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第64章 歪んだ残響

手の中でスマートフォンの画面がゆっくりと消灯し、冷たい黒いガラスに私の青ざめた顔が映し出された。


ホンダ・シビックの車内に満ちた沈黙は、まるで物理的な重みを持っているかのように私の肩にのしかかる。


先ほどまで耳元で震えていたカミーユの泣き声が、車内の酸素をすべて吸い尽くしてしまったかのようだった。


ハンドルを握る指先に力を込めると、白くなった関節が悲鳴を上げる。


アイドリングを続けるエンジンの微かな振動が掌に伝わってくるが、今の私にはそれさえも遠い世界の出来事のように感じられた。


私の意識は、いまだにあの薄暗いホテルの客室に置き去りにされたままだ。


「私はただ、罪を償いたいだけなの……」


彼女の囁きが、壊れたレコードのように頭の中で何度も繰り返される。


それは、パリでの裏切りを語ったディオさんの低い声と重なり合い、私の胸の中で激しい嵐を巻き起こしていた。


二つの真実が衝突し、火花を散らす。


ダッシュボードを虚ろな目で見つめる。


いつもなら気分をリフレッシュさせてくれるはずのペパーミントの香りが、今は鼻を突くほど不快で、吐き気を催させた。


自分がまるで犯罪者のように思えてくる。


他人の家族のドラマに足を踏み入れ、誰も知らないはずの「破壊の鍵」を握ってしまった侵入者。


私は一体、彼らにとって何者なのだろうか。


ただのエララ。ディオさんに救われただけの、しがない小学校教師。


私は新参者に過ぎない。


それに対してカミーユは、すべての始まりだった。


ライラちゃんにあの美しい灰色の瞳を与えた女性であり、紛れもない実の母親なのだ。


血の繋がりは決して切ることはできない。


その言葉が耳元で鋭く囁き、私の立場の危うさを突きつけてくる。


どれほどライラちゃんを愛していても、私は結局のところ部外者だ。


過去がどれほど悲惨であっても、子供の元へ戻りたいと願う母親を拒む権利など、私にはないはずだ。


心の奥底に押し込めていた劣等感が、音を立てて這い出してきた。


カミーユはあまりにも美しく、エレガントで、そしてディオさんと共有した長い歴史がある。


もし、ディオさんの怒りがただの裏返しだとしたら。


もし、その憎しみの裏側に、彼女の涙によって再燃するかもしれない情熱の残骸が隠れているとしたら。


「馬鹿なことを考えないで、エララ。集中して」


バックミラーに映る自分に言い聞かせ、ゆっくりとアクセルを踏んだ。


放課後の静まり返った校庭を後にする。


ジャカルタの午後の日差しを浴びたセノパティへの道は、まさに遅々として進まない地獄だった。


延々と続く車の列が、容赦ない渋滞の中に閉じ込められている。


熱せられたアスファルトが陽炎を立ち上げ、前方の景色を歪ませていた。


苛立ったクラクションの音が重なり合い、私の頭の中の混乱をさらに煽り立てる。


シートに深く背中を預け、数センチずつしか進まない車列に身を任せた。


埃にまみれたバスの背面をぼんやりと眺めながら、意識は七年前のパリへと飛ぶ。


若き日のディオさんを想像してみる。


懸命に働き、大きな希望を胸に狭いアパートへと帰宅した彼。


そこで目にしたのは、別の男と口づけを交わす妻の姿だった。


その痛みは、想像を絶するものだったに違いない。


ディオさんが私に嘘をつくはずがない。あの時、彼が語った言葉の重みは本物だった。


でも、もしカミーユもまた、真実を語っているのだとしたら。


もし彼女が本当にティエリに強要されていたのだとしたら。


もし、あの冷酷な富豪から赤ん坊を守るために、あえてライラちゃんを置いて去ったのだとしたら。


レイとの経験を通じて、支配と操作に満ちた世界を知ってしまった私には、彼女のシナリオが単なる作り話だとは断言できなかった。


私は今、一本ずつワイヤーが切れていく吊り橋の上に立っているような気分だ。


もしこの電話のことをディオさんに話せば、彼がようやく手に入れた平穏を壊してしまうかもしれない。


けれど黙っていれば、私はライラちゃんから母親を知る機会を奪う裏切り者になってしまう。


「世界は一夜にして一変する」


かつてディオさんが言った言葉が、今になって重く響く。


確かにその通りだ。けれど、今回の変化はあまりにも急激で、めまいがする。


ハンドルを切り、セノパティ通りへと入る。


立ち並ぶ高級なカフェやレストランが、人々のドラマなど知らぬ顔で傲慢にそびえ立っていた。


カフェ・アークスに近づくにつれ、私の心はどんどん萎縮していく。


私の存在が、母親と子供を引き離すことの上に成り立っているのだとしたら、私はディオさんの隣に立つ資格などないのではないか。


ディオさんとライラちゃんを独占したいと願うのは、私の傲慢なエゴなのだろうか。


白いシビックが、カフェ・アークスの横にある駐車場に滑らかに停車した。


すぐにはエンジンを切らなかった。


埃を被ったフロントガラス越しに、レンガ造りの建物をじっと見つめる。


サンバイザーの鏡を下ろし、自分の顔を確認した。


目は疲れ果て、まるで大きな罪を背負っているような顔をしている。


「あなたはライラちゃんの家庭教師。ただ、それだけ」


崩れ去ったプロフェッショナリズムの壁を、必死に再構築しようと呟く。


「彼らの問題に首を突っ込んじゃダメ。余計なヒーロー気取りはやめなさい」


自分の頬を軽く叩き、失われた血色を取り戻そうとする。


仮面を被らなければならない。


ディオさんの前では、いつも通りの私でいなければならない。


カミーユによって毒された私の思考を、彼に悟られてはならないのだ。


ふと、車の窓越しに通用口の動きが目に入った。


ディオさんだ。


彼はもう、あの高価なスーツを纏ってはいない。


黒いポロシャツに、肩にはエプロンを引っ掛けている。


大きなゴミ袋を手にし、駐車場の隅にある集積所へと歩いていく。


足取りは力強く、肩幅は広い。その横顔には、いつもの静かな集中力が宿っていた。


彼は相変わらず凛としていて、揺るぎない。


けれど、今日の彼がなぜか……とても遠い存在に見えた。


こうして遠くから眺めていると、自分がこの男性についていかに無知であるかを思い知らされる。


私が愛しているこの人は、本当は誰なのだろう。


ゴミを捨て終えたディオさんが、足を止めた。


袖で額の汗を拭い、ふと通りへと視線を向ける。


無表情だが、その瞳の奥には決して消えることのない警戒心が潜んでいた。


突然、心臓を冷たい手が掴んだような恐怖が走った。


彼が怖いのではない。


私が彼を、永遠に本当の意味で理解することなどできないのではないかという現実に、怯えているのだ。


ディオさんが背を向け、カフェの中へと戻っていく。


深く息を吸い込み、乱れ始めた鼓動を鎮めるためにゆっくりと吐き出した。


エンジンを切り、キーを抜いて、仕事用の鞄を掴む。


通用口へと向かう一歩一歩が、鉛のように重い。


いつもは軽い鞄が、今は石を詰め込んだかのように感じられた。


自分の歩みが、裏切りへの階段を上っているような錯覚に陥る。


木の扉の前に立つ。


冷たいドアノブに触れた手が、微かに震えた。


一瞬だけ躊躇し、目を閉じて短い祈りを捧げる。


何をすべきか決まるまで、せめてこの秘密を守り通せますように。


もう一度深呼吸をし、強引に口角を上げて薄い微笑みを作った。


そして、扉を押し開ける。


カランッ


ドアの上に取り付けられたベルの音が、密閉されたカフェの静寂を破った。


濃厚で温かいコーヒーの香りが一気に鼻腔をくすぐり、偽りの安らぎを与えようとする。


新しい幕が上がった。


そして私は、台本を持たないまま舞台に立たされた役者だった。


第 64 章をお読みいただき、ありがとうございます。

エララの心の葛藤が深まる章でした。

真実と嘘の狭間で、彼女はどのような選択をするのでしょうか。

次回もどうぞお楽しみに。

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