第54章 偽りの血、真実の絆
窓ガラスを叩く雨音が、重苦しい沈黙を切り裂いていた。
先ほど放たれた告白が、部屋の空気を凍らせたまま停滞している。
「ライラは、俺の本当の娘じゃない……」
その言葉は、まるで鋭い刃のように私の胸に突き刺さった。
だが、それは痛みではなく、あまりにも純粋で悲痛な響きを持っていた。
私は、彼の濡れた黒い瞳をじっと見つめた。
そこには嘘など微塵もなかった。
あるのは、ただ一つの恐怖――真実を知った私が、彼への敬意を失うのではないかという怯えだけだ。
血の繋がり。
そんなものが、この七年間の歳月に勝てるとでもいうのだろうか。
ライラを見つめるディオの眼差し。
カミーユから彼女を守ろうとする時の、あの鬼気迫る背中。
眠りにつく娘の頭を撫でる、大きな手のひらの優しさ。
それこそが、何物にも代えがたい「父親」の姿そのものだった。
私は、膝の上で固く握りしめられたディオの手を、そっと包み込んだ。
彼の肌は驚くほど冷たく、この部屋の暖房が機能していないのではないかと錯覚するほどだった。
「ディオ……」
私の声に、彼は弾かれたように顔を上げた。
迷いと不安が混ざり合ったその表情は、まるで審判を待つ被告人のようだった。
「そんなことで、私のあなたに対する気持ちが変わると思っているなら、それは大きな間違いよ」
私は努めてきっぱりと言い切った。
声が少しだけ震えてしまったのは、込み上げてくる感情を抑えきれなかったからだ。
「あなたは、私が知る中で最も素晴らしい父親よ、ディオ。誰が何と言おうと、それは揺るがない事実なの」
彼の手をさらに強く握りしめる。
私の体温が、彼の冷え切った指先に少しずつ伝わっていくのを感じた。
「血なんて、ただの記号に過ぎないわ。彼女が生まれた瞬間からそばにいて、母親に捨てられた彼女を抱きしめたのはあなたでしょう? この七年間、彼女の成長を一番近くで見守り、守り抜いてきたのは、あなたなのよ」
目尻から熱いものが溢れ、彼のジーンズに一滴の染みを作った。
それは悲しみではなく、彼という人間の高潔さに触れた感動の涙だった。
「ライラは本当に幸せね。あなたのような人を父親に持てたのだから。そして私は……あなたのような男性と出会えたことを、心から誇りに思っているわ」
ディオの張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたのがわかった。
鋭く、常に周囲を警戒していた彼の瞳が潤み、視界を歪ませる。
唇を噛み締め、必死に嗚咽を堪える彼の姿に、私の胸は締め付けられた。
彼は私の手を引き寄せると、震える唇を私の手の甲に押し当てた。
長い、長い沈黙の中での接吻だった。
「ありがとう……エララ……」
掠れた声が、私の指の間で砕けるように漏れた。
「その言葉だけで……俺は救われる。それだけで、十分だ……」
この人は、どれほどの長い間、一人でこの重荷を背負ってきたのだろう。
誰にも頼らず、誰にも弱音を吐かず、ただライラのためだけに鉄の城を築いてきたのだ。
私はソファの上で体をずらし、彼との距離を埋めた。
膝と膝が触れ合い、お互いの鼓動が聞こえるほどの距離。
私は両手で、彼の少し無骨な頬を包み込んだ。
そして、ゆっくりと顔を近づけ、濡れた左の頬に唇を寄せた。
次に、右の頬。
ディオは目を閉じ、砂漠で水を求める旅人のように、私の愛撫を全身で受け止めていた。
彼は動かず、ただ私が彼の傷を癒やすのを待っていた。
最後に、私は彼の額に深く、長く口づけをした。
そこには、愛おしさだけでなく、一人の人間としての深い敬意を込めた。
「あなたは本当に立派よ」
顔を離した至近距離で、私は囁いた。
「私の心を受け止めてくれる場所が、あなたで良かったと心から思っているわ」
ディオが目を開けた。
一筋の涙が頬を伝い落ちたが、その口元には、私がこれまで見た中で最も穏やかで、幸福に満ちた微笑みが浮かんでいた。
七年間の呪縛から解き放たれた、純粋な男の顔だった。
「ありがとう、エララ」
外ではまだ雨が降り続いていたが、その音はもう、私たちを脅かすものではなくなっていた。
ディオは再び背もたれに体を預け、私をその腕の中に引き寄せた。
「あの事件の後……俺はパリにはいられなかった。カミーユに、これ以上生活をかき乱されたくなかったんだ」
彼は遠くを見つめるような目で、天井の淡い光を追った。
「街の至る所に、失敗した結婚の記憶がこびりついていた。だから、ライラを連れて逃げるようにここへ来たんだ。両親の故郷である、このインドネシアへ。カミーユからも、ティエリからも遠い場所へ」
彼の指が、私の髪の先で遊んでいる。
「無一文に近い状態だった。この場所も……最初はひどいものだったんだよ」
ディオは顎で、階下のカフェを指し示した。
「屋根は漏り、壁はカビだらけ。安く借りられたのは、誰も見向きもしない廃墟だったからだ。俺は自分で壁を塗り、配線を直し、一つずつ形にしていった。このカフェ・アークスは、ただの商売道具じゃないんだ、エララ」
彼は私を真っ直ぐに見つめた。
「ここは、俺とライラが安全に過ごすために、自分の手で築き上げた『砦』なんだよ」
その言葉を聞いて、彼への愛おしさがさらに深く、濃くなっていくのを感じた。
彼は、黄金の椅子に座る王子様などではない。
瓦礫の中から、自らの汗と血で城を築き上げた、孤独な王なのだ。
「そして、その砦には今、女王様がいるのね」
私が茶化すように言うと、ディオはふっと笑い、抱擁を強めた。
「ああ。ようやく、な」
一時間後。
雨はいつの間にか止み、湿った土の香りがわずかな風に乗って入り込んできた。
感情の嵐に翻弄された私たちは、今夜のライラの家庭学習を中止することにした。
だが、カミーユへの恐怖で怯えていたライラの顔を思い出すと、どうしてもこのまま帰る気にはなれなかった。
私が去った後、もし彼女が泣きながら私を探したら……そう思うと、足が動かない。
私はバッグからスマートフォンを取り出し、唯一頼れる「物流のスペシャリスト」にメッセージを送った。
『キア、今夜は帰らない。ディオのところに泊まるわ。着替えを届けてくれない? 至急。ライラが私を必要としているの』
数秒後、通知音が銃声のように連打された。
サスキア:『はぁ!? お泊まり!?』
サスキア:『変なことしちゃダメよ!』
サスキア:『エララ、答えなさい! 何があったの!?』
サスキア:『まさか、もうそこまで……!?』
私は深くため息をつき、画面を閉じた。
今の私の精神状態では、彼女の脳内で繰り広げられているであろうメロドラマに付き合う余裕はない。
「エララ?」
階段の方から、ディオが呼ぶ声がした。
「ライラが起きた。お腹が空いたって」
「今行くわ」
私たちは一階へと降りた。
カフェの入り口には『CLOSED』の札が掲げられ、メインの照明は落とされている。
カウンターの周りだけが、琥珀色のライトで照らされていた。
だが、店内は無人ではなかった。
隅のテーブルでチェスに興じたり、電子タバコを燻らせていた常連客たちが、まだ数人残っていたのだ。
空気感がいつもと違う。
彼らはディオに対し、心配そうでありながらも、深い敬意を込めた視線を送っていた。
先ほどのカミーユとの騒動は、彼らの耳にも届いていたのだろう。
「ブラザー」
革ジャンを羽織った男――確か、ティオさんという常連客だ。
彼は灰皿でタバコを押し消すと、静かに声をかけた。
「大丈夫か? さっき、変な外国人の女が暴れてたって聞いたけどよ……」
「問題ない、ティオさん」
ディオは落ち着いた足取りでカウンターの中に入り、ライラのための即席の粥を準備し始めた。
「もし、掃除屋が必要なら……俺たちがいつでも動くぜ、ボス。遠慮なく言ってくれ」
別の客が真剣な面持ちでテーブルを叩いた。
「自分の庭で、ボスがコケにされるのは見てられねえからな」
ディオは低く笑った。
その笑いには、疲労と、それ以上の感謝が滲んでいた。
「必要ないさ。もう片付いた。気持ちだけ受け取っておくよ。終わったら早く帰れ、俺はもう眠いんだ」
「気にするな。コーヒーを飲み干したら消えるさ」
私は円卓の一つに座り、半分寝ぼけたライラを膝に乗せた。
彼女はまだ、ぬいぐるみのボボを固く抱きしめている。
私は温かい粥を、彼女の小さな口へと運んだ。
ライラは静かに食べていたが、時折、不安そうに正面玄関へと視線を走らせていた。
あの「怖い女の人」が戻ってこないか、確認しているのだ。
私は彼女の背中を優しくさすった。
「大丈夫よ、ライラ。パパがいるわ。あのおじさんたちもね」
ディオと客たちのやり取りを眺めながら、私は思った。
ここで、彼は単なる店主ではない。
彼はこの小さなコミュニティの一部であり、守るべき象徴なのだ。
この砦には、想像以上に多くの守護者がいた。
しかし、その静かな連帯感は、唐突に破られた。
ガラ、ガラ、ガラッ!
入り口のドアが乱暴に開かれ、真鍮のベルが悲鳴のような音を立てる。
夜の冷気が、一気に店内に流れ込んできた。
そこに立っていたのは、まるで異星から墜落してきたかのような奇妙な姿の人物だった。
頭にはフルフェイスのヘルメットが斜めに被せられ、体には透明なビニールカッパが纏わりついている。
カッパからは、床に水滴がぽたぽたと滴り落ちていた。
その右手には、はち切れんばかりに膨らんだ黒いビニール袋が握られている。
サスキアだ。
彼女はドラマチックな動作でヘルメットを脱ぎ捨てた。
湿気で乱れた髪が、四方八方に飛び出している。
肩で息をしており、口からは白い蒸気が漏れていた。
彼女の鋭い眼差しが店内を一掃した。
呆然とするティオさんを通り過ぎ、テーブルを拭いていたディマスを無視し、私とディオの姿を捉えた。
彼女は大きな歩幅で歩き出し、カッパが擦れるシャカ、シャカという音を店内に響かせた。
彼女が通った後には、点々と水たまりができている。
ドンッ!
彼女は、私の着替えが入ったビニール袋をテーブルに叩きつけた。
サスキアは腰に手を当て、仁王立ちになった。
そして、濡れた人差し指でディオの鼻先を指し、次に私の顔を指した。
「よし」
サスキアは、まだ荒い息を吐きながら宣言した。
「何があったのか、一から十まで説明しなさい。今すぐに! なんでこんな嵐の夜に、急にお泊まり会なんてことになってるのよ!?」
私とディオは顔を見合わせ、思わず吹き出した。
過去の亡霊という嵐が過ぎ去った後にやってきたのは、ビニール袋を抱えた、もう一人の嵐だった。
第 54 章をお読みいただき、ありがとうございます。
ようやく訪れた平穏と、新たな仲間たちの姿に、ほっとされた方もいるかもしれません。
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