第56章 真夜中の境界線
天井に映し出された偽物の星空が、緩慢なリズムで回転している。
機械的なモーター音だけが、深夜の静寂を微かに震わせていた。隣のベッドでは、ライラがウサギ柄のブランケットに包まり、安らかな寝息を立てている。その小さな腕は、くたびれた「ボボ」をしっかりと抱きしめていた。
私はフローリングの上に敷かれた簡易マットレスに身を横たえている。借り物のサテンのパジャマは肌触りが冷たく、少しだけサイズが大きい。肩のあたりが滑り落ちそうになるのを無意識に直しながら、私は回転する光の粒を目で追った。
状況を整理しようとすればするほど、現実感が遠のいていく。
私は今、教え子の部屋の床で寝ている。それも、ほんの数ヶ月前まで他人だった男の家の、最もプライベートな領域で。
胸の奥が温かい泥で満たされたように重い。
寝返りを打ち、下からライラの寝顔を見上げた。月明かりに照らされたその横顔は、あまりにも無防備で、守るべきものの象徴そのものだった。
「いい夢を」
声に出さず、唇だけでそう呟く。
瞼が重くなり、意識が微睡みへと落ちていこうとしたその瞬間、脳裏にあの甲高い声が響き渡った。
『ムード満点じゃない? 今夜あたり、その封印、解けちゃうかもよ?』
サスキア。
親友の無責任な予言が、壊れたレコードのように頭の中で繰り返される。
カッ、と顔が熱くなるのを感じた。私は慌ててブランケットを頭まで被り、枕に顔を埋める。なんてことを刷り込んでくれたんだ。あの女の妄想力は、インフルエンザウイルス並みの感染力を持っている。
ありえない。
ディオは紳士だ。羊の皮を被った狼なんかじゃない。寝る場所について話した時だって、彼は明らかに動揺していた。あのストイックな男が、そんな軽率な行動に出るはずがない。
自分にそう言い聞かせるが、一度芽生えた想像は、暗闇の中で勝手に枝葉を広げていく。もし今、ドアがノックされたら? もし彼が……。
思考を遮るように、下腹部に鈍い圧迫感が走った。
夕食後に飲んだ二杯のカモミールティーと、ホットチョコレート。飲みすぎたツケが、最悪のタイミングで回ってきたのだ。
無視しようと試みる。暖かいブランケットの聖域から出るのは億劫だ。しかし、生理的な欲求は待ってくれない。
壁のデジタル時計を見る。午前一時十五分。
「……作戦開始」
私は覚悟を決めた。
ライラを起こさないよう、慎重にブランケットを剥ぐ。マットレスが衣擦れの音を立てないよう、スローモーションのように身を起こした。
この部屋のトイレを使うわけにはいかない。静まり返った深夜の邸宅では、水の流れる音は爆音のように響くだろう。廊下の先にあるゲスト用のバスルームへ行くしかない。
爪先立ちで歩き、ドアノブを回す。
カチリッ。
極小の解錠音が鳴り、私は隙間から廊下へと滑り出た。
二階の廊下は薄暗い。階段付近のフットライトだけが、長い影を床に落としている。昼間の温かなコーヒーの香りは消え失せ、代わりに冷たく清潔な床用洗剤の香りが漂っていた。
まるで深海を歩くような静けさだ。
私は足音を殺し、キッチンエリアの近くにあるバスルームへと急いだ。
数分後。
用を足し、冷たい水で手を洗うと、少しだけ頭が冷えた。サスキアの呪いも、生理的な不快感と共に水に流したつもりだった。
あとは部屋に戻って寝るだけだ。
そう思ってバスルームを出て、キッチンのアイランドカウンターの横を通り過ぎようとした時だった。
心臓が跳ね上がり、足が凍りついた。
暗闇の中に、影があった。
黒大理石のカウンターの前に、長身のシルエットが立っている。
ディオだ。
彼は私に背を向けていた。
大きなグラスを傾け、水を飲んでいる。喉仏が上下し、水を飲み込む音が静寂の中でやけに生々しく聞こえた。
いつもの完璧なスーツ姿ではない。
膝丈のラフなスウェットパンツに、薄手の白いTシャツ。背中に張り付いた生地が、広背筋の隆起を露わにしている。整えられていない髪は無造作に跳ねていて、彼をひどく若く、そして野性的に見せていた。
「昼間のディオ」とは違う、無防備な捕食者の背中。
彼はグラスを置き、深い溜息をついて振り返った。
そして、私と目が合った。
ディオの肩が僅かに震えた。グラスを持つ手に力が入り、指の関節が白くなるのが見えた。
三メートルの距離。
冷蔵庫のモーター音が、耳鳴りのように低く響いている。
彼の視線が、私のつま先から頭のてっぺんまでをゆっくりと舐めるように移動した。サイズの合わないサテンのパジャマ。無造作に束ねただけの髪。化粧を落とした無防備な顔。
私もまた、彼から目を逸らせなかった。露わになった腕の筋肉、浮き出た血管、そして薄暗い照明の下で光を吸い込むような黒い瞳。
「……寝てなかったのか」
声が、低い。
寝起きの掠れたバリトンボイス。その理性を溶かすような響きが、私の鼓膜を震わせた。
私はパジャマの裾をギュッと握りしめた。
「あ、えっと……目が覚めてしまって。その、お水を……いえ、お手洗いに」
しどろもどろだ。自分の声が上擦っているのがわかる。
ディオはグラスを大理石の上に置いた。コトリ、という硬質な音が、合図のように響く。
彼は「おやすみ」と言って立ち去ることもできたはずだ。
だが、彼は動いた。
私の方へ。
一歩。また一歩。
彼が近づくたびに、廊下の空気が圧縮されていくような錯覚に陥る。逃げなければならないという警鐘と、その場に留まりたいという引力が、私の中で激しく衝突した。
「ライラは?」
距離が一メートルになる。
「ぐっすり、寝てます」
蚊の鳴くような声しか出ない。
ディオは私の目の前で足を止めた。その距離、わずか三十センチ。
匂いが、私を包み込んだ。
いつものコーヒーの香りではない。ミント系のボディソープの清涼感と、彼自身の体温が混じり合った、男の匂い。
香水よりもずっと強烈で、頭がくらくらする。
至近距離で見上げる彼の顔には、微かな疲労の色が滲んでいた。長い睫毛が落とす影さえも、今は触れられそうなほど近い。
「君は……」
ディオが何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。
彼の手がゆっくりと持ち上がる。大きく、節くれだった指先が、私の顔の輪郭をなぞるように伸びてきた。
火傷しそうなほどの熱を持った指が、乱れた後れ毛を耳にかける。
その動作はスローモーションのように緩慢で、それでいて逃げ場のない重みがあった。
指先が、偶然か故意か、私の首筋に触れた。
背筋に電流のような痺れが走り、私は息を呑んだ。
「……そんな無防備な姿で歩き回るな」
叱責のようでいて、その声色は甘く、懇願するような響きを含んでいた。
ディオの視線が私の唇に落ちる。
その瞳の色が変わった。
父としての穏やかな光が消え、飢えた雄の暗い色が渦巻く。
彼が顔を近づけてくる。
私は後ずさりしなかった。いや、できなかった。本能が理性を凌駕し、私はただ目を閉じて、その瞬間を待った。
唇が、触れた。
最初は、羽毛が触れるような、探るような優しさだった。
熱い。
私の唇が震え、無意識に彼の二の腕を掴むと、ディオの中の何かが弾け飛んだ。
優しい接触は、瞬時に貪るような口づけへと変貌した。
「ん……っ」
喉の奥で小さな音が漏れる。
私の頬に添えられていた彼の手が、強引にうなじへと滑り込む。もう片方の腕が私の腰に回り、強烈な力で引き寄せられた。
薄いパジャマ越しに、彼の体温と筋肉の硬さが伝わってくる。胸と胸が重なり合い、心臓の鼓動がどちらのものか分からなくなるほど激しく共鳴する。
世界が回転した。
彼の勢いに押され、私の背中が廊下の壁にぶつかる。
ドンッ、という鈍い衝撃。
ディオは私を壁と自分の身体の間に閉じ込めた。逃げ場はない。
唇を食む彼の動きは、まるで長年の渇きを癒やすかのようだった。荒い息遣いが交錯し、舌が絡み合うたびに、私の頭の中は真っ白な光で満たされた。
サスキアの言葉が、遠くで点滅する。
『封印が解ける』
解けてしまえばいい。
このまま、彼に溶けてしまいたい。
私の手は彼の首に絡みつき、少し湿った髪の中に指を滑らせていた。もっと深く、もっと近く。
ディオの手が腰から背中へと這い上がり、パジャマの裾の下から、素肌に触れようとしたその時。
ピタリと、彼の動きが止まった。
荒い呼吸だけが、二人の間に残された。
ディオの全身が、小刻みに震えているのがわかる。
彼はゆっくりと、本当に苦しそうに、唇を離した。パジャマの下に入り込んでいた指を引き抜き、私の肩に額を押し付けた。
「……すまない」
絞り出すような、掠れた声。
「エララ……俺は……」
彼は深く息を吸い込み、そして吐き出した。それは暴走しかけた欲望に、必死でブレーキをかける音だった。
私が目を開けると、ディオは顔を上げ、私を見ていた。
その瞳にはまだ情欲の残り火が燻っていたが、理性の光が戻りつつあった。彼は私の乱れた襟元を、不器用な手つきで直した。
「隣にはライラがいる」
自分に言い聞かせるように、彼は言った。
「それに……順序を間違えるわけにはいかない」
その言葉は、冷水のように私の熱を冷ました。
そうだ。ライラがいる。そして私たちは、まだ恋人同士ですらない。雇用主と、従業員。あるいは、それ以上の何かではあるけれど、確かな名前のない関係。
恥ずかしさが遅れてやってきた。けれど、それ以上に胸を打ったのは、彼の誠実さだった。
彼は止めたのだ。私が拒めなかった一線を、彼が守った。
ディオは自嘲気味に口の端を歪め、私の額に軽くキスをした。今度は短く、けれど所有印を押すような強さで。
「部屋に戻れ、エララ」
耳元で、彼は低く囁いた。その声には、まだ危険な熱が孕んでいた。
「……俺の理性が残っているうちに」
顔から火が出るかと思った。
心臓が破裂しそうだ。
「は、はい……おやすみなさい!」
私は逃げるように背を向け、ライラの部屋へと小走りで戻った。
ドアを閉め、その場にへたり込む。
背中をドアに預けたまま、震える手で唇に触れた。
腫れぼったい感触。彼が残したミントと熱の味。
暗闇の中で、私は膝を抱える。
封印はまだ、完全には解かれていない。
けれど、その扉には決定的な亀裂が入ってしまった。もう二度と、元の「ただの先生と保護者」には戻れないほどの、深く、甘い亀裂が。
私は暗闇の中で、どうしようもなく緩む頬を両手で覆った。
第 56 章をお読みいただき、ありがとうございます。
ようやく訪れた二人の距離感に、ドキドキされた方もいるかもしれません。
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