第62章 嵐の予兆
放課を告げるチャイムが鳴り響き
下校を告げる鐘の音が鋭く響き渡り、廊下の喧騒を切り裂くと同時に、1年A組の生徒たちから抑えきれない歓声が上がった。
いつもなら、その音は疲労困憊の一日の終わりを告げる合図にしか聞こえない。けれど今日の私には、新しい人生の幕開けを祝うファンファーレのように響いた。
私は教卓の上に積まれた練習帳を、まるで踊るような軽やかな手つきで整えた。いつもなら肺を締め付けるようなチョークの粉の匂いさえ、今は清々しい香りのように感じられる。
昨夜、電話越しにディオが口ずさんでいたジャズのメロディーが耳に残り、私は小さく鼻歌を歌った。
「先生、どうしてずっとニコニコしてるの? 何か競争にでも勝ったの?」
ガファがぶかぶかのリュックサックを背負いながら尋ねてきた。その丸い瞳が、好奇心たっぷりに私を見上げている。
私は小さく笑って、彼の頬を愛おしげにつねった。
「先生はね、今日みんながとってもお利口さんだったから嬉しいのよ。さあ、早く行きなさい。お迎えが待ってるわよ」
子供たちの列を先導して正門へと向かう足取りは、羽が生えたように軽かった。ジャカルタの昼下がりの日差しは、普段なら肌を焼くように痛いけれど、今日ばかりは背中を押してくれる温かい抱擁のように感じられる。
これまで肩にのしかかっていた重圧が消え去り、新しい自分――もう自分の影に怯えることのないエララがそこにいた。
遠く、迎えの車が並ぶ列の中に、彼の姿を見つけた。
アンサナの木の下に、あの白いハッチバックが停まっている。ディオは運転席のドアに寄りかかり、黒のポロシャツが、彼の引き締まった体にぴったりと馴染んでいた。
サングラスがその表情を隠しているが、彼が人混みに視線を走らせ、私を探していることは分かっていた。
「パパあ!」
ライラが私の手を振りほどき、全力で駆け出した。二つに結った髪を可愛らしく揺らしながら、ディオの懐へと飛び込んでいく。
ディオはその小さな体を抱き上げ、空中でくるりと回した。ライラの甲高い笑い声が弾け、蒸し暑い午後の空気を満たした。
私は安全な距離で立ち止まり、満面の笑みで手を振った。ディオはライラを下ろすと、私の方を向いた。
彼は右手を耳元に当てて電話のジェスチャーをし、それからカフェの方角を指差した。『今夜、家で会おう』という無言の合図だ。
私は出席簿の陰で小さく親指を立てて頷いた。二人の姿を見ていると、胸の奥が温かさで満たされる。
昨夜のカミーユという嵐は、まるで過ぎ去った悪夢のようだった。本当の戦いは、おそらくこれから始まると分かってはいても。
***
職員室へと戻る廊下は静まり返り、私の足音だけが響いていた。一時からの緊急職員会議が始まる前に、まだ片付けなければならない事務作業が山積みだ。
ドアを開けると、インスタントコーヒーと古紙の匂いが私を迎えた。部屋の隅では、サスキアがすでに自分の椅子を私の机の近くまで引きずってきており、その顔には名探偵のような鋭いオーラが漂っていた。
「んんっ。なんだか今日の昼は、オーラが違うじゃない」
サスキアは目を細め、探るような視線を向けてきた。
「昨日はどうだった? ブラウィジャヤの要塞、攻略できた?」
私は鞄と出席簿を置き、安堵のため息をついて椅子に座った。
「大成功よ、キア。お母様が折れたの。お父様に至っては、もうディオを息子みたいに扱ってるわ。何もかも……魔法みたい」
サスキアは感嘆したように机を軽く叩いた。
「マジで。インディラおば様が折れるなんて、本物の奇跡ね。で、あの『イケメン運送屋さん』はどうだった? 二度目のスルタン候補との対面で、ビビってなかった?」
昨夜のディオの落ち着き払った様子を思い出し、私は苦笑した。
「彼はすごく冷静だったわ。むしろお父様の方が彼に気圧されていたくらい。でも……」
私の笑みが少し陰った。昨日カフェで見た、あの金髪の女性の姿が脳裏をよぎる。
「昨夜、ディオはカミーユに会いに行ったの」
サスキアが息を呑み、椅子がギシッと音を立てた。
「はあ!? あのフランス女? それで、どうなったの?」
「まだ詳しいことは聞いてないの。ディオは昨夜、全てを終わらせるためにホテルへ彼女に会いに行ったわ。結果がどうなったかは分からないけど、彼は変わらず落ち着いて見えた」
サスキアは一瞬沈黙した。背もたれに体を預け、指先でペンを回す。そのひょうきんな表情が消え、滅多に見せない真剣な顔つきになった。
「エラ、聞いて」
サスキアの声のトーンが下がった。
「嵐の前の静けさってのは、本当にあるのよ。ブラウィジャヤでの平和に酔いしれちゃダメ。カミーユみたいな女が、わざわざフランスから『ボンジュール』だけ言いに来るわけないでしょ」
私は眉をひそめた。
「どういうこと?」
「彼女は実の母親よ、エラ。生物学的な権利も、お金も、エゴも持ってる。もしディオが妙に落ち着いて見えるなら、あなたが心配しないように何かデカいことを隠してる可能性があるわ。今夜、絶対に詳細を聞き出しなさい。『大丈夫』の一言で誤魔化されちゃダメよ」
サスキアの警告は、私の高揚感に冷水を浴びせるようだった。彼女の言う通りだ。ディオはいつも私の盾になってくれるあまり、彼自身も傷つく人間だということを、私は忘れがちになる。
「ええ、キア。今夜、彼に聞いてみる」
「よろしい。最後のカーブで追い抜かれないようにね」
***
教職員用の駐車場へ向かう途中、真昼の太陽が頭頂部を焦がすように照りつけていた。
職員会議は予想以上に長引き、新カリキュラムを巡る論争のせいで頭が少しズキズキしていた。
サスキアはすでにスクーターに跨り、ヘルメットのシールドを下ろしていた。
「お先! 何かあったらすぐ連絡してよね!」
ヘルメット越しに彼女が叫んだ。
「うん! 気をつけてね、キア!」
彼女のバイクが校門の向こうに消えるまで手を振り、私は空っぽになりかけた駐車場に一人残された。キーを握りしめ、愛車の白いシビックへと歩み寄る。
ドアを開けた瞬間、車内に閉じ込められていた熱気が顔を直撃した。私は急いで乗り込み、助手席に鞄を放り投げるとエンジンをかけた。
エアコンが最大出力で唸りを上げ、容赦ないジャカルタの熱気に対抗しようとする。
私はシートに頭を預け、しばし目を閉じた。セノパティへ向かう運転の前に、ほんの少しの静寂を味わいたかった。
その時だった。
ブーッ、ブーッ、ブーッ。
シフトレバーの近くに置いたスマートフォンが、けたたましく振動した。ディオから居場所を尋ねるメッセージだろうと思い、私は端末を手に取った。
だが、画面を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。
知らない番号。見慣れない長い数字の羅列。そして何より、私の背筋を凍らせたのはその国番号だった。
+33。
フランス。
手が震えた。画面に触れるのを躊躇う。カミーユの弁護士だろうか? それとも、まさか……。
私は深く息を吸い込み、胸の動悸を鎮めようと努めながら、通話ボタンをタップした。
「もしもし?」
喉が張り付いたような、消え入りそうな声が出た。
向こう側は一瞬、沈黙していた。聞こえるのはノイズと、強い風の音だけ。やがて、女の声が聞こえた。
昨日のカフェのような傲慢さは微塵もない。その声は枯れ、泣きはらした後のように湿り、ひどく脆かった。
『エララ……カミーユよ』
私は凍りついた。舌が麻痺したように動かず、どう返事をすればいいのか分からない。
『お願い……』
カミーユの声が、押し殺したような嗚咽に変わった。
『少しだけビデオ通話できないかしら? お願いよ。少しだけでいいの。ディオが全てを壊してしまう前に、あなたに見てもらわなきゃいけないものがあるの』
私はダッシュボードを見つめたまま硬直した。混乱と恐怖が混ざり合い、苦い塊となって胃の奥に沈む。
『お願い、エララ。ライラのために』
第 62 章をお読みいただき、ありがとうございます。
平穏な日常に忍び寄る影を描きました。
カミーユからの突然の連絡、その意図とは?
次回もどうぞお楽しみに。
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