしたが、彼はさらに力を込めて私を自分の方へ引き寄せた。
「嘘をつくな!」
鋭い怒声が響き、私は思わず肩を震わせた。
「お前のことはわかっている。ただの疲れじゃない。……カミーユか? 彼女から連絡があったのか?」
心臓が跳ね上がった。
なぜ、彼にそれがわかるのか。
私の動揺を、彼は一瞬も見逃さなかった。
「違う! 彼女なんて関係ないわ! 離して、ディオ!」
狂ったように抵抗する私を、彼は力ずくでその胸の中に閉じ込めた。
強い抱擁。
彼の心臓が、私の胸板にまで響くほど激しく打ち鳴らされている。
片手で私の頭を肩に押し付け、もう片方の腕が腰を折れんばかりに締め付ける。
「嘘はつかないでくれ……頼む、エララ」
耳元で囁かれた声は、今にも壊れそうなほど脆かった。
「なぜそんな風に振る舞う? 話してくれ。二人で向き合えば、解決できないことなんてないはずだ」
彼の腕の中で、私は硬直した。
ディオの体温、ミントの香り。
かつては私を救ってくれたそのすべてが、今は甘美な毒のように全身に回っていく。
叫びたかった。
カミーユからの電話のこと、彼女の涙、そして私の中に芽生えた迷いを、すべてぶちまけてしまいたかった。
けれど、カミーユとの約束――「時間をあげる」というあの言葉が、私の舌を縛りつけた。
今ここで真実を話せば、一人の母親がやり直そうとする最後の機会を奪ってしまう。
その重荷に、私は耐えられなかった。
数秒間、私は彼の腕の中で死んだように静止していた。
安らぎの場所であるはずの抱擁が、今は逃げ場のない監獄に感じられる。
ディオがわずかに腕を緩めた。
けれど、その手は私の肩をしっかりと掴んだままだ。
彼は私の顔を覗き込み、逃げ場を塞ぐ。
「正直に言ってくれ。私を見て」
私は唇を噛み締め、視線を彷徨わせた。
彼の目を見てはいけない。
見れば、すべてが崩れ去ってしまう。
嘘をつかなければならない。
今夜の平穏のために。ライラのために。
「……本当に、ただ疲れているだけなの。……ディオ」
私は、彼の名前の代わりに、最も残酷な武器を口にした。
「……愛してるわ。だから、信じて」
その言葉は、毒を塗った刃のように私の唇から滑り落ちた。
それが彼の最大の弱点であることを、私は知っていた。
彼を黙らせ、追及を止めさせるための、最低な手段。
案の定、ディオの動きが止まった。
強張っていた彼の顎のラインが、目に見えて緩んでいく。
鋭かった瞳は、私を追い詰めてしまったことへの罪悪感に染まり、柔らかく解けた。
彼は深く、重い溜息をつき、肩の力を抜いた。
「……すまない」
彼は親指で私の頬を優しく撫でた。
「私が過敏になりすぎていた。お前が心変わりしてしまうのが、怖くてたまらないんだ」
「そんなこと、ありえないわ」
また一つ、嘘を重ねた。
自分の声が、どこか遠くで響いているような感覚。
「わかった。今日はもう帰りなさい。ゆっくり休むんだ」
彼の手が完全に離れた。
肌に触れていた温もりが消え、急激な寒気が私を襲う。
けれど、私は立ち止まらなかった。
振り返ることなく、一気に階段を駆け下りた。
ディオは店の勝手口まで私を見送りに来た。
私が白いシビックに乗り込むのを、彼はじっと見守っていた。
エンジンをかけると、彼は名残惜しそうに手を振った。
その姿が、バックミラーの中でどんどん小さくなっていく。
角を曲がり、カフェ・アークスが完全に視界から消えた瞬間。
私はもう、自分を支えきれなくなった。
セノパティ通りの喧騒を抜け、街路樹の影に車を急停車させた。
荒々しくエンジンを切り、車内に沈黙が訪れる。
ドクン、ドクン――
狂ったように脈打つ心臓の音だけが、狭い車内に響き渡る。
「馬鹿……私の馬鹿……!」
私はハンドルを何度も、拳で叩きつけた。
堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出す。
膝の上に涙が滴り、私は顔を覆って激しく号泣した。
痛い。
胸の奥が、引き裂かれるように痛い。
私を信じ、すべてを捧げてくれているディオを、私は敵の涙を信じることで裏切った。
「愛してる」という言葉を、嘘を隠すための道具として使った自分が、ひどく汚らわしく感じられた。
「ごめんなさい、ディオ……ごめんなさい……」
助手席に転がっているスマートフォンを、憎しみを込めて見つめる。
それはいつ爆発してもおかしくない時限爆弾のように、静かにそこに横たわっていた。
私は、自分で作り上げた嘘の迷路に閉じ込められた。
出口など、どこにも見当たらなかった。
外では街灯が灯り始め、街が夜の装いを整えていく。
けれど、私の世界は、ただ深く、暗い闇へと沈んでいくばかりだった。
第 65 章をお読みいただき、ありがとうございます。
嘘をつきながらも愛を語るエララの苦悩を描きました。
真実を告げるべきか、沈黙を守るべきか。
次回もどうぞお楽しみに。
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