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第57章 雨の残響

挿絵(By みてみん)


指先が、少しだけ腫れて熱くなった下唇に触れた。


鈍い鼓動が指に伝わってくる。


私はぎゅっと目を閉じ、冷たい折りたたみ式のマットレスに深く身を沈めた。


朝の六時半。


ライラの部屋のカーテンの隙間から、柔らかな光が差し込んでいる。


宙を舞う微細な埃が光に透けて踊っているけれど、私の意識はまだ、午前一時のあの薄暗い台所の霧の中に閉じ込められたままだった。


熱い感触が首筋から頬へ、そして耳の端まで駆け上がる。


狂ってる。私は、本当におかしくなってしまった。


ディオさんの唇の温もり。


鼻腔をくすぐった、清潔なミントの石鹸の香り。


私の項を力強く、それでいて壊れ物を扱うように支えていた、あの大きな手の感触。


すべてが脳裏に焼き付いて離れない。


心の中にあったはずの理性の堤防は、もう跡形もなく決壊してしまったようだった。


「先生? どうして枕でお顔を隠してるの?」


ライラの甲高い声に、私は飛び上がりそうになった。


危うくマットレスから転げ落ちるところだった。


慌てて枕をどかし、できるだけ平然とした顔を作ろうと努力する。


心臓は、準備運動もなしに激しく脈打ち始めているというのに。


「え? ううん、なんでもないのよ。ただ……少し眩しかっただけ」


声が裏返りそうになるのを必死に抑えて嘘をついた。


ベッドの上で起き上がったライラは、二つ結びの髪をあちこちに跳ねさせていた。


それでも、その薄灰色の瞳は朝の光を浴びて澄み渡っている。


彼女はぬいぐるみのボボを抱きしめ、純粋な好奇心で私を見つめていた。


「早く起きよう! パパが作ったチョコミルクが飲みたいもん!」


私は小さく頷いた。


チョコミルクのためというより、一刻も早く顔を冷たい水で洗いたかった。


私は立ち上がり、少しサイズの大きいサテンのパジャマを整えた。


足取りはひどくおぼつかなかった。


台所の入り口で、私の足はぴたりと止まった。


そこに、彼がいた。


ディオさんは背を向けて、ウォーターサーバーの前に立っていた。


すでに着替えを済ませ、逞しい肩のラインを強調する黒のポロシャツを纏っている。


まだ半分濡れた髪からは、爽やかな男らしい香りが漂っていた。


沈黙が、突如として部屋を支配する重苦しい空気に変わった。


水がグラスに注がれる音だけが響く。


ディオさんが振り返った。


一瞬だけ目が合ったけれど、彼は弾かれたように視線を食卓へと逸らした。


彼の耳の縁が、首筋の肌の色とは対照的に赤く染まっているのが見えた。


「おはよう」


硬い声だった。


いつもより低く、どこか掠れたような響き。


「おはようございます」


私も同じくらいぎこちなく返した。


洗面台へ向かい、自分の手の汚れを落とすことに異常なまでの集中力を注ぐふりをした。


「ライラのミルクは……テーブルの上に用意してある」


ディオさんは正面の壁を見つめたまま言った。


「わかりました。ありがとうございます」


二人の距離はわずか二メートル。


けれど、そこには底知れない深い溝があるようにも、あるいは触れれば弾けるような緊張感があるようにも感じられた。


昨夜の余熱がまだ空気中に残っているせいで、酸素が薄くなったような気がした。


ディオさんが軽く咳払いをした。


崩れかけた威厳を立て直すかのように。


彼は、昨夜の雨の名残で濡れた窓の外に目を向けた。


細かい雨がまだ降り続いており、セノパティの街並みを灰色に染めている。


「エララ、聞いてくれ」


ディオさんがようやく私の方を向いた。


けれど、その視線は私の額や肩のあたりで止まり、決して目を合わせようとはしなかった。


「今日はカフェ・アークスを休みにする。ディマスには臨時休業の札を出すよう伝えた」


手を動かすのを止めて、私は彼を見返した。


「休み? どうしてですか?」


「カミーユだ」


その名は、警告を告げる唸り声のように、彼の口からその名が零れた。


「彼女はまた来る。あの性格だ。もっと大きな騒ぎを起こすまで、決して諦めないだろう」


ディオさんが一歩近づいてきた。


二人の距離は、あと一歩で手が届くほどになった。


彼はズボンのポケットから、私の白いシビックの鍵を取り出した。


「君の車で、ライラを学校へ連れて行ってくれ」


鍵を受け取るとき、指先がわずかに触れ合った。


静電気のような刺激が走り、背筋がゾクりと震えた。


「ディオさんは……一人で?」


「私はここに残る。弁護士を待ち、あの嵐を迎え撃つ」


ディオさんの声には強い決意が宿っていた。


顎のラインが険しくなり、彼の中の保護本能が完全に目覚めているのがわかった。


ザー、ザー


シビックの屋根を叩く雨音が、重苦しいBGMのように響いていた。


運転席に座り、私はハンドルを握り締めた。


隣のライラは通学カバンをぎゅっと抱え、不安そうにカフェの入り口を見つめている。


ディオさんが車の窓枠に手をかけ、身を屈めて私を真っ直ぐに見つめた。


「エララ」


彼は私の名前を呼んだ。


「彼女から目を離さないでくれ。学校でも、教室でも、私が迎えに行くまで。いいな?」


その声に含まれた切実な響き。


それは単なる頼み事ではなく、人生で最も大切なものを私に託すという儀式のようだった。


私はドアの縁にある彼の手に、そっと自分の手を重ねた。


「約束します、ディオさん。ライラは私が必ず守ります」


私は囁くように、けれど確かな声で言った。


「だから、あなたも……どうか感情的にならないで。カミーユはもう、あなたの未来に何の力も持たない過去の人だってことを忘れないでください。彼女の挑発に乗って、負けたりしないで」


ディオさんは絶句した。


「あなたの未来」という言葉に、彼の瞳が一瞬だけ柔らかく揺れた。


彼は手のひらを返し、私の指を数秒間だけ強く握り締めた。


まるで見えない力を分け合っているかのようだった。


「道中、気をつけて」


彼は一歩下がり、車が出るための空間を作った。


私はギアを入れ、ゆっくりとシビックをカフェの駐車場から出した。


バックミラー越しに、雨の中に佇むディオさんの姿が見えた。


一人で、城門を守る騎士のように背筋を伸ばして立っていた。


「先生、パパはどうして来ないの?」


ライラが小さな声で尋ねた。


「パパは少しお仕事があるのよ。夕方になったら、また迎えに来ましょうね」


私は明るい子供向けのラジオ曲をかけ、車内の重い空気を追い払おうとした。


無理に笑顔を作りながら、私は心の中で祈り続けていた。


七年前に彼の世界を切り裂いた女を前にして、ディオさんがどうか気高くありますように、と。


カチッ


カフェ・アークスの入り口の鍵が回る音が、冷たく響いた。


俺はドアノブを引き、ガラスの扉が内側から完全に施錠されていることを確認した。


「CLOSED」と書かれた木札は、あえて少し斜めに掛けてある。


緊急の事情で閉まったかのような、不穏な雰囲気を演出するために。


「ディマス、裏口から帰れ」


振り返らずに命じた。


「でも、ボス……もし何かあったら……」


「裏の店で待機してろ。俺が合図のメッセージを送ったら、誰に連絡すべきか分かっているはずだ」


ディマスは不安げな表情を浮かべながらも、素直に頷いた。


彼が去った後、店内には俺一人だけが残された。


バーカウンターの上の薄暗いランプだけが、静まり返った空間を照らしている。


俺はカウンターの高い椅子に腰を下ろした。


手の中で銀貨を転がし、木製のテーブルの上でリズミカルな音を立てる。


視線はガラスの扉に固定され、雨に煙るセノパティの通りを凝視していた。


午前十時。


一台の黒いメルセデス・ベンツが、カフェの真ん前に停まった。


その車体は、灰色の景色の中で傲慢なまでの存在感を放っている。


後部座席のドアが開いた。


カミーユが降りてきた。


まるでファッション雑誌の表紙から抜け出してきたような姿だ。


クリーム色のフェイクファーのコートに、顔の半分を覆う大きなサングラス。


アスファルトを叩くハイヒールの音は、どこまでも不遜だった。


彼女は入り口まで歩いてくると、店が閉まっていることに気づき、革手袋に包まれた拳でガラスを叩いた。


「CLOSED」の札を見た彼女の表情には、侮蔑と苛立ちが混じっていた。


俺は立ち上がらなかった。


三十秒ほど彼女を待たせ、その肥大したプライドに傷をつけてから、ようやくゆっくりと歩み寄って鍵を開けた。


「一般客の営業はしていない」


ドアを少しだけ開け、冷淡に言い放った。


カミーユは乱暴にドアを押し開け、強引に中へと踏み込んできた。


「こんなむさ苦しい場所、永遠に閉めておけばいいのよ、ディオ」


彼女はサングラスを外し、嫌悪感を露わにして周囲を見渡した。


「こんな環境、私の娘にふさわしい場所じゃないわ」


俺は再びカウンターの椅子に戻った。


彼女を客として迎えるつもりは毛頭ない。


「彼女は君の娘じゃない。七年前に君が捨てた子供だ」


カミーユは鼻で笑うと、入り口の方へ合図を送った。


彼女の後を追うように、高級な革の鞄を手にした中年男性が入ってきた。


隙のないスーツを纏ったその男は、汚い手段で勝利を重ねてきた弁護士特有の顔をしていた。


「紹介するわ。私の個人弁護士、ムッシュ・ジラールよ。パリから呼んだの」


カミーユは自分のハンドバッグをカウンターに叩きつけた。


ジラールが一歩前に出て、青い分厚いファイルを見せつけた。


フランス訛りの強い英語で、尊大な口調で話し始める。


「アトマンタ氏、我々はフランスの法律事務所が発行した公式文書を所持しています。ライラという名の子供に対する、我がクライアントの生物学的な権利を証明するものです。国際法に基づき、母親の永続的な書面による許可なく子供を国外へ連れ出したあなたの行為は、国境を越えた誘拐とみなされる可能性があります」


俺はそのファイルを一瞥もせずに言った。


「誘拐だと? カミーユは七年前、パリの公証人の前で親権放棄の書類に署名したはずだ。金と引き換えにな」


「あの書類は、感情的な圧迫と不安定な経済状況下で署名されたものです」


ジラールが素早く口を挟んだ。


「法的には無効化が可能です。母親には、紙切れ一枚で、血の繋がりという天賦の権利を消し去ることなど不可能なのです」


カミーユは腕を組み、勝利を確信したような笑みを浮かべた。


「ライラを今すぐ渡しなさい、ディオ。さもなければ、残りの人生を国際手配でどこかの国の刑務所送りになるわよ」


俺が反論しようと口を開きかけたその時、入り口のベルが再び鳴った。


カランッ


三人の男たちが中へ入ってきた。


彼らは重苦しいコートなどは着ていなかった。


仕立ての良いチャコールグレーのスーツを纏い、その冷徹で圧倒的なオーラは、ジラールのスーツを安物に見せるほどだった。


ジラール氏は思わず息を呑み、反射的にネクタイを整えた。


先頭を歩く、金縁の眼鏡をかけた男が真っ直ぐに俺の元へ歩み寄った。


彼はカミーユを一瞥もせず、俺の前で深く頭を下げた。


「おはようございます、ディオ様。渋滞で少し遅れました」


重厚で威厳のある声だった。


「構わない。始めてくれ、ハリス先生」


ハリス・スヴァルナ。


ジャカルタの政財界で最も恐れられている弁護士だ。


彼はワニ革の鞄をカウンターに置き、ジラールの青いファイルの隣にタブレットと書類の束を並べた。


そこには在ジャカルタ・フランス大使館の公印が押されていた。


「ムッシュ・ジラール」


ハリスは微笑み一つ見せずに相手を呼んだ。


「フランス民法第378条の1、児童遺棄に関する条項を読み直すことをお勧めします。あなたのクライアントは親権を放棄しただけでなく、生後三ヶ月の乳児を四十八時間以上にわたって放置しました。ディオ様が発見するまで、彼女は意識的に育児を放棄していたのです」


カミーユの顔から血の気が引いた。


「そして誘拐という訴えについてですが……」


ハリスは一枚の書面を取り出した。


「これはカミーユ氏本人が署名した出国許可証です。指紋もあり、七年前に彼女が受け取った五十万ユーロの補償金の送金証明も揃っています。インドネシアにおいて、これは正当な取引とみなされます」


「あれは……あれはただの支援金よ!」


カミーユが金切り声を上げた。


ハリスは冷笑した。


その笑いは、古びた紙が擦れるような乾いた響きだった。


「支援金ですか? 我々の銀行記録によれば、その金はライラ様を捨てた一週間後、カンヌの高級マンションをあなたとティエリ・デラクロワの名義で購入するために即座に使用されています」


ジラールが必死に弁護を試みる。


「アトマンタ氏のここでの暮らしぶりなど、ただの小さなカフェの店主に過ぎない! オーヴァン・グローバルが提供できるものに比べれば、子供の将来を保証する能力などない!」


ハリスは、まるで虫ケラを見るかのような目でジラールを見つめた。


「ムッシュ・ジラール。目に見える資産が法的効力を決めるわけではありません。そして、この部屋で経済的地位について語ることはお勧めしません。あなたが本当は誰を相手にしているのかを知れば、後悔することになるでしょうから」


カミーユは完全に理性を失い、カウンターを激しく叩いた。


「関係ないわ! 私は母親なのよ! あの子には私の血が流れているのよ! ディオ、あなたは私から彼女を盗んだのよ!」


俺はゆっくりと椅子から立ち上がった。


静かな歩調でカウンターを回り込み、カミーユとの距離が数センチになるまで近づいた。


俺は身を屈め、彼女の耳元で極めて冷酷な声を絞り出した。


「君はライラなんて欲しくないはずだ、カミーユ。君はただ、ティエリを恐れているだけだ。あいつが後継者について問い詰め始めたのか? それとも、オーヴァン・グローバルでの地位を固めるためのカードとしてライラが必要になったのか」


カミーユの目が見開かれた。


隠していた真実を暴かれた恐怖が、その瞳に宿った。


「今すぐ消えろ」


俺は低く唸るように言った。


「フランスへ帰る旅費さえ残らなくしてやる前に。俺に、もっと荒っぽい真似をさせるな」


カミーユは喘ぐように息をついた。


その美しい顔は、怒りと恐怖で醜く歪んでいた。


彼女はひったくるようにバッグを掴むと、純粋な憎しみを俺にぶつけた。


「これで終わったと思わないで、ディオ! 警察を連れて戻ってくるわ!」


彼女は叫び、雨の中へと逃げ出した。


ジラールも怯えた子犬のようにその後を追っていった。


バタンッ


ドアが激しく閉まり、店内に再び静寂が訪れた。


ハリス・スヴァルナは手際よく書類を鞄に片付けた。


彼は老練な弁護士らしい、賢明な眼差しで俺を見た。


「ディオ様」


彼は穏やかに問いかけた。


「なぜ、アークシロンのチェアマンとしての正体を明かさないのですか? そうすれば、あの女も即座に黙り込み、膝をついて謝罪したでしょうに」


俺は溜息をつき、カウンターに背を預けた。


「俺の資産額を知れば、また別の理屈をつけて執着してくるのが目に見えている。金の問題ではなく、あくまで親権の法的な決着をつけたいんだ」


ハリスは威厳のある笑みを浮かべた。


幾千もの法廷闘争を勝ち抜いてきた男の笑みだ。


「彼女に勝ち目はありません、旦那様。しかし、私からの忠告です……そろそろ、ご自身の真の力を行使されるべきかと。カミーユのような狡猾な人間を完全に屈服させるには、圧倒的な権力と現実的な圧力しかありません。このまま長引けば、ライラ様の精神的な負担になるだけです」


俺は沈黙し、ハリスの言葉を反芻した。


「検討しよう、ハリス先生」


俺は静かに答えた。


「さて、もしあのティエリという男が直接乗り出してきた場合の、予備の戦略を練るとしようか」

第 57 章をお読みいただき、ありがとうございます。

ようやくディオの強さが明らかになり、スッキリされた方もいるかもしれません。

皆さんの感想や応援コメントをいただけると、執筆の大きな励みになります。

ブックマークしていただくと、次の章を見逃しません。

最後までどうぞよろしくお願いします。

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