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第55章 嵐の夜の密約

窓の外では、世界を洗い流すような激しい雨が降り続いていた。


ザア、ザア、ザア


その音は、まるでカフェ・アークスというこの小さな聖域を、外の冷酷な現実から切り離すためのカーテンのようだった。店内の空気はコーヒーの香ばしさと、雨の湿り気を帯びた静寂に包まれている。


ディオ・アトマンタは、深いため息をひとつ吐いた。それは疲労からくるものではなく、場の空気を読んだ男の処世術だった。彼は、仁王立ちするサスキアと、ライラを抱きしめて座る私、エララ・ドウィジャヤを交互に見る。


ここに男の居場所はない。彼はそう判断したのだ。


「ディマス」


ディオの低いバリトンボイスが、静かに響く。


「はい、ボス!」


「サスキア先生にカモミールティーを。蜂蜜を多めにしてくれ。嵐の中を突っ走ってきた神経を、少し緩めて差し上げろ」


その命令は平坦な口調だったが、隠しきれない配慮が滲んでいた。サスキアは鼻を鳴らし、口元の笑みを必死に噛み殺している。


「悪くない提案ね。でも、ドーナツも忘れないでよ」


ディオは無言で頷くと、部屋の隅で電子タバコの紫煙をくゆらせていたバン・ティオの肩を叩いた。


「バン、少し席を詰めてくれ。俺も座らせてもらう。ここからは、国家機密レベルの女子会が始まるらしいからな」


「了解っす、ボス。じゃあ、チェスでもやりましょうか」


バン・ティオが盤面をずらす。ディオは背を向け、私たちに十分なプライバシーという名の「間」を提供してくれた。その広い背中がわずかにリラックスして見えたのは、サスキアという騒がしくも頼もしい味方が、私の側にいると確信したからだろうか。


ガタンッ


サスキアが私の向かいの木製椅子を引く。彼女は濡れたビニール製のレインコートを脱ぎ捨て、隣の席に乱暴に放り投げた。その動作一つ一つに、彼女の感情が乗っている。


彼女の鋭い視線は、私の膝の上でタブレットのパズルゲームに没頭しているライラへと注がれた。


「さてと」


サスキアが身を乗り出す。両手で頬杖をつき、声を極限まで潜めた。秘密会議の開始だ。


「全部吐き出して。何があったの? なんで急にここにお泊まりなんて事態になってるわけ?」


私は深く息を吸い込んだ。サスキアの服から漂う、冷たい雨の匂いが鼻腔をくすぐる。


「さっき……カミーユというフランス人の女性が来たの」


ライラに聞こえないよう、私は唇だけで言葉を紡ぐ。


「ライラの、実の母親よ」


サスキアの目が限界まで見開かれた。「生みの親? あの子たちを捨てたっていう?」


私はこわばった首を縦に振る。そこからは、堰を切ったように言葉が溢れ出した。ドラマチックな登場、ガラスの破片を踏みつける傲慢さ、ライラに対する一方的な所有権の主張、そして明朝に弁護士を送り込むという脅迫。


サスキアは一度も口を挟まなかった。普段のふざけた表情は消え失せ、真剣そのものの眼差しで私の言葉を受け止めている。


「でもね、キア……一番辛かったのは」


その瞬間の光景がフラッシュバックし、声が震える。


「カミーユがライラを抱きしめようとした時……ライラが叫んだの」


私は視線を落とし、甘いイチゴのシャンプーの香りがするライラの頭頂部を見つめた。


「あの子は逃げたわ。でも、ディオのところじゃない。私のところに逃げてきたの。私の背中に隠れて、震えていた。実の母親に対して、あんなに怯えて……」


サスキアは口元を手で覆った。「なんてこと……」


重い沈黙が流れる。遠くでディマスがスプーンで紅茶をかき混ぜる、カチャ、カチャ、という音だけが、この場の時を刻んでいた。


サスキアが手を下ろす。その瞳には、もう迷いはなかった。そこには、私の知る限り最も頼もしい友人の姿があった。


「で、エラ。あんたはどうするつもり?」


「え?」


「相手は元妻よ。血の繋がった母親。母と子の絆っていうのは、理屈じゃない引力がある。あんたは戦う覚悟があるの? 『私には権利がない』なんて言って、綺麗に身を引くつもりじゃないでしょうね?」


その問いは鋭利な刃物のように、私の核心を突いた。論理的で、残酷なほど現実的だ。


私はカフェの隅に目をやった。薄暗い照明の下、ディオがチェス盤に向かっている。外見は冷静そのものだが、その内側で彼がどれほどの葛藤を抱えているか、私には痛いほど分かった。


数時間前、あの部屋で交わした抱擁。彼の過去の告白。そして、私の家族が私を壊そうとした時、彼がどうやって私を守ってくれたか。


「逃げない」


私は短く、しかし力強く答えた。視線をサスキアに戻す。


「私の世界が崩れ落ちた時、彼は私の盾になってくれた。今度は私の番よ。私は彼の隣に立つ。ライラの母親代わりとか、そういう大それた名目じゃない。ただ、二人がこれ以上傷つかないように、私が守る」


サスキアは私の瞳の奥をじっと覗き込んだ。そこに一切の揺らぎがないことを確認すると、彼女の唇がゆっくりと弧を描いた。


「最高にかっこいいじゃない」


彼女の視線が私の手に落ちる。私は無意識のうちに、スプーンで最後のお粥をすくい、ライラの口元に運んでいた。ライラは画面から目を離さず、小鳥のように自然に口を開ける。


「あーん。はい、おしまい!」


私はティッシュでライラの口角を優しく拭った。


「美味しかった?」


「うん、おいしかった! 先生!」


その光景を見て、サスキアが大げさに首を振った。


「ねえ、無自覚って怖いわね。あんたのその手つき、あの子の甘え方……完全に『親子』のそれよ。突然現れたフランス人形なんかより、ずっと本物の絆が見えるわ」


サスキアがテーブル越しに私の手を握りしめる。


「全力で支持するわ。もしそのフランス女の髪を引っ掴む必要が出てきたら、私を呼びなさい。最前線で暴れてやるから」


ふっと胸のつかえが取れ、私は小さく笑った。親友からの承認は、どんな法的文書よりも強力な支えだった。


「おなかいっぱい……」


ライラがタブレットを置き、大きなあくびをした。その瞳がとろんと重くなる。


緊張の糸が緩むと、サスキアの中の「おふざけスイッチ」が再びオンになったようだ。彼女はカモミールティーを一口すすると、私の警戒アラームを鳴らすようなニヤニヤ笑いを浮かべた。


彼女は身を乗り出し、私の耳元に顔を寄せる。


「ねえ、ところでさ、エラ」


「……何よ」


「こんなに条件が揃ってるじゃない? 外は嵐、気温は下がって肌寒い、そしてあんたはイケメン富豪の家にお泊まり……」


サスキアの眉が意味ありげに上下する。


「今夜あたり、『一線』越えちゃうんじゃないの?」


「ブッ!!」


私は自分の唾で盛大にむせた。顔中の毛細血管が一気に拡張し、耳まで熱くなるのが分かる。


「サスキア! 何言ってるのよ!?」


私は慌ててディオの方を盗み見た。彼が地獄耳でないことを祈りながら、必死に声を潜める。


「私はライラの部屋で寝るの! クマのぬいぐるみと三人で! やましいことなんて一つもないわ!」


私の狼狽ぶりを見て、サスキアはクスクスと意地悪く笑った。


「あらー、どうかしらね? 大人同士だもの。ライラちゃんが寝静まった後、喉が渇いてキッチンに行ったら、偶然彼もそこにいて……目が合って……つい魔が差して……」


サスキアの妄想劇場に、私はお粥の器に顔を埋めてしまいたくなった。


「ないない! そんな三流恋愛小説みたいな展開、絶対にないから!」


私はサスキアの二の腕を強めにつねった。


「いった! バカ、痛いってば! あはは、顔真っ赤よ! 顔が茹でダコよ」


・・・


楽しい時間は残酷なほど早く過ぎ去る。壁の時計はすでに午後十時を回っていた。


カフェの中は完全に静寂を取り戻していた。ティオさんたちは五分前に帰宅し、店内には私たちだけが残されている。


サスキアが立ち上がり、凝り固まった体を伸ばした。


「さて、私の任務完了ね。着替えの配達と恋愛コンサルタント、これにて閉店。お城へ帰るとしますか」


彼女がヘルメットを手に取ると、バーカウンターの奥からディオが歩み寄ってきた。その手には、香ばしい匂いを漂わせる二つの大きな紙袋が握られている。


「これはドラマ鑑賞のお供にどうぞ、サスキア先生」


ディオは紙袋を差し出した。「焼きたてのパンとペストリー、それからコールドブリューを数本入れてあります。嵐の中、エララのために来てくれて感謝します」


サスキアの目が、まるで財宝を見つけた海賊のように輝いた。彼女はおごそかにその貢物を受け取る。


「いやあ、さすがボス……分かってらっしゃる。給料日前の我が家の食糧事情、完全に透視されてますね」


サスキアはヘルメットを被ったが、まだバイザーは下ろさない。彼女はディオを見つめ、次に私を見て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。最後の一撃を放つ準備だ。


「報酬、確かに受け取りました。ご心配なく、ずぶ濡れになった甲斐はありましたよ。これもすべて、次期『アトマンタ夫人』の円滑な業務遂行のためですから」


一瞬、時が止まった。


シーンッ


ディオがビクリと肩を震わせる。彼は咄嗟に手の甲で口元を覆ったが、耳がトマトのように赤く染まっているのを隠すことはできなかった。


そして私? 私は今すぐ床のタイルになりたかった。


「サスキア!!」


「逃げろー! じゃあね、お熱い二人さん!」


サスキアは笑い声を残し、雨の残る夜の街へと駆け出していった。


・・・


バイクのエンジン音が遠ざかり、完全に聞こえなくなる。ディマスも裏口からこっそりと帰ったようだ。


照明が落とされた薄暗いカフェのフロアに、私たち三人だけが取り残された。


私は眠そうなライラの手を握っている。ディオはレジカウンターの近くに立ち尽くしていたが、サスキアの爆弾発言の余韻で、どこか居心地が悪そうだ。


彼は無言で入り口に歩み寄り、鍵をかけた。


カチャリ。


金属音が、静寂の中でやけに大きく響く。


ディオが振り返る。その顔には疲労の色が見えたが、瞳は穏やかだった。彼は首の後ろをさすりながら、言葉を探すように口を開いた。


「それじゃあ……」


彼の低い声が、雨音に混じる。


「そろそろ、寝ようか」


ドキッ、


その言葉が、私の脳内でこだまする。


サスキアに植え付けられた『一線』というワードが暴走し、私の思考回路はショート寸前だった。私は目を見開き、恐怖と動揺が入り混じった顔でディオを凝視した。


「ね、寝るって……い、一緒に?」


私のどもった声に、ディオが凍りついた。


彼もまた、自分の言葉の曖昧さに気づいたらしい。冷静沈着な仮面が剥がれ落ち、その瞳が驚愕に見開かれる。


「えっ!? ち、違う! 違うぞ!」


彼は慌てて両手を振り、必死に否定した。


「上に上がって、それぞれの部屋で休もうという意味だ! 決して、その……一緒に寝るとか、そういう意味では……ああ、くそ」


彼は眉間を押さえ、顔を背けた。その耳はさっきよりもさらに赤くなっている。普段は隙のない「隠れ富豪」が、言葉の綾一つでここまで狼狽えるなんて。


彼の純粋すぎる反応を見て、私の羞恥心は急速に萎んでいった。代わりに、どうしようもない愛おしさが込み上げてくる。


不思議な勇気が湧いてきた。それは深夜のテンションのせいか、それとも彼が絶対に私を傷つけないという絶対的な信頼があるからか。


私は少し首を傾げ、意地悪な笑みを浮かべた。


「なあんだ……」


私はわざとらしく残念そうな声を出す。


「私は、一緒でもよかったのに」


ディオの動きが完全に停止した。顎が外れそうなほど口を開け、彼は石像のように固まっている。私の口からそんな大胆な言葉が出るとは、夢にも思っていなかったのだろう。


「エ、エララ……?」


彼が彼が我に返って心臓を抑え込む前に、私はクスクスと笑い声を上げた。


「ほら、ライラちゃん。今夜は先生と一緒に寝ようね! パパは下でフリーズしちゃったみたいだから」


「はーい!」ライラが無邪気に笑う。


私は返事を待たず、ライラの手を引いて階段を駆け上がった。


「おやすみなさい、ディオ!」


階段の途中から声をかける。振り返ることはしなかったが、背中で感じる気配だけで分かった。彼はきっとまだ、心臓を押さえてそこに立ち尽くしているはずだ。


外はまだ嵐が吹き荒れている。けれど、この砦の中では、私たちの笑い声が勝っていた。

第 55 章をお読みいただき、ありがとうございます。

少しほっこりできる展開だったかと思います。

皆さんの感想や応援コメントをいただけると、執筆の大きな励みになります。

ブックマークしていただくと、次の章を見逃しません。

最後までどうぞよろしくお願いします。

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