第60章 帰るべき場所
ブラウィジャヤ邸の広大なリビングルーム。そこは本来、冷ややかな大理石の床と、息をするのも躊躇われるほどの重苦しい静寂が支配する空間だった。
かつて、この場所で交わされる会話といえば、株価の暴落、社交界の噂、あるいは互いの欠点を突く鋭利な刃のような言葉ばかりだった。
しかし今夜、その「絶対的な静寂」は、たった一人の小さな侵入者によって粉々に打ち砕かれていた。
「ねえ、オマ! オマ、知ってる?」
幼い声が、高い天井に反響する。
イタリア製の高級革張りソファの上で、短い足をぶらぶらとさせながら、ライラが身を乗り出していた。その瞳はシャンデリアの光を吸い込んで、宝石のように輝いている。
私は向かいのソファに浅く腰掛け、目の前で繰り広げられる奇跡のような光景に息を呑んでいた。
母――インディラ・ドウィジャヤ。
子供の甲高い声と、無秩序な振る舞いを何よりも嫌っていたはずの女性。完璧に整えられた化粧の下に、常に他人を値踏みするような冷笑を隠していた母が、今はライラの背中を優しくトントンと叩いている。
その表情には、いつもの氷のような険しさがない。目尻に浮かぶ皺さえもが、慈愛に満ちた祖母のものに見えた。
「今日ね、学校でガファくんが青い絵の具をひっくり返しちゃったの! 顔がね、スマーフみたいになっちゃったんだよ!」
ライラは身振り手振りを交えて、その瞬間の惨状を演じてみせる。
「まあ、そうなの?」
母の声は、私がここ数年聞いたことがないほど柔らかく、そして驚くほど自然だった。
「それで、ガファくんは泣いちゃった?」
「ちょっとだけ! でも先生に飴をもらったら、ピタッて泣き止んだの!」
けらけらと笑うライラ。
「オマ」という呼び名が、あまりにも自然に彼女の口から零れ落ちる。そしてさらに驚くべきことに、母はその呼び名をまるで長年待ち望んでいた勲章であるかのように、誇らしげに受け入れていた。
私はライラの服装に視線を落とした。
彼女が着ているのは、先ほど逃げるようにカフェを出た際、近くのコンビニエンスストアで急遽購入した安物のTシャツと、膝丈のショートパンツだ。胸元には少し間の抜けた猫のイラストがプリントされている。
母が纏う最高級のシルクの部屋着とは対照的な、あまりにも質素で、場違いな装い。
以前の母なら、「そんなみすぼらしい格好でソファに座らないで」と眉をひそめていただろう。しかし今、母の目にはライラの笑顔しか映っていないようだった。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
血の繋がりがどうとか、どこの家の子だとか、そんな世俗的な重荷はこの部屋の空気の中に溶けて消えてしまったようだ。ここにはただ、孫を愛おしむ祖母と、無邪気な孫がいるだけ。
口元が緩む。
だが、その温かな感情は、壁に掛けられたアンティーク時計の音によって現実に引き戻された。
カチ、コチ、カチ、コチ……。
重厚な振り子の音が、私の鼓動と不協和音を奏でる。短針はすでに十時を回っていた。
胃の腑に、冷たい鉛が沈んでいくような感覚。
(ディオ……どうして連絡がないの?)
視線は無意識のうちに、固く閉ざされた玄関の扉へと吸い寄せられる。
私の思考はここにはない。グランドハイアットホテルの冷たい個室へと飛んでいた。そこで今、ディオはカミーユと対峙しているはずだ。
あの女は何をした? 弁護士を使って彼を脅しているのか? それとも警察沙汰になっているのか? もしかして、ディオが傷つくような言葉を……。
悪い想像ばかりが脳裏を駆け巡る。
膝の上で組んだ指先が白くなるほど強く握りしめていた。爪が掌に食い込む痛みだけが、私を正気に保っていた。
「エララ」
低く、落ち着いた声が私の思考を断ち切った。
はっとして顔を上げると、いつの間にか父が隣に座っていた。父はずっと読書用のアームチェアで新聞を広げていたはずなのに。
「どうしたんだい。そんなに怖い顔をして」
父は声を潜め、向こうで盛り上がっている「スマーフ事件」の邪魔にならないように配慮していた。
「あ……いえ、何でもないの。ただ、少し疲れただけ」
私は慌てて強張った表情筋を緩め、取り繕うように微笑んだ。しかし、父の目は誤魔化せなかった。その瞳には、かつての覇気こそ失われているものの、娘を見透かす静かな洞察力が宿っていた。
「父親に嘘はつけないよ、エラ」と、父は諭すように言った。「お前の顔は、開かれた本のように読みやすい。……誰かのことを考えているんだろう?」
私は観念して、深く息を吐き出した。肩の力が抜ける。
「……お父さん、少しテラスに出てもいい? ライラに聞かれたくない話なの」
父は無言で頷き、膝に手を置いて立ち上がった。私たちは母とライラの笑い声を背に、そっとリビングを抜け出した。
夜のテラスに出ると、湿り気を帯びた夜風が火照った頬を撫でた。
庭の片隅に植えられた月下香の甘く濃厚な香りが漂ってくる。かつては嫌味なほど強く感じたその香りも、今夜はどこか心を鎮める鎮静剤のように思えた。
私たちは太い円柱のそばに並んで立ち、闇に沈んだ芝生を眺めた。
「それで、ディオ君に何かあったのか?」
父は単刀直入だった。
私は自分の二の腕を抱き、夜の冷気から身を守るように体を縮こめた。
「ディオは今……元奥さんに会っているの」
父の太い眉が、わずかに動いた。「元奥さん? あの子の、母親か?」
「ええ。突然現れて……ライラを引き取りたいって」
私は堰を切ったように話し始めた。カミーユという女性がいかに突発的に現れたか、弁護士を連れて法的手段をちらつかせていること、そしてディオが今、たった一人でその過去の亡霊と戦っていること。
父は黙って聞いていた。時折、重々しく頷くだけで、私の言葉を遮ることはなかった。
「それと、お父さん。もう一つ、言わなきゃいけないことがあるの」
私は言葉を詰まらせた。これはディオの最も深い秘密だ。でも、今この瞬間、父には知っていてほしかった。
「ライラは……ディオの実の子供じゃないの」
父の動きが止まった。ゆっくりと首を回し、私を凝視する。「どういうことだ?」
「ディオは、彼女が赤ん坊の頃からずっと一人で育ててきた。母親は別の男と出て行って……その男が、ライラの実の父親なの。ディオとライラの間には、血の繋がりは一滴もない」
父の目が驚愕に見開かれた。
彼は信じられないといった様子で、リビングの窓の方を振り返った。レースのカーテン越しに、ライラの小さな影が楽しげに揺れているのが見える。
「血が繋がっていない? なのに、あそこまで溺愛しているのか? 自分の命よりも大切そうに?」
「うん……」私は頷いた。「誰よりも、本当の親子以上に」
父はしばらくの間、言葉を失っていた。やがて、その瞳に深い敬意の色が浮かび上がった。それは、同じ男として、一人の人間としての純粋な尊敬だった。
「……男の中の男だな」父は低く呟いた。「血の繋がりなど、彼の覚悟の前では些細なことに過ぎないということか」
「でも、今になって実の母親が権利を主張しに来たの」私の声が震え出した。「怖いのお父さん。ディオが負けてしまうんじゃないかって。彼が傷つくんじゃないかって」
父は私に向き直り、その大きな手で私の肩を掴んだ。
「エララ、お前が本当に恐れているのは何だ?」
父の視線が、私の心の奥底にある澱を射抜く。
「ディオが裁判で負けることか? それとも……」
父は言葉を区切り、痛いところを突くように続けた。
「……彼が、子供を守るために、その母親と寄りを戻すことか?」
心臓が早鐘を打った。
図星だった。口では「彼を信じている」と言いながら、心のどこか暗い場所で、私は怯えていたのだ。彼らが共有している「過去」という時間の重みに。私には入り込めない、ライラという存在を通じた絆に。
「私……わからない」
掠れた声で答えるのが精一杯だった。
父は微かに微笑み、私の肩をポンポンと叩いた。そのリズムは、幼い頃に私が悪夢を見て泣いた時と同じだった。
「いいかい、エラ。今の話を聞く限り、ディオ君はその女性に未練など微塵もない。むしろ憎んでいるだろう」
父の声には確信があった。
「裏切られ、赤ん坊と共に捨てられ、それでも歯を食いしばって育ててきた男だ。彼は過去の扉をもう閉めている。二度と開けることのない、重い鍵をかけてな」
父の手の温もりが、冷え切った私の体に染み渡る。
「だから、お前が揺らいではいけない。嵐の中にいる時こそ、彼は灯台を必要としているんだ。疑う心ではなく、信じ抜く心を。それが、パートナーというものだろう?」
視界が滲んだ。
私が欲しかった言葉。誰かに肯定してほしかった想い。それが、まさか父の口から聞けるなんて。
「ありがとう……お父さん」
その時だった。
闇を切り裂くように、鋭い光の束が鉄製の門扉を照らし出した。
ザザッ、とタイヤが砂利を踏む音が静寂を破る。
見慣れた白いハッチバックが、威圧的な門の前に滑り込んできた。この豪邸には不釣り合いな、傷だらけの小さな車。しかし今の私には、どんな高級車よりも頼もしく輝いて見えた。
父が口角を上げた。「噂をすれば、主役の登場だな」
私の心臓が跳ね上がった。全身の血液が沸騰するような感覚。
「ディオ!」
自動ゲートが重々しい音を立てて開き、白い車がゆっくりと入ってくる。テラスの正面でエンジンが止まった。
運転席のドアが開く。
ディオが降り立った。
黒いスーツの上着は脱いで肩に引っかけ、白いシャツの袖は無造作に捲り上げられている。ネクタイは緩められ、第二ボタンまで外された襟元からは、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。髪も少し乱れている。
まるで長い戦場から生還した兵士のようだった。
しかし、テラスに立つ私を見つけた瞬間、彼の顔に安堵の笑みが広がった。それは勝利を確信した者の、静かで力強い笑みだった。
彼は迷いのない足取りでこちらへ歩いてくる。
「こんばんは、ラフリさん。夜分遅くに申し訳ありません」
ディオはまず父に向かって深く頭を下げた。その声は嗄れていたが、礼節を忘れない凛とした響きがあった。
「構わないよ、ディオ君」父は実の息子に対するように、親しげに彼の肩を叩いた。「さあ、入りなさい。ライラも待っている」
私はもう我慢できなかった。父の前であることも忘れ、駆け寄って彼の空いている腕にしがみついた。
「大丈夫だった?」早口で囁く。
ディオは私を見下ろし、その瞳を優しく細めた。「ああ、想像以上にな」
私は大きく息を吐き出した。体中の力が抜けそうになる。「よかった……本当によかった」
「行こう、中へ」
私は彼の手を引き、リビングへと続くガラス戸を開けた。
しかし、一歩足を踏み入れた瞬間、ディオの足がピタリと止まった。
彼の視線が、一点に釘付けになる。
「…………」
リビングの中央。
ライラが、母の膝の上に座っていた。
隣に座っているのではない。母のふくよかな膝の上にちょこんと収まり、その胸に背中を預けているのだ。母はライラのお腹に腕を回して抱きしめ、読み聞かせの絵本を一緒に覗き込んでいる。時折、愛おしそうにライラの頭頂部に頬を寄せながら。
そこにあるのは、完全なる調和だった。
血の繋がりなどという概念が入り込む隙間もないほど、濃密で温かな「家族」の風景。
「あの子は……」
ディオの声が震えた。信じられないものを見るように、目を大きく見開いている。
「インディラさんに、あんなに懐いているのか?」
私は彼の腕をぎゅっと抱きしめ直し、小さく笑った。
「ずっとあんな感じよ。正直、ここに来てからライラはずっとオマとオパに夢中なの。私なんて、完全に蚊帳の外」
ディオの喉仏が上下した。こみ上げる熱いものを必死に飲み込んでいるのがわかった。
彼の瞳が潤み、光を反射して揺れている。
彼はゆっくりと私に顔を向けた。その瞳には、言葉では尽くせないほどの感謝と、深い愛情が湛えられていた。
「ありがとう、エララ……本当に、ありがとう」
掠れた声が、私の心臓を震わせる。
彼は再び、母と笑い合うライラへと視線を戻した。
「これを見て……確信したよ。カミーユが入る隙間なんて、どこにもない。ライラに必要なのは、見知らぬ母親じゃない」
ディオは私の手を強く握りしめ、自分の胸元へと引き寄せた。
トクトクと彼の手のひら越しに力強い鼓動が伝わってくる。
「あの子に必要なのは……君と、君の家族だ。ここが、あの子の帰る場所なんだ」
視界が滲み、世界がぼやけていく。
かつては冷たく、息苦しく、逃げ出したいだけだったこのブラウィジャヤ邸。けれど今夜、私はこの場所で初めて「家族」という言葉の本当の意味を知った気がした。
家族とは、血縁という鎖で縛られた関係ではない。
恐怖に震える時に誰が抱きしめてくれるか。帰りたいと願った時に、誰が扉を開けて待っていてくれるか。ただそれだけのことなのだ。
そして今夜、私たちは全員、本当の意味で「家」に帰ってきた。
第 60 章をお読みいただき、ありがとうございます。
激しい戦いの後、訪れた温かな家族の瞬間でした。
ディオとエララ、そしてライラの絆がさらに深まります。
次回もどうぞお楽しみに。
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