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第59章 獅子の覚醒

挿絵(By みてみん)


グランドハイアットのロビーには、特有の静謐な空気が流れている。


磨き上げられた大理石の床、控えめに漂う高価な百合の香り、そして空調の微かな唸り。通常であれば、俺はこの場所に足を踏み入れる際、キャップを目深に被り、自分の存在を消すようにして歩く。影のように、誰の記憶にも残らないように。


だが今夜は違う。


コツ、コツ、コツ。


私の革靴が、冷たい石床を叩くたびに、重厚なリズムがロビーに響き渡る。


その一歩一歩が、ただの歩行ではなく、ある種の「宣言」であった。私は隠れるために来たのではない。狩るために来たのだ。


自動ドアを抜け、エレベーターホールへと直進する。通常ならカードキーの提示を求めるコンシェルジュデスクを一瞥もせず通り過ぎる。大柄な警備員が、不審な侵入者を阻もうと一歩前に出た。


しかし、私と目が合った瞬間、彼は凍りついたように足を止めた。


私がどのような表情をしていたのかは自分でも分からない。おそらく、かつて父が不正を働いた重役を切り捨てる際に見せていた、あの氷のような無表情か。あるいは、飢えた捕食者のそれか。


警備員は喉を鳴らし、無意識のうちに一歩後ずさった。そして、まるで私がこの建物のオーナーであるかのように、道を譲った。


エレベーターのボタンを押す。金属の扉が滑らかに開く。


上昇する密室の中で、私は鏡に映る自分自身の姿を見つめた。


トム・フォードの黒いスーツが、カフェでの肉体労働で培われた筋肉質の体を完璧に包み込んでいる。白いシャツの袖口を整えると、左手首に巻かれたパテック・フィリップ・ノーチラスが鈍い光を放った。


秒針が静かに時を刻む。チク、チク、チク。


その冷静なリズムとは裏腹に、血管を流れる血は溶岩のように熱く煮えたぎっていた。


「今夜はお前の知るバリスタじゃない」


鏡の中の自分に、低く囁く。


「カミーユ。お前にとっての悪夢だ」


チン。


到着を告げる電子音が鳴り、扉が開く。12階の廊下は死んだように静かだった。厚手の絨毯が足音を吸い込み、気配を消してくれる。


1201……1202……1203……。


スイートルーム、1204号室の前で足を止める。


迷いはない。私は拳を握り、重厚な木製の扉を叩いた。


ダン、ダン、ダン!


硬く、短く、そして威圧的に。


それは訪問者のノックではない。執行官の合図だ。


数秒の沈黙の後、内側から鍵の外れる音がした。扉がわずかに開く。


隙間から顔を覗かせたのは、ムッシュ・ジラールだった。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めた姿には、仕事終わりのくつろぎきった空気が漂っている。彼は眼鏡の奥で目を細め、不愉快そうに私を見た。


「ムッシュ・アトマンタ?」


彼は鼻で笑うように言った。


「こんな時間に何の用だ? カミーユは下賤な客など——」


私は彼に、その侮蔑の言葉を最後まで言わせなかった。


左肩で扉を押し込む。力任せに、容赦なく。


「うわっ!」


ジラールはバランスを崩し、よろめきながら後退した。背中を廊下の壁に打ち付け、情けない声を上げる。


「き、貴様! 何をする、不法侵入だぞ!」


私は彼を一匹の羽虫のように無視し、広々としたリビングルームへと足を踏み入れた。


瞬間、鼻をつくような濃厚な薔薇の香水と、アルコールの匂いが押し寄せてくる。


部屋の中央、深紅のベルベットソファに、カミーユが優雅に脚を組んで座っていた。黄金色のシルクのナイトガウンを纏い、右手にはワイングラス。


彼女は驚いていなかった。それどころか、私を見るなり、その赤い唇の端を歪めて嘲笑を浮かべた。


「あら、誰かと思えば」


彼女はグラスの中の液体をゆっくりと揺らした。


「私の可愛いバリスタちゃんが、仮装パーティーの帰りかしら? そのスーツ、どこでレンタルしたの? ディオ。それとも、お店の常連客にでも恵んでもらったの?」


私は部屋の中央で立ち止まり、両手をズボンのポケットに入れたまま、彼女を見下ろした。その挑発には乗らない。ただ、冷たい視線を注ぐだけだ。


「最後の情けをかけに来た、カミーユ」


私の声は低く、部屋の空気を数度下げた。


「荷物をまとめろ。今すぐ空港へ行け。そして二度とジャカルタの土を踏むな。ライラには指一本触れさせない」


カミーユは笑った。クリスタルガラスが砕けるような、甲高く不快な笑い声だ。彼女はグラスを大理石のテーブルに置くと、ゆらりと立ち上がった。


彼女は私の周りをゆっくりと歩きながら、値踏みするように全身を舐め回した。


「傑作だわ、ディオ」


私の背後で、彼女が囁く。


「高いスーツを着て、映画のマフィア気取り? それで私が震え上がるとでも思った?」


彼女は私の正面に回り込み、挑むような瞳で私を睨みつけた。


「あなたはただの貧乏人よ。パリでの留学時代、奨学金の残りで食いつないでいた惨めな男。忘れたの? 私たちが暮らしていたアパートの最後の家賃、私が払ってあげたのよ」


彼女は顔を近づけ、酒臭い息を私の顔に吐きかけた。


「夢を見るのはやめなさい。あなたが私を脅せるはずがない」


「ティエリの金があっても、今度ばかりは助からないぞ」


私が淡々と告げると、カミーユの表情が硬化した。現在の夫、ティエリの名は彼女の逆鱗だ。


「その汚い口で夫の名を呼ばないで」


彼女は低い声で唸った。


「明日の朝、何が起きるか教えてあげる。ジラールが書類を準備したわ。あなたを誘拐罪で告発する。私にはティエリの資金がある。オーヴァン・グローバルという後ろ盾があるのよ」


彼女は鋭く尖った爪で、私の胸板を突いた。


「あなたに何があるっていうの? 錆びついたコーヒーマシンと、あの貧乏な小学校教師だけでしょう? 裁判でも、現実社会でも、あなたが私に勝てる要素なんて一つもないのよ」


カミーユが勝ち誇ったように宣言した、その時だった。


半開きになっていたスイートの扉が、静かに、しかし確実な意志を持って押し開かれた。


規則正しい足音が、ふかふかの絨毯の上でも確かな重みを持って響く。


カミーユとジラールが同時に振り返る。


ゲイリー・ヴェイルが入ってきた。


その姿は完璧だった。一点の曇りもないダークネイビーのスーツ、隙のない髪型、そして左手には薄い書類鞄。その表情は能面のように感情がなく、ただ冷徹な知性だけが宿っている。


ゲイリーはカミーユにも、ジラールにも目もくれなかった。彼の視線は、ただ一点、私だけに注がれていた。


彼は私の二歩手前で足を止め、踵を揃えた。


そして、極めて流麗かつうやうやしい動作で、深々と頭を下げた。


「到着が 1 分遅れましたことをお詫び申し上げます、会長」


静寂。


完全な静寂が部屋を包み込んだ。


怒鳴り声を上げようとしていたジラールが、口を開けたまま凍りついた。弁護士としての本能が、目の前の男の「格」を瞬時に理解したのだ。


彼の視線が、ゲイリーの襟元に光る小さな銀のピンバッジに釘付けになる。ミニマルな三角形のデザイン。


そして、彼はゲイリーの顔を見て、息を呑んだ。


「ま……待て……」


ジラールの顔から血の気が引いていく。赤ら顔だった酔っ払いが、一瞬にして死人のような蒼白に変わった。


「あ、あなたは……ゲイリー・ヴェイル氏? レオンハルト・ヴェイルの息子か?」


ゲイリーはゆっくりとジラールの方を向いた。その目は、まるで道端の石を見るような冷たさだった。


「おや、ムッシュ・ジラール」


流暢なフランス語が、ゲイリーの口から紡がれる。


「貴殿の法律事務所は確か、二年前にリヨンで我が傘下の『ボルテックス・エナジー』の用地買収案件を担当していましたね。父が貴殿の事務所を解雇したのを覚えていますよ。交渉能力の欠如を理由に」


ジラールの膝が震え、彼は壁に背中を預けるようにして崩れ落ちそうになった。


ボルテックス・エナジー。欧州を代表するエネルギー企業。その親会社を知らない弁護士はいない。


「カミーユ……」


ジラールの声が震える。彼は混乱するカミーユの腕を掴んだ。


「言葉を慎め。こ、この男は……ただ者じゃない」


カミーユは苛立ちながらジラールの手を振り払った。


「何言ってるのよ! 誰なの、こいつは!」


ジラールは悲鳴のような囁き声を漏らした。


「ヴェイル家だ……レオンハルトとその息子ゲイリー……彼らは『アークシロン・ヘリテージ・キャピタル』の懐刀だぞ」


ジラールは恐怖に歪んだ目で私を見た。


「パリの商業不動産の半分を牛耳る投資会社だ。もし、その彼が、このディオを『会長』と呼んだのなら……」


カミーユの目が大きく見開かれた。瞳孔が収縮し、呼吸が止まる。


彼女はゲイリーを見、そして恐る恐る私を見た。


彼女の視線が、私の左手首に止まる。さっきまで「レンタル品」か「偽物」だと嘲笑っていた時計。


パテック・フィリップ・ノーチラス。


その時計が突然、恐ろしいほどの重厚感を帯びて彼女の目に映ったはずだ。私のスーツの仕立てが、ロンドンのサヴィル・ロウの職人が手掛けた最高級品であることが、今さらながら彼女の脳裏に焼き付く。


私は一歩、前に出た。カミーユとの距離を詰める。


彼女は本能的な恐怖に押され、一歩後ずさった。


「オーヴァン・グローバルが自慢か?」


私は静かに問うた。


「ティエリの財力が、お前の盾か?」


私は鼻で笑った。そこにはユーモアの欠片もない。


「教えてやろう、カミーユ。ティエリが持っている全流動資産など……私のニューヨーク本社の、一ヶ月の電気代にも満たんよ」


カミーユの顔色が紙のように白くなる。


私は内ポケットからスマートフォンを取り出し、世界市場のアプリを開いた。オーヴァン・グローバルの株価チャートを表示し、彼女の目の前に突きつける。


画面の中では、赤い線が急激な下降を描いていた。


「これが見えるか?」


カミーユは震える唇で画面を見つめた。


「もし、これ以上ライラの親権争いなどという茶番を続けるつもりなら、好きにすればいい。だが、その代償は高くつくぞ」


私は彼女の耳元に顔を寄せ、死刑宣告のように囁いた。


「明日の朝、パリ証券取引所が開いた瞬間、私はオーヴァン・グローバルを買収する。お前の夫、ティエリをCEOの椅子から引きずり下ろし、路頭に迷わせてやることもできるんだ。二十四時間以内に、お前をパリのホームレスにしてやる」


「あ……あぅ……」


カミーユは足の力が抜け、先ほどまで女王のように君臨していたソファにへたり込んだ。テーブルの上のワイングラスが揺れ、赤い雫がこぼれる。


「お前の夫の小さな会社など……」


私は背筋を伸ばし、スーツの襟を整えた。


「私が起こそうとしている嵐の前では、木の葉同然だ」


カミーユは何も答えられなかった。酸素を失った魚のように口を開閉させるだけだ。目には恐怖の涙が溜まり始めている。彼女はようやく理解したのだ。目の前にいる男が、かつての貧乏な元夫ではないことを。


彼女を丸呑みにできる、巨大な怪物がそこにいることを。


私は踵を返し、ゲイリーに目配せをした。


「後は頼む、ゲイリー。彼らが速やかに出国するように手配しろ」


「御意、会長」


私は振り返ることなく、出口へと向かった。


「帰りのチケットを用意しておけ、カミーユ」


ドアノブに手をかけ、最後に言い残す。


「さもなくば、私が『私のやり方』で、お前を強制送還することになる」


部屋を出ると、背後で重い扉が閉まった。


廊下の静寂が戻ってくる。


私は深く息を吐き出した。肺の中に溜まっていたどす黒い熱気が、少しずつ冷えていくのを感じる。


獅子は咆哮を上げた。縄張りを荒らすハイエナたちは、恐怖に震え上がったはずだ。


だが、戦いは終わった。


私はネクタイを少しだけ緩め、エレベーターへと歩き出した。


ただの父親に戻り、愛する娘を迎えに行くために。

第 59 章をお読みいただき、ありがとうございます。

ディオの本当の姿が明らかになる瞬間でした。

次回もどうぞお楽しみに。

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