第63章 鰐の涙
手の中のスマートフォンが、まるで意志を持った生き物のように震え続けている。
液晶画面から放たれる無機質な光が、暗い車内に鋭く突き刺さった。表示されているのは、フランスの国番号「+33」から始まる見知らぬ番号だ。
その光は私の瞳の奥に焼き付き、夕闇に包まれたジャカルタの湿った空気が、いっそう重くのしかかった。
車内の空気は、エンジンを切ったばかりの熱気と私の焦燥が混ざり合い、喉に張り付くような不快感を醸し出している。
こめかみを伝う冷や汗が、硬く結んだ顎のラインをなぞってゆっくりと流れ落ちた。
「……もしもし」
私の声は、自分でも驚くほど掠れていた。まるで喉の奥に小石が詰まっているかのような、頼りない響き。
「エララ……私よ、カミーユ」
その声を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
昨日のカフェ・アークスで見せた、あの傲慢で冷徹な女王のような響きはどこにもない。
画面越しに聞こえるのは、今にも崩れ落ちそうな、震える女の声だった。そのあまりの豹変ぶりに、私の脳内で警戒アラートが激しく鳴り響く。
「お願い……少しでいいの、ビデオ通話に切り替えてくれない? あなたに見せなきゃいけないものがあるの。ディオがすべてを壊してしまう前に」
心臓が肋骨を内側から激しく叩き、呼吸が浅くなる。
論理的な思考は、今すぐこの通話を切るべきだと叫んでいた。ディオは警告したはずだ。彼女に関わるなと。
けれど、私の愚かな好奇心か、あるいは断りきれない性分が、指を画面の上に留まらせた。
「お願い、エララ。ライラのためなの」
その名前は、私の心の防波堤をいとも簡単に決壊させる呪文だった。
震える指先で、私はビデオ通話のアイコンをタップした。
画面が一度暗転し、読み込みの円が回る。その数秒が、永遠のように長く感じられた。
やがて、画面に映し出された光景に、私は息を呑んだ。
そこにいたのは、昨日見た「カミーユ・デュヴァル」ではなかった。
高級な毛皮のコートも、すべてを見下すようなサングラスも、完璧に塗り固められた陶器のようなメイクもない。
彼女はホテルの広いベッドの端に、力なく座り込んでいた。
部屋の明かりは落とされ、枕元のランプひとつだけが、彼女の顔に深くて残酷な陰影を落としている。
美しく整えられていたはずのブロンドの髪は、自ら掻き毟ったかのように乱れ、四方に散らばっていた。
何よりも衝撃的だったのは、その瞳だ。
真っ赤に充血し、腫れ上がった瞼からは、絶え間なく涙が溢れ出している。
白粉を失った肌は土色に沈み、深い疲労の色が刻み込まれていた。
それは、完膚なきまでに打ちのめされた、ひとりの女の姿だった。
「……ごめんなさい」
カミーユは、嗚咽を堪えるようにして口を開いた。片手で口元を覆い、肩を激しく震わせている。
「昨日はあんなに酷い態度をとって……本当に、自分がどうかしちゃっていたの」
私は言葉を失い、画面を凝視するしかなかった。
彼女の泣き声は、人生のどん底に突き落とされた人間だけが漏らす、魂を削るような響きを持っていた。
同じ女性として、その姿を見せつけられるのは、胸の奥を鋭利な刃物で抉られるような痛みを感じさせた。
「カミーユ、どうして私に電話を? 何の用なの?」
私は努めて冷静に、平坦な声を保とうとした。だが、心の中の天秤は、すでに大きく揺れ始めていた。
カミーユは手の甲で乱暴に涙を拭った。その仕草は、昨日までの優雅な偽物とは違い、あまりにも生々しく、人間臭かった。
「七年よ、エララ……この七年間、目を閉じるたびに娘の顔が浮かんできて、私を責め立てるの」
彼女の声は、枯れ葉が擦れるような乾いた掠れ方をしていた。
「私は愚かだった。若くて、何も分かっていなかったの。贅沢こそがすべてだと信じ込んでいた。ティエリこそが私の安らぎの場所だと思っていた。でも、違った……私は、致命的な間違いを犯したのよ」
彼女はカメラのレンズを真っ直ぐに見つめた。まるで、私の魂の奥底を覗き込もうとするかのように。
「ティエリは……あなたが想像しているような男じゃない。彼は私を力で支配した。もし彼に従わなければ、私のキャリアも、フランスにいる家族の生活も、すべてを叩き潰すと脅したの。私には、選択肢なんてなかった!」
再び、彼女の嗚咽が激しくなった。枕に顔を埋め、声を押し殺して泣き続けている。
「ライラを置いていくしかなかった……もしティエリが、あの子が自分の子じゃないと知ったら、あの子の命さえ危なかったから。私はあの子を守りたかったの! ディオにあの子を託したのは、それが唯一の安全な道だと思ったからよ!」
血の気が引くのを感じた。
この話は、昨夜ディオが語った物語とは、あまりにもかけ離れている。
ディオは、彼女がダイヤモンドのために娘を捨てたと言った。けれど、目の前の女は、自分は状況の犠牲者だと神に誓わんばかりの勢いで訴えている。
一体、どちらを信じればいいというのか。
「……だったら、どうして今なの?」
私は囁くような声で問いかけた。
「どうして七年も経ってから、突然現れたの?」
カミーユが顔を上げた。その灰色の瞳には、本物の恐怖が宿っていた。
「ティエリに知られたのよ。私に隠し子がいたことが。彼は今、私を追っている。ライラを奪い、自分の会社の政治的な道具にしようとしているの。あの子を助けなきゃいけない! ティエリの手の届かない場所へ、あの子を連れて行かなきゃ!」
彼女は画面に顔を近づけた。毛穴のひとつひとつ、肌の疲れ、絶望の表情が、残酷なほど鮮明に映し出される。
「同じ女性として……あなたなら分かってくれるでしょう? 喉を締め付けられるような、この切ないまでの恋しさを。胸に大きな穴が開いて、何をやっても埋まらないあの感覚を」
カミーユは自分の胸を強く掻き毟った。苦痛に顔を歪めながら。
「ディオから強引に奪おうなんて思っていない。彼があの子を愛しているのは分かっている。私はただ、間違いを正したいだけ。ライラに知ってほしいの。母親は、決してあの子を捨てたわけじゃなかったって。ディオに……少しだけでいい、許してほしいのよ」
私の心は、激しく揺れ動いた。
そこに映っているのは、他人の幸せを壊そうとする怪物ではなく、赦しを求めて這いずり回るひとりの母親に見えた。
論理と共感が、私の中で激しい火花を散らして衝突する。
ディオは、彼女に対して厳しすぎるのではないか? 彼は自分の傷ついたプライドだけを見て、彼女がフランスで受けていた圧力を無視しているのではないか?
母親という存在は、過去にどんな過ちを犯したとしても、我が子を抱きしめる二度目のチャンスさえ与えられないほど罪深いものなのだろうか。
疑念が、ディオへの信頼をじわじわと蝕んでいく。
「お願い、ディオと話せるように手伝って、エララ……」
カミーユは画面の前で両手を合わせ、祈るように懇願した。
「五分でいいの。感情的にならずに、彼と話す時間をちょうだい。ライラのためよ。ライラには母親が必要でしょう? 自分のルーツを知らなければ、あの子は大人になった時、魂の半分を失ったような空虚さを抱えることになるわ」
私は深く息を吸い込み、濁り始めた思考を整理しようと試みた。
車内のペパーミントの香りが、涙の催眠術から私を引き戻そうとするかのように、鋭く鼻腔を突く。
「カミーユ、あなたは本当に後悔しているの?」
私の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「それとも……ティエリとの間に別の問題が起きて、ライラを盾にしようとしているだけなんじゃないの?」
その問いは、私の無意識から飛び出した、鋭いナイフのような一撃だった。
カミーユは一瞬、言葉を失った。彼女は測りかねるような視線を私に向けた後、力強く頷いた。新たな涙が、痩せた頬を伝い落ちる。
「神に誓って、エララ。私は一生、あの決断を後悔し続けている。あの子のいない一秒一秒が、私にとっては拷問なの。盾なんていらない。逃げるだけのお金なら持っているわ。でも、娘を置いて逃げることなんてできない。私はただ、罪を償いたいだけなの」
彼女は再び泣き崩れた。今度は、より静かに、より疲れ果てた様子で。
「助けて……私には、ここにはもう誰もいないの。誰もが私を犯罪者のような目で見る。でも、あなただけは、優しい心を持っているように見えた。お願い、私を助けて」
私は目を閉じた。
昨日のカフェで怯えていたライラの姿と、画面の中で崩れ落ちているカミーユの姿が重なり合う。
私は、二つの相反する「真実」の狭間に、身動きが取れなくなっていた。
「……約束はできないわ、カミーユ」
ようやく絞り出した声は、ひどく疲れ切っていた。
「でも、ディオに話してみる。結果がどうなるかは分からないけれど、あなたが言ったことは、そのまま彼に伝えるわ」
カミーユの顔が、一瞬にして明るくなった。涙の跡は残っているものの、その唇には、深い安堵の色を湛えた微かな微笑が浮かんだ。
「ありがとう、エララ……本当にありがとう。あなたは、まさに天使よ」
「もう切るわね。行かなきゃいけないから」
「ええ。本当に、ありがとう」
ピッ
通信が切れた。
スマートフォンの画面はホームメニューに戻り、無機質な壁紙が冷たく私を見つめ返している。
私は脱力したまま、端末を助手席に放り出した。
指先の震えが止まらない。私はハンドルを強く握りしめ、冷たい革の感触に額を押し当てた。
この道徳的な混乱は、レイ・ダルヴィアンからの脅迫よりも、はるかに私の精神を消耗させた。
もしカミーユの言葉が真実なら、ディオは一人の母親の更生を阻む、執念深い男ということになる。
だが、もしカミーユが嘘をついているのだとしたら。
彼女は、私がこれまでの人生で出会った中で、最も才能に溢れ、かつ最も危険な女優ということになるだろう。
そして私、エララ・ドウィジャヤは、ディオが心血を注いで築き上げた防波堤を崩しかねない、嵐の架け橋になることを約束してしまったのだ。
私はエンジンのスターターボタンを押した。
シビックのエンジンが低く唸りを上げ、静まり返った学校の駐車場を震わせる。
ライラに会わなければ。そして、この秘密が顔に出ないように気をつけながら、ディオの目を見なければならない。
「私は……一体、何をしてしまったの?」
バックミラーに映る自分に問いかけたが、答えは返ってこない。
ただ、疑念と迷いに満ちた一人の女が、暗闇の中から私をじっと見つめ返しているだけだった。
ドクン、ドクン
心臓の鼓動だけが、静かな車内に虚しく響き渡っていた。
第 63 章をお読みいただき、ありがとうございます。
カミーユの涙は本物なのか、それとも演技なのか。
エララの心が揺れる瞬間を描きました。
次回もどうぞお楽しみに。
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