第61章 帰る場所、繋がる夜
ケバヨラン・バルの夜風が、庭のパームツリーを静かに揺らしていた。葉擦れの音が、まるで遠い海の潮騒のように耳元を撫でた。琥珀色のガーデンライトが濡れたアスファルトを照らし、私たちの影を長く伸ばしていた。
父、母、私、ディオ、そしてライラ。
数時間前まで、この場所は私にとって地雷原のような緊張感に満ちていた。息をするだけで肺が痛み、視線を交わすだけで心が削られるような場所。しかし今、目の前に広がる光景は、まるで別の並行世界の出来事のようだった。
父が、ディオの肩をポンと叩いたのだ。その手つきには、かつての威圧感も、値踏みするような冷たさもない。まるで、長い商談を終えたあとの戦友を労うような、不器用だが確かな体温があった。
「気をつけて帰るんだぞ、ディオ君」
父の声は低く、重厚だったが、そこには以前のような棘がなかった。
「またいつでも寄りなさい。この家の門は、君のために開けておくから」
ディオは深く一礼し、父の手を両手で包み込むように握り返した。その所作には、年長者への敬意と、彼自身の揺るぎない品格が滲み出ている。
「ありがとうございます、お義父さん。今夜は私たちを受け入れてくださり、本当に感謝しています」
そして、母の番が来た。
かつて「ブラウィジャヤの女王」として君臨し、常に顎を上げて他人を見下ろしていた母。その彼女が今、複雑な表情でディオを見つめている。プライドという名の氷壁はまだ完全には溶けきっていないが、その瞳の奥にある鋭い光は、明らかに和らいでいた。
「エララを頼んだわよ」
母の言葉は短く、しかし重かった。彼女は少しだけ視線を逸らし、照れ隠しのように付け加える。
「それから……あなたのカフェ、もう少しメニューを増やしなさいな。コーヒーばかりじゃ、私が遊びに行った時に退屈するわ」
私は思わず口元を手で覆った。それは、母なりの「あなたを認める」という最大限の賛辞であり、不器用な愛の告白でもあった。ジャカルタの社交界で生きてきた彼女にとって、これ以上の歩み寄りは存在しないだろう。
ディオもその真意を即座に汲み取ったようだ。口元に微かな笑みを浮かべ、深く頷く。
「承知しました、お義母さん。次に来られる時までには、特別なメニューを用意しておきます」
その時だった。
「オマ! オパ!」
大人たちの静かな空気を切り裂くように、ライラの甲高い声が響いた。彼女はディオの手を振りほどき、小さな靴音を響かせて母の元へと駆け寄った。
躊躇いなど微塵もない。ライラの小さな両腕が、高級なバティック・シルクに包まれた母の脚にぎゅっと巻きつく。
母の体が、一瞬だけ硬直した。予期せぬ純粋な愛情の直撃に、どう反応していいのか戸惑っているようだ。しかし、次の瞬間、母の震える手がゆっくりと下ろされ、ライラの柔らかな髪を優しく撫でた。
「また遊びに来てもいい? オマ」
ライラが見上げる。その瞳は、曇りのない鏡のように母の心を映し出していた。
「オマのおうちは大きいから、かくれんぼするのに最高なの!」
母の瞳が潤み、化粧で完璧に整えられた仮面が崩れ落ちた。そこにいたのは、プライドの高い元富豪の妻ではなく、ただ孫を愛おしむ一人の祖母だった。
「ええ……いいわよ」
母の声が震えた。彼女は膝を折り、ライラと目線の高さを合わせる。
「たくさん遊びにいらっしゃい。その時は、美味しいアイスクリームを山ほど用意しておくわ」
「やったあ! 約束だよ!」
ライラは満面の笑みで母から離れると、今度は父の足に抱きついた。
「バイバイ、オパ!」
「ああ、気をつけてな。私の可愛い孫」
父の目尻が下がり、今まで見たこともないような穏やかな表情でライラの頭を撫でている。
その光景を見ているだけで、胸の奥が熱くなり、視界が滲んだ。長い間、私の肩にのしかかっていた見えない岩が、ようやく取り除かれたような感覚。呼吸が、こんなにも楽にできるなんて。
ふと視線を感じて横を向くと、ディオが柱の影に立っていた。片手をズボンのポケットに入れ、静かに私を見つめている。その瞳は何も言わずに問いかけていた。『君はどうする? 一緒に帰るか? それとも……』
私は一歩、彼に近づいた。夜風が彼の纏うコーヒーと微かなシトラスの香りを運んでくる。
「ディオ」
両親に聞こえないよう、私は声を潜めた。
「私……今夜は、ここに泊まるわ」
ディオの眉がわずかに動いたが、そこに拒絶の色はなかった。彼はただ静かに、理由を待ってくれている。
「大丈夫なのか?」
私は力強く頷いた。
「必要なの。もう一度、この家で眠ることが。逃げるように去ったあの夜の記憶を、上書きしたいの。囚人としてではなく、家族として、穏やかな気持ちで朝を迎えたい」
ディオの表情がふわりと緩んだ。彼はいつもそうだ。言葉にしなくても、私の心の機微を誰よりも深く理解してくれる。
彼の手が伸び、私の耳元の後れ毛を優しく直した。その指先の温もりに、心が安らぐ。
「わかった。家族との時間を大切にするといい。君には、その権利がある」
「ごめんね、一緒に帰れなくて」
「何を言っているんだ」
ディオは悪戯っぽく私の鼻先を指で弾いた。
「俺は子供じゃないんだぞ、エララ。一人で帰るくらいできる。大事なのは、君が心から安心できる場所にいることだ」
彼は不意に顔を近づけ、私の額に唇を落とした。
一瞬の出来事だった。しかし、その熱は皮膚の奥深くまで浸透し、心臓を激しく跳ねさせた。両親の目の前で。あの厳格な父と母の視線がある中で、彼は堂々と私への愛を証明してみせたのだ。
「家に着いたら連絡する」
「うん……待ってる」
ディオはライラの手を引き、白いハッチバックへと向かった。テールランプの赤い光が遠ざかり、重厚な鉄の門が低いモーター音と共に閉じていくまで、私はその場から動けなかった。
再び静寂が戻ってきた。けれど、それは以前のような冷たく重苦しい静寂ではない。温かく、満ち足りた静寂だった。
階段を上る足音が、懐かしく響く。
自室のドアを開けると、そこには時間が止まったままの空間が広がっていた。
清潔なリネンの匂い。そして、微かに残るバニラのルームフレグランスの香り。ガラスケースの中に並んだアンティークのドールたちも、整理整頓された化粧台も、キングサイズのベッドも、すべてがあの日のままだ。
ただ一つ違うのは、今の私がパニック状態でスーツケースに荷物を詰め込んでいるわけではないということ。
私はベッドに身を投げ出した。馴染み深いスプリングの感触が、背中を優しく受け止める。高い天井を見上げながら、私は一ヶ月前の自分を思い出した。あの時、私はすべてを失ったと思っていた。けれど今、私は何か新しいものを手に入れて、ここに戻ってきた。
「ただいま」
誰もいない部屋に向かって、私は小さく呟いた。
その言葉は、もう痛みを持って響くことはなかった。
ブーッ、ブーッ。
サイドテーブルの上のスマートフォンが震えた。画面に表示された「Dio」の文字を見た瞬間、頬が自然と緩むのを感じた。
私は抱き枕を引き寄せながら、通話ボタンをスワイプした。
「もしもし?」
「部屋に入ったか?」
スピーカーから聞こえるディオの声は、バリトン特有の低さと、夜の静けさを纏ったような掠れを帯びていた。その声を聞くだけで、鼓動が甘く疼く。
「うん。今、ベッドに横になったところ。ディオはもう着いた?」
「ああ、今ガレージだ。ライラは車の中で完全に電池切れだよ。抱っこしても起きやしない」
私はくすりと笑った。
「あの子、今日は一日中主役だったものね。きっと夢の中でもオマと遊んでるわ」
一瞬の沈黙。電話の向こうで、彼が階段を上る足音が聞こえる。鍵を開ける金属音。そして、ドアが閉まる重い音。彼がセノパティの隠れ家、あのペントハウスに戻ったのだとわかる。
「エララ」
不意に、ディオの声のトーンが変わった。少しだけ硬く、真剣な響き。
「なに?」
「さっきの……ホテルの件だ。カミーユのことについて」
息が止まりそうになった。
カミーユ。ライラの実母であり、ディオのかつての恋人。そして、私たちの平穏を脅かそうとする存在。その名前が出た瞬間、温かかった空気に冷水が差されたような気がした。
「まだ詳しくは話していなかっただろう」
ディオの声には、隠しきれない罪悪感が滲んでいた。
「彼女が何を言ってきたのか、どんな脅しをかけてきたのか……そして俺がどう対応するつもりか、君には知っておいてほしい」
彼が誠実であろうとしているのは痛いほどわかった。秘密を作りたくない、すべてを共有したいという彼の意志は尊い。けれど、今夜は……。
この完璧な夜を、過去の亡霊で汚したくなかった。
私は目を閉じ、この部屋に満ちる安らぎの匂いを深く吸い込んだ。
「ディオ」
私は彼の言葉を遮った。
「ん?」
「その話、今はやめましょう」
「……エララ?」
「今夜は、あまりにも綺麗すぎるの。悲しい話や、難しい話でこの余韻を壊したくない。私はただ、今日の母さんの笑顔や、ライラの笑い声だけを抱きしめて眠りたいの」
電話の向こうで、彼が息を呑む気配がした。そして、長く、深い安堵のため息が聞こえた。
「……そうだな。君の言う通りだ。すまない、無粋なことをした」
「明日にしましょう。カフェで、美味しいコーヒーを飲みながら。ね?」
「ああ、約束する」
「それより……ライラの寝顔、見せてもらえる?」
「ちょっと待ってくれ。ビデオ通話に切り替える」
画面が暗転し、次の瞬間、ディオの顔が映し出された。
彼はすでにジャケットとネクタイを外していた。白いシャツのボタンを二つほど開け、鎖骨が露わになっている。少し乱れた髪と、疲労の色が濃い瞳。けれど、私を見つめる眼差しはどこまでも優しかった。
カメラのアングルが変わる。
画面の中、ライラが大きなベッドの真ん中で大の字になって眠っていた。お気に入りのウサギのぬいぐるみを抱きしめ、口を半開きにして、安らかな寝息を立てている。
「石みたいに眠ってるよ」
ディオが囁きながら、画面の中に手を伸ばした。ウサギ柄のブランケットを肩まで掛け直し、愛娘の額にかかった髪を指先で払う。
その仕草があまりにも自然で、あまりにも父性に溢れていて、私の胸は締め付けられるような愛おしさで満たされた。
「あの子、本当に幸せそう」
カメラが再びディオに戻る。彼はライラの部屋を出て、自身の寝室へと移動したようだった。スマートフォンをサイドテーブルに立てかけ、彼自身もベッドに身を横たえる。
画面越しに、枕に顔を埋めたディオと視線が合った。
「俺も幸せだよ、エララ」
彼は画面の向こうから、私の魂に触れるように語りかけた。
「君がご両親と和解できたこと……それを見届けられたことが、何より嬉しい」
私はスマートフォンを枕の隣に置き、横向きになった。まるで、一つのベッドで向かい合って寝ているかのような構図。距離はあるはずなのに、彼の吐息さえ感じられそうだった。
「ここで寝るの、なんだか変な感じ」
私は正直な気持ちを吐露した。
「ベッドはふかふかだし、エアコンも静か。でも……」
「でも?」
「静かすぎるの。ライラの寝息も聞こえないし、階下から漂ってくるコーヒーの香りもない」
ディオが喉の奥で低く笑った。その振動が、スピーカーを通して私の耳をくすぐる。
「それは、君がもう『あっち』を自分の家だと認識している証拠だな」
「……そうかも」
私たちはしばらく言葉を交わさず、ただ互いの存在を感じ合っていた。静寂の中に、二人の呼吸音だけが重なる。通話を切りたくない。このまま繋がっていたい。
「ねえ、ディオ」
「なんだ?」
「何か歌って。眠れるように」
ディオが片眉を上げた。「歌? 俺にか? やめておけ、悪夢を見るぞ」
「嘘つき。あなたの声が素敵なことくらい知ってるわ。お願い……少しだけでいいから」
ディオは困ったように笑い、少しの間をおいてから、観念したように目を閉じた。
彼が口ずさみ始めたのは、子守唄ではなかった。車の中でよく流れている、古いジャズのスタンダードナンバー。
低い、囁くようなハミングが、夜の静寂に溶けていく。
「Wise men say... only fools rush in...」
『好きにならずにいられない』。その歌詞が、彼のバリトンボイスに乗って、直接心臓に染み渡ってくるようだった。
テンポは極端に遅く、まるで私への愛を一つ一つの音符に込めているかのように丁寧だった。
「...but I can't help falling in love with you...」
瞼が重くなる。彼の声は、どんな高級な羽毛布団よりも温かく、私を包み込んでくれた。
「……ずるいよ、その選曲……」
意識が薄れゆく中、私は夢現に呟いた。
「おやすみ、エララ」
ディオの優しい囁きが、意識の最後の一欠片を優しく撫でた。彼は通話を切らなかった。画面の向こうで、彼もまた瞳を閉じているのが見えた。
「おやすみ、ディオ」
「おやすみ、愛しい人」
その夜、私は実家の子供部屋で眠りについた。けれど、私の魂は電波に乗って、セノパティの古いビルの二階、愛する男と少女がいる場所へと帰っていった。
物理的な距離は確かに存在する。けれど、私たちの心の間には、もう1ミリの隙間もなかった。
第 61 章をお読みいただき、ありがとうございます。
ディオとエララ、そして家族たちの絆が深まる温かな夜でした。
離れていても心は繋がっている。そんな瞬間を描きました。
次回もどうぞお楽しみに。
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