表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/86

第6章 盾の残り香

挿絵(By みてみん)


「エララ!」


 スマホのスピーカーから漏れる母の鋭い声が、夜の静寂を切り裂いた。


 鼓膜を突き刺すようなその響きに、私は思わず眉をひそめる。


 スマホを握る指先が、自分でも驚くほど小刻みに震えていた。


「今、友達のところに寄っているの。すぐ帰るから」


 必死に声を整え、平静を装って答える。


 だが、母にそんな言い訳が通用しないことは百も承知だった。


 電話の向こうで、母が苛立たしげに息を吐く音が聞こえる。


「今が何時だと思っているの? どうして真っ直ぐ帰ってこないのよ」


 母の言葉は、まるで鋭い刃物のように容赦なく飛んでくる。


 レイがどれほど不機嫌になったか、あなたがどれほど自分勝手か。


 そんな言葉の羅列が、私の心に深く突き刺さる。


「レイさんがあんなに怒って、途中であなたを降ろすなんて。またお父様に恥をかかせるつもり?」


 私はそっと目を閉じた。


 また、この話だ。


 いつもレイのこと、父のこと、世間体のことばかり。


 私の気持ちなんて、母にとっては一度も重要ではなかった。


 私はただ、家を救うための便利な道具に過ぎないのだ。


 その冷酷な現実に、胸の奥がキリキリと痛む。


「分かったわ、お母様。今すぐタクシーを呼ぶから」


「エララ、聞きなさい。あなたは――」


 プチッ


 母の言葉を遮るように、赤い終了ボタンを親指で強く押し込んだ。


 礼儀なんて、今の私にはどうでもいい。


 今夜の私の忍耐は、すでに限界を超えていた。


「どうしてお母様にいちいち報告するのよ。告げ口なんて最低」


 独り言を漏らしながら、力なくスマホを下ろす。


 重苦しい溜息を吐き出そうとした、その時だった。


 隣に誰かがいることに気づき、私の体は一瞬で凍りついた。


 ディオさんが、そこに座っていた。


 木製のベンチに腰を下ろし、彼は静かにこちらを見つめている。


 通り過ぎる車のライトに照らされ、彼の表情が淡く浮かび上がった。


 彼は街並みを眺めているのではなく、まっすぐに私を見ていた。


 片手で顎を支え、唇の端にはかすかな微笑みが浮かんでいる。


 その瞳は、すべてを見透かしているかのように穏やかだった。


「あ……あの……」


 私は慌てて髪を整え、崩れかけたプライドを必死にかき集める。


 今の醜態をすべて聞かれてしまった。


 穴があったら入りたいとは、まさにこのことだ。


「本当は、もっと聞き分けのいい娘なんです。ただ……その、母が少し個性的というか、感情的すぎて」


 支離滅裂な言い訳を口にする私を見て、ディオさんが小さく笑った。


 それは馬鹿にするような笑いではなく、深く澄んだ、心地よい響きだった。


 彼の目尻が優しく下がり、周囲の空気がふわりと和らぐ。


「説明しなくても大丈夫ですよ、エラ先生。僕にも親はいますから」


 その言葉に、顔がさらに熱くなるのが分かった。


 上品で威厳のある教師という私のイメージは、今夜で完全に崩壊した。


 デートから逃げ出し、借り物のジャケットを羽織り、親不孝を露呈する。


 私はごくりと唾を飲み込み、何とか残されたわずかな威厳を取り戻そうと試みた。


 咳払いを一つして、背筋を伸ばす。


「そろそろ帰らなければなりません。夜も遅いですし、これ以上『追っ手』を怒らせるわけにはいかないので」


 ディオさんがゆっくりと腰を上げた。


 彼はズボンのポケットから車のキーを取り出し、私に視線を送る。


「タクシーを呼ぶ必要はありません。僕が送りましょう」


 私は驚いて目を見開いた。


「えっ? いえ、そんな! 申し訳ないです。ご迷惑をおかけしてしまいます」


「迷惑なんて思いませんよ。それに……」


 彼の視線が、私の肩にかかったデニムジャケットに向けられた。


「僕のジャケット、先生に人質に取られたままですから」


 自分の体を見下ろすと、そこには彼から借りたオーバーサイズのジャケットがあった。


 彼の体温がまだ残っているようで、不思議と安心感を覚える。


「あ、これ……そうでした」


「そのまま着ていてください。夜風は体に障ります」


 ディオさんは淡々とした口調で言い、歩き出した。


 私には拒絶する言葉が見つからなかった。


 正直なところ、一人でタクシーを待つ気力すら残っていなかったのだ。


 私たちは薄暗い駐車場へと向かった。


 そこに停まっていたのは、一台の白いコンパクトカーだった。


 手入れは行き届いているが、この高級車が溢れる街ではあまりにも控えめな車だ。


 やはり、彼は本当に質素な人なのだ。


 そのギャップが、私の心を少しだけ軽くしてくれた。


 バタンッ


 ドアが閉まると、車内には柔らかなペパーミントの香りが漂っていた。


 ゴミ一つ落ちていない清潔な空間。


 ディオさんは無言でエンジンをかけ、車を滑らかに走らせた。


「家はどのあたりですか?」


「ブラウィジャヤ通りです」


 ディオさんは少しだけ眉を上げた。


「おや、高級住宅街ですね。ここからなら、ジョギングで行ける距離だ」


 私は自嘲気味に笑った。


「このドレスとヒールでジョギングなんて、勘弁してください。 警察に追いかけられるシンデレラだと思われちゃいますよ」


 ディオさんの笑い声が車内に響いた。


 今度は先ほどよりもずっと楽しそうで、自由な笑いだった。


 その音を聞いているだけで、胸の奥のわだかまりが溶けていくのが分かった。


 私は盗み見るように、彼の横顔を眺めた。


 街灯の光が彼の輪郭をなぞり、その表情はどこまでも穏やかだ。


 ハンドルを握る彼の手は、力強く、それでいて優しい手つきだった。


 道中、会話はそれほど多くなかった。


 だが、それは苦痛な沈黙ではなかった。


 レイと一緒にいた時の、窒息しそうな空気とは正反対の、心地よい静寂。


 十五分ほどして、車は高い門扉の前に停まった。


 家というよりは、冷たい城壁のような場所。


 私の「監獄」が、暗闇の中にそびえ立っている。


「本当にありがとうございました、ディオさん」


 シートベルトを外し、心からの感謝を伝える。


 こんな夜更けに、見ず知らずの女を送り届けてくれるなんて。


「お礼を言うのは僕の方です。ライラも、先生と一緒に勉強できて喜んでいました」


 彼は私の肩のジャケットを一瞥した。


「ジャケットは持っていってください。明日、学校で会った時に返してくれればいい。夜の風は冷たいですから」


「……分かりました。ありがとうございます」


 車から降りると、冷たい夜気が一気に襲ってきた。


 だが、ディオさんのジャケットがそれを完璧に遮ってくれる。


 私は歩道に立ち、白い車が角を曲がって消えていくのをじっと見送っていた。


 ジャケットの襟をぎゅっと握りしめ、深く息を吸い込む。


 そこには、シトラスとコーヒーの香りが微かに混ざり合っていた。


「ライラちゃんのお父さん……」


 ぽつりと呟いた言葉が、夜の空気に溶けていく。


 気づけば、私の口元には緩やかな笑みが浮かんでいた。


 だが、その幸せな予感は長くは続かなかった。


 目の前の大きな扉を見上げた瞬間、現実が私を引き戻す。


 大きく息を吸い込み、覚悟を決める。


 ガチャッ


 扉を開けた瞬間、凍てつくような空気が私を包み込んだ。


 エアコンのせいではない。


 リビングに座る二人の人物が放つ、殺気立った気配のせいだ。


 母が腕を組んで立ち上がった。


 その顔は怒りに歪み、眉間には深い皺が刻まれている。


 父はソファに座ったまま、顔を伏せてこめかみを押さえていた。


「エララ」


 母の低く、地を這うような声。


「あなたには失望したわ。レイさんの前で、あんな恥知らずな真似をするなんて」


 私は静かにドアを閉め、必死に理性を保とうとする。


「ただ降りただけよ、お母様。レイさんが大袈裟に言っているだけ」


「言い訳はやめなさい!」


 母の怒声がリビングに響き渡った。


「ダルヴィアン家との繋がりがどれほど重要か分かっているの? あなたはいつも計画を台無しにする。お姉様と同じように、恩知らずな娘になるつもり?」


 ジャケットの袖の中で、私は拳を強く握りしめた。


 疲れた。


 もう、何もかもが疲れ果てていた。


「お母様、ごめんなさい。もう休ませて」


 階段へと足を向ける私を、母の視線が突き刺す。


 背中に向けられる罵声を無視して、私は一歩一歩、重い足取りで進んだ。


「あなた! 何とか言いなさいよ!」


 母の苛立ち混じりの叫び声。


 父はただ深く溜息を吐き、一言も発しなかった。


 いつものことだ。


 自分の部屋に入り、鍵をかける。


 カチッ


 ようやく、世界が静かになった。


 私は鏡の前に立ち、そこに映る自分を見つめた。


 メイクは崩れ、目は疲れ切っているけれど。


 でも、私の体には彼から借りたジャケットがある。


 そして、母の言葉でも消し去ることのできない、小さな微笑みが唇に残っていた。


 私はもう一度、ジャケットの襟に触れた。


 車の中で聞いた、ディオさんの笑い声を思い出す。


「まさか……」


 鏡の中の自分に囁く。


「最悪な夜になるはずだったのに。こんなに素敵な終わり方になるなんて」


 • • •


 翌朝。


 太陽の光は容赦なく照りつけていたが、私には心地よい春風のように感じられた。


 学校の校門をくぐる私の足取りは、驚くほど軽い。


 頭の中では軽快な音楽が流れているような、そんな気分だった。


「おはようございます、エラ先生!」


「おはよう! 今日も一日頑張りましょうね」


 すれ違う生徒たちに、私は自分でも驚くほどの笑顔で挨拶を返した。


 職員室のドアに手をかけようとした、その時。


 グイッ


 横から腕を強く引かれた。


「わっ!」


 驚いて振り向くと、そこにはサスキアが立っていた。


 彼女は目を細め、まるで獲物を探す探偵のような鋭い視線で私を凝視している。


「サスキア? どうしたの?」


「怪しいわね……」


 彼女は首を左右に傾げ、私の顔をじっくりと観察する。


「何が怪しいのよ。制服、裏返しに着てる?」


「違うわよ」


 サスキアは一歩踏み込み、人差し指で私の鼻先を指した。


「いつもなら『家族の集まり』の後は、ゾンビみたいな顔をしてるじゃない。負のオーラ全開で、今にも倒れそうな感じでさ」


 彼女は胸の前で腕を組んだ。


「でも今朝のあんた……輝いてるわ。眩しすぎるわよ。朝から後光でも差してるの?」


 私は思わず吹き出した。


 口を手で覆い、廊下で大笑いするのを必死に堪える。


「大袈裟よ。気のせいでしょ」


「いいえ、絶対に違うわ」


 サスキアのゴシップレーダーは、一度も狂ったことがない。


「雰囲気が違うのよ、エララ。これは……恋をしている人の顔よ」


 ドクンッ


 心臓が大きく跳ねた。


「はあ!? 何言ってるの、そんなわけないじゃない!」


 慌てて否定するが、頬が熱くなるのを止められない。


 サスキアの目が、勝利を確信したように大きく見開かれた。


「ほら見なさい! 顔が真っ赤よ! 誰なの? あのレイとかいう男?」


「違うわよ!」


「じゃあ誰なの?」


 サスキアが私を壁際まで追い詰める。


「白状しなさい。じゃないと、職員室の放送で言いふらすわよ」


「本当に誰もいないってば! ドラマの見すぎよ!」


 サスキアがさらに追及しようとしたその時、校門の方から元気な声が響いた。


「エラ先生――!」


 私たちは同時に振り返った。


 ライラちゃんが駐車場の方から走ってくるのが見えた。


 二つ結びの髪を揺らし、ピンクのリュックを背負って。


「ライラちゃん!」


 私は膝をつき、彼女を受け止めるために両手を広げた。


 小さな体を受け止めると、彼女は誇らしげに校門の方を指差した。


「先生、見て! 今日はパパが校門まで送ってくれたの!」


 私は顔を上げた。


 鉄格子の門の向こうに、ディオさんが立っていた。


 紺色のポロシャツをさらりと着こなし、ラフでありながらも品のある佇まい。


 彼は静かにこちらを見つめていた。


 目が合った。


 一瞬、周囲の喧騒が遠のき、時間がゆっくりと流れる。


 ディオさんが微笑んだ。


 昨夜、車の中で見せてくれたのと同じ、優しくて温かい微笑み。


 彼は右手を少しだけ上げ、私に向かって小さく手を振った。


 無意識のうちに、私の手も動いていた。


 ぎこちないけれど、精一杯の気持ちを込めて、彼に手を振り返す。


 抑えきれない笑みが、顔いっぱいに広がっていくのが分かった。


 ディオさんは満足そうに頷くと、白い車へと戻っていった。


 私は彼の背中をいつまでも見つめていた。


 その時、右耳のすぐそばで悪魔の囁きが聞こえた。


「あらあら……まあまあ……」


 サスキアが私の隣に立っていた。


 彼女の口は大きく開き、目は獲物を見つけた猛獣のようにギラギラと輝いている。


「今のドラマみたいな手の振り方は何かしら? エ・ラ・ラ先生?」


 私の体は、そのまま石のように固まった。


「あれは……ただの保護者への挨拶よ!」


 サスキアは口角を吊り上げ、邪悪な笑みを浮かべた。


「保護者、ねえ? なんで保護者に挨拶するだけで、先生の顔が茹でダコみたいに真っ赤になるのかしら?」

Thank you very much for reading to the end.

As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.

If you have any comments or advice on the writing style, I would be grateful if you could let me know in the comments section.

Your feedback is a great encouragement for my writing.


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ