表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/86

第53章 雨夜の残響

挿絵(By みてみん)


窓の外で鳴り響いていた雷鳴が、ようやく遠ざかっていく。


残されたのは、単調なリズムでガラスを叩く雨音だけだった。


しとしと。


しとしと。


ウサギの模様が描かれた厚手の毛布の下で、小さな身体が時折びくりと震える。


泣き疲れた名残だろうか。


ライラは瞳を固く閉じているが、その呼吸はまだ浅い。


私は彼女の柔らかな髪を、何度も何度も撫で続けた。


冷や汗で少し湿った髪からは、イチゴのシャンプーの香りが微かに漂う。


そこに、先ほど浴びた雨の匂いが混じり合っていた。


「行かないで、先生……」


ライラがうなされるように呟く。


その掠れた声は、まるで行き場を失った子猫の叫びのようで、私の胸を締め付けた。


小さな手は、私のシャツの裾を白くなるほど強く握りしめている。


安物のコットン生地が、彼女にとっては唯一の命綱であるかのように。


私は身をかがめ、彼女の温かい額にそっと唇を寄せた。


「ここにいるわ、ライラ。どこにも行かない。約束よ」


潤んだ瞳で、私はその幼い寝顔を見つめる。


階下にいたあの金髪の女性——カミーユに、驚くほどよく似た顔立ち。


どうして、ライラは実の母親をあんなにも恐れているのか。


七年前、あの優雅な女性は、なぜこの愛らしい子を捨て去ったのか。


そして、ディオのあの眼差し。


あれは単なる怒りではない。


長い年月をかけて膿んでしまった、深い、深い傷跡だ。


時間は緩やかに流れていく。


やがてライラの呼吸が深くなり、規則正しいリズムを刻み始めた。


シャツを掴んでいた指の力が、ゆっくりと解けていく。


私は細心の注意を払って彼女の手を離し、毛布を胸元まで掛け直した。


ギィッ……


背後で、古い蝶番が小さく悲鳴を上げる。


振り返ると、そこにはディオが立っていた。


黒いエプロンはすでに脱ぎ捨てていた。


白いTシャツの肩口はひどく皺寄り、その表情は……。


まるで、一晩で十歳も老け込んでしまったかのように見えた。


いつもは逞しいその肩が、今は目に見えない重圧に耐えかねて落ちている。


彼は厚いカーペットの上を音もなく歩き、私の隣に立った。


愛娘を見つめるその瞳には、言いようのない哀しみが宿っている。


「……眠ったか?」


掠れた、低い声。


絞り出すようなその響きに、胸が痛む。


「ええ、数分前にようやく」


私たちは沈黙に包まれた。


部屋の中に響くのは、エアコンの低い駆動音だけだ。


私は彼の隣に立ち、溢れ出しそうな問いを飲み込んだ。


あの女性は何者なのか。なぜ今になって現れたのか。


けれど、言葉は喉の奥で凍りついてしまう。


私の好奇心が、彼をさらに追い詰めてしまうのではないか。


プライバシーに踏み込みすぎだと、拒絶されるのではないか。


そんな恐怖が、私の足を竦ませていた。


私が葛藤に身を焦らしていた、その時だった。


背中に、唐突な、重い温もりを感じた。


ディオが、後ろから私を抱きしめたのだ。


その動きに迷いはなかったが、そこには底知れぬ絶望が混じっていた。


逞しい両腕が私の腹部を囲い、背中を彼の広い胸板に密着させる。


彼は私の首筋に顔を埋め、顎を重たげに肩へと預けた。


ドクンッ


心臓が跳ね上がる。


けれど、それは恐怖によるものではなかった。


「……すまない」


耳元で、彼の熱い吐息が震えている。


「君を、私の汚れた過去に巻き込んでしまった。あんな醜態を見せるつもりはなかったんだ」


声の震えが、私の身体を通して伝わってくる。


いつも私の砦となってくれたこの男が、今、目の前で崩れ落ちようとしていた。


私は強張っていた身体の力を抜き、そっと手を伸ばした。


肩に預けられた彼の頬に触れる。


無精髭が少しだけチクりとする、逞しい顎のラインを指先でなぞった。


「……謝らないで」


私は首を少し傾け、彼の髪に自分の頬を寄せた。


ミントの香りと、雨の湿り気が混ざり合った彼の匂い。


「誰にだって過去はあるわ、ディオ。私だってそうだった」


「あなたが、どん底にいた私を支えてくれたように」


私は深く息を吸い込み、決意を固めた。


「今度は、私の番。だから……一人で抱え込まないで。話してくれないかしら」


腕の中のディオが、一瞬だけ動きを止めた。


やがて、肩の上で小さく頷く気配がした。


彼は名残惜しそうに、けれどゆっくりと腕を解いた。


私を自分の方へと向き直らせると、疲れ切った、けれど感謝の滲む瞳で私を見つめた。


「行こう」


彼は私の手を引き、もう一度だけライラの毛布を整えると、部屋を後にした。


リビングのソファに、私たちは並んで腰を下ろした。


メインの照明は消され、隅にあるスタンドライトだけが淡い光を投げかけている。


その陰影が、部屋の中に親密で、どこか物悲しい空気を作り出していた。


ディオは深く背もたれに身を預け、天井を仰いだ。


彼の大きな手は、今も私の手を離さずに握りしめている。


「……出会ったのは、大学だった」


彼は遠い記憶を手繰り寄せるように語り始めた。


「ありふれた話だ。若すぎた二人が恋に落ち、夢を抱いて、パリで新婚生活を始めた」


私は黙って耳を傾けた。


ディオが語る若き日の物語は、甘く、けれど苦闘に満ちていた。


「当時の仕事は、出張が多くてね。アメリカとフランスを頻繁に行き来していたんだ」


「カミーユはアパートで一人になることが多かった。寂しいと漏らしていたが……愛があれば乗り越えられると、私は彼女を信じ切っていた」


ディオは視線を落とし、私の指を弄ぶように動かした。


「やがて、彼女が妊娠した。人生で最も幸せな瞬間だったよ、エララ。ライラが生まれた時、あの赤い小さな命を初めて抱き上げた時……自分は世界で一番の幸せ者だと思った」


私は小さく微笑んだ。


若き日のディオが、誇らしげに赤ん坊を抱く姿が目に浮かぶ。


「だが、幸せは長くは続かなかった」


ディオの声から、温度が消えた。


その顎のラインが、硬く強張る。


「出産から三ヶ月が経った頃、カミーユが変わった。夜に出歩くことが増えたんだ。育児のストレスだと思い、私はできる限り彼女を自由にさせてやりたかった。ライラをベビーシッターに預け、私は慣れない育児と仕事の両立に奔走したよ」


「そんな……」


「ある夜のことだ。予定より早くアメリカから帰国した私は、彼女を驚かせようと連絡をせずアパートへ向かった」


ディオは真っ直ぐに私を見つめた。


その瞳の奥には、今も鮮明に焼き付いている地獄が映っていた。


「アパートの窓から見えたんだ。一台の高級セダンが建物の前に止まり、カミーユが降りてくるのが」


彼は一度、言葉を切って苦い唾を飲み込んだ。


「彼女は一人ではなかった。送り届けた男と、私の目の前で……キスをしていた。その男は、彼女の勤務先のファッションブランドのCEO、ティエリ・デラクロワだった」


私は息を呑んだ。


「自分のボスと……不倫を?」


ディオは機械的に頷いた。


「ああ。当時の私には到底用意できなかった、圧倒的な富と権力を持つ男だ」


部屋の空気が薄くなったかのように、ディオは深く息を吐き出した。


「部屋に戻った彼女と、激しい言い争いになった。私は怒り、絶望し、どちらかを選ぶよう迫った」


彼は自嘲気味に笑った。


その乾いた笑い声が、私の胸を切り裂く。


「だが、彼女は選ぶ必要などないと言い放った。自分はずっと前からティエリを選んでいたのだと」


ディオは身を乗り出し、私の手を痛いほど強く握りしめた。


けれど、私はその痛みから逃げなかった。


「その夜、彼女は私の世界を根底から破壊する事実を突きつけたんだ」


彼の声が、激しく震え始める。


「ライラは、私の子供ではないと」


心臓の鼓動が、止まったような気がした。


「え……?」


「ティエリとの間にできた子供だと言った。私が不在の間、ずっと続いていた裏切りの果てに生まれた子だと」


私は絶句し、思わず口元を押さえた。


あまりにも残酷な、真実。


「ディオ……そんな……嘘よ……」


ディオはソファに深く沈み込み、力なく笑った。


「その後、DNA鑑定ですべてが裏付けられた。命よりも大切に思っていた娘には、私の血など一滴も流れていなかったんだ」


彼は、ライラが眠る部屋のドアを、慈しみに満ちた瞳で見つめた。


「だが、カミーユがその男のために家を捨てた時……キャリアの邪魔になると、その赤ん坊をゴミのように捨てていった時、私は誓ったんだ。血の繋がりなど、どうでもいいと」


彼は私に向き直った。


その瞳には、鋭い決意と、堪えきれない涙が滲んでいた。


「ライラは私の娘だ。おむつを替え、歩き方を教え、熱を出せば夜通し抱きしめてきた。彼女は私の娘なんだ、エララ。たとえ実の母親であろうと、誰一人として彼女を傷つけることは許さない」



第 53 章をお読みいただき、ありがとうございます。

ディオの過去と決意が明かされ、胸が熱くなる展開だったかと思います。

皆さんの感想や応援コメントをいただけると、執筆の大きな励みになります。

ブックマークしていただくと、次の章を見逃しません。

最後までどうぞよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ