第58章 獅子の咆哮
ハリス・スワルナと弁護団の足音が遠ざかり、代わりに雨音が静寂を支配する。
カフェ・アークスは今や、嵐の後の戦場のような静けさに包まれていた。
肺の奥に溜まった緊張の塵が、呼吸を重くさせる。
カウンターの陰で、俺は立ち尽くす。
「CLOSED」の札が、隙間風に揺れてカタカタと鳴った。
その不規則な音が、俺の神経を逆撫でする。
チーク材のカウンターに置いた手に、じわじわと力が籠もる。
拳を握り締めると、浮き出た血管が木の表面に深く根を張るかのようだった。
白くなった指の関節が、俺の限界を告げている。
「もう十分だ、ディオ」
エスプレッソマシンの鏡面に映る自分に、低く呟く。
その瞳には、もう「穏やかな店主」の面影はなかった。
背を向け、迷いのない足取りで横の扉へと向かう。
床板を踏みしめる音が、戦いの始まりを告げる軍靴の響きに変わる。
二階へと続く階段を上がり、薄暗い廊下の突き当たりにあるパネルの前に立った。
背筋を伸ばし、正面を見据える。
隠された小さなレンズから赤い光が放たれ、俺の網膜を無機質になぞった。
ピッ
重厚な木製パネルが音もなくスライドし、冷徹な鋼鉄の通路が姿を現す。
一歩踏み込むと、背後で油圧式のドアが重々しく閉まった。
そこは、俺の真実の領域への入り口だ。
サーバーの冷却システムから放たれる冷気が、全身を包み込む。
設定温度は常に十六度。
感情を排し、思考を研ぎ澄ますには最適な温度だ。
黒いガラスのデスクの前に座り、革張りの椅子に深く身を沈める。
三枚の湾曲モニターが同時に起動し、鋭い青い光が暗闇を切り裂いた。
「レオンハルト・ヴェイルに繋げ」
わずか三秒。
メインモニターに、ニューヨークの夜明けを背負ったレオンハルトの顔が映し出された。
彼はタブレットを手に、眼鏡の奥で絶え間なく流れるデータを追っている。
「電話を待っていたぞ、ディオ」
レオンハルトの声には、長年培われた揺るぎない忠誠と冷静さが宿っていた。
「オーヴァン・グローバルのデータは揃っている。あまり愉快な内容ではないがな」
「話せ」
短く応じる。
レオンハルトが画面上で指を滑らせると、一枚の写真が表示された。
ティエリ・デラクロワ。
かつてカミーユを連れ去った男が、パリのナイトクラブから出てくる姿だ。
その傍らには、二十歳そこそこの若いモデルが寄り添っている。
「まず一つ目の現実だ。ティエリはすでに飽きている」
レオンハルトの声は淡々としていた。
「そのモデルはオーヴァンの秋のキャンペーンの顔だ。カミーユはもはや女王ではない」
「アジア市場での投資失敗が重なり、彼女の理事会での地位は風前の灯火だ」
背もたれに体を預け、写真を睨みつける。
「つまり、追放される寸前ということか」
「その通りだ。ティエリは密かに離婚の手続きを進めている」
「カミーユは、今切り捨てられれば一文無しになることを知っている。婚前契約は鉄壁だからな」
画面が切り替わり、家系図と秘匿された医療記録が表示された。
「二つ目の爆弾だ。ティエリはライラの存在を知らない」
「カミーユは七年前、彼の子を産んだ事実を隠し通した」
俺の顎のラインが険しくなり、奥歯が軋む。
「彼女が今さらライラを求めているのは、愛情からではない」
「ライラをフランスへ連れ帰り、ティエリの『正当な後継者』として突きつけるつもりだ」
「実子が介在すれば、フランスの法律下ではティエリも彼女を簡単には切り捨てられない」
ドォンッ
拳をガラスのデスクに叩きつけた。
防音室の壁に、その怒りの残響が激しくこだまする。
抑え込んできた激情が、捕食者の本能を呼び覚ましていた。
「あいつ……俺の娘を交渉の道具にするつもりか」
絞り出すような声が、殺気を孕んで震える。
「あの女は、救いようのない怪物だ」
「追い詰められた人間は何でもする。彼女は今、必死なのだ」
レオンハルトがモニター越しに俺を見つめる。
「ハリス・スワルナから連絡があった。仮面を脱ぐべき時だと。お前の考えは?」
モニターに映る、オーヴァン・グローバルの崩壊を示すデータを見つめる。
これまで、ライラに平穏な日々を与えるために、俺は影であることを選んできた。
パパラッチも護衛もいない、普通の子供としての生活を守るために。
だが、カミーユがティエリを恐れているのなら、教えてやる必要がある。
彼女が「しがないバリスタ」と侮った男が、実はアークシロン・ヘリテージ・キャピタルの頂点に君臨していることを。
オーヴァン・グローバルの全資産を、残高を確認することなく買い叩ける存在であることを。
「ハリスの言う通りだ」
俺の声は、極地の氷河のように静まり返っていた。
「彼女の今夜の居場所を特定しろ」
「グランドハイアット。スイート1204だ」
レオンハルトは即座に答えた。
すべては準備されていた。
「いいだろう。明日の弁護士の訪問など待たない。今夜、俺自身が会いに行く」
「アークシロンの会長としてな」
レオンハルトの唇が、わずかに誇らしげな弧を描いた。
「ゲイリーを同行させることを勧める。彼はドウィジャヤ・トレーディングの監査を完全に掌握している」
「カミーユに、お前が誰を救い、誰を滅ぼすことができるかを見せつけるのに最適だ」
「わかった。ゲイリーを繋げ」
画面が分割され、ゲイリー・ヴェイルが現れた。
彼はドウィジャヤ・トレーディングのオフィスで、山のような書類に囲まれている。
「ディオ様」
「エララの資産状況はどうなっている」
「すべて安全です。銀行の差し押さえ令状は完全に撤回させました」
「法的に、エララ嬢の個人資産はベクター・ホールディングスの保護下にあります」
「ダルヴィアン・トレーディングは、もう指一本触れられません」
「上出来だ、ゲイリー。準備しろ。最高のスーツを着ておけ」
「一時間後、グランドハイアットで『社交的な会合』がある。俺が迎えに行く」
「承知いたしました」
モニターの電源を切ると、部屋は再び深い闇に沈んだ。
俺は長く深い息を吐き、昂ぶる鼓動を鎮める。
今夜、最も困難で大切な儀式の前に。
デスクから個人のスマートフォンを手に取る。
指先がわずかに躊躇したが、意を決して発信ボタンを押した。
「もしもし、ディオ?」
エララの声が響く。
そこには隠しきれない不安が滲んでいた。
「カフェの方はどう? あなた、無事なの?」
その声を聞いた瞬間、俺の殺気はわずかに和らいだ。
「無事だ、エララ。すべて片付いた。だが、今夜は急用ができた」
「用件って……どこへ行くの?」
「カミーユに会いに行く。彼女のホテルへな」
一瞬の沈黙。
その後、エララの声は悲鳴にも似た焦燥を帯びていた。
「ディオ、一人で行っちゃダメ! 危険よ。彼女はフランスから弁護士を連れてきているのよ。罠があるかもしれない!」
俺は暗闇の中で、小さく微笑んだ。
彼女は知らないのだ。
俺が連れて行く「軍隊」が、パリの弁護士など比較にならないほど冷酷で強力であることを。
「大丈夫だ、エララ。すべてに決着をつける。それだけだ」
「でも……」
「エララ、聞いてくれ」
遮る俺の声は、厳格だがどこまでも優しかった。
「俺が戻るまで、ライラをカフェには連れてこないでほしい」
「カミーユの監視がいる可能性がある。ライラを最も安全な場所に避難させておきたいんだ」
電話の向こうで、エララが深く息を吸い込む気配がした。
彼女は懸命に思考を巡らせている。
「わかったわ……それなら、ライラをブラウィジャヤの両親の家へ連れて行く」
「あそこなら、父も母も喜ぶし、人目も避けられるわ」
俺は一瞬、考えを巡らせた。
ブラウィジャヤ邸。
その家の運命もまた、今や俺の手の内に握られている。
「ああ、そうしてくれ。今あそこが一番安全だ」
「着いたら連絡をくれ」
「ええ、ディオ。気をつけて。どうか、冷静にね」
「約束する。また後で」
通話を切る。
立ち上がり、ザ・ノードを出て自室へと入った。
部屋の隅にある大きなクローゼットへと歩を進める。
ゆっくりとした動作で、バリスタのポロシャツを脱ぎ捨てた。
それを洗濯籠へと放り投げる。
これまで盾として使ってきた「バリスタのディオ」というアイデンティティと共に。
ハンガーから、ビスポークの白いワイシャツを手に取る。
最高級のエジプト綿が、肌に冷たく滑らかに触れた。
一つずつ、ボタンを丁寧に留めていく。
襟元をミリ単位の狂いもなく整える。
次に、トム・フォードの黒いスーツを纏う。
その鋭いカッティングが俺の肩を包み込み、シルエットを一瞬にして支配者のそれへと変えた。
威圧的な静寂が、俺の周囲に漂い始める。
最後に、ナイトテーブルの上の木箱を開けた。
室内の明かりを反射して、銀色の輝きを放つ時計。
パテック・フィリップ・ノーチラス。
俺はそれを左手首に巻き、バックルを締めた。
カチッ
心地よい重みが、腕に馴染む。
これは単なる時計ではない。
暗い引き出しの奥に封印してきた、権力の象徴だ。
大きな鏡の前に立ち、自分の姿を見据える。
そこに映っているのは、ラテアートでハートを描くような優しい父親ではない。
獅子は、ついにその牙を剥いた。
そしてカミーユは、今夜自分に何が襲いかかるのか、想像すらしていないだろう。
第 58 章をお読みいただき、ありがとうございます。
ディオの決断がいよいよ始まります。次回もどうぞお楽しみに。
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