第52章 破片と仮面
カラン、コロン……。
ドアが開閉するたびに鳴るはずの軽やかなベルの音が、今はまるで弔いの鐘のように重く、鈍く、私の鼓膜にへばりついて離れない。
カミーユが出て行った後のカフェには、暴力的なまでの静寂が支配していた。
つい数分前までここを満たしていたエララの笑い声、ディマスの明るい冗談、そして温かなコーヒーの香りは、一瞬にして真空パックされたかのように消え失せている。代わりに残ったのは、肌を刺すような冷気と、外の嵐が窓を叩く音だけだ。
ザー、ザー。
ざあざあ。
雨音が、私の理性を削り取っていく。
私は直立不動のまま、閉ざされたドアを凝視していた。呼吸が荒い。肺が酸素を求めて悲鳴を上げているのに、吸い込む空気が熱すぎて喉が焼けるようだ。胸の奥でどす黒いマグマが渦巻き、今すぐにでも手近な椅子を壁に叩きつけたいという破壊衝動が全身を駆け巡っている。
まばたきすら惜しい。あの女が本当に嵐の向こうへ消え去ったのか、二度と戻ってこないのか、この網膜に焼き付けるまでは動けなかった。
ジャリッ。
足元で微かな音がした。
視線をゆっくりと下ろす。そこには、ディマスが小さく背中を丸めてしゃがみ込んでいた。彼の手には箒と塵取りが握られている。
顔色は青ざめ、私と目を合わせようとはしない。彼は震える手で、私が先ほど握りつぶし、床に散乱させたグラスの破片を慎重に集めていた。
ジャリ、ジャリ。
陶器のタイルとガラスが擦れ合う音が、脳髄を直接爪で引っ掻かれるような不快な響きを立てる。照明を反射してキラキラと輝くその鋭利な破片は、まるでカミーユのハイヒールに踏みにじられた私の過去そのものに見えた。
私は重たい靴底を引きずるようにして、ゆっくりと体を反転させた。
ドアに背を向け、カフェの奥を見る。そこには、今の私にとって世界のすべてとも言える二人の女性がいた。
エララは、ライラの小さな頭を胸に抱きしめていた。
彼女の手はライラの背中を一定のリズムで優しく撫でているが、その指先自体が微かに震えているのを私は見逃さなかった。彼女は顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめ返してくる。
その瞳には、恐怖があった。
無理もない。温厚なカフェの店主という仮面の下に隠していた、私のどす黒い過去と殺気が露呈したのだから。だが、その恐怖の奥底には、ダイヤモンドのように硬質な強さが宿っていた。
彼女は逃げない。質問もしない。ただひたすらに、ライラを守ろうとしている。
私は一歩踏み出そうとしたが、二人の一メートル手前で足を止めた。
触れられない。
今の私の手は、あまりにも強く握りしめられすぎていて、指の関節が白く浮き出ている。アドレナリンで筋肉が強張り、不用意に触れれば彼女たちを傷つけてしまいそうな気がした。
「エララ」
喉から絞り出した声は、まるで錆びついた歯車が無理やり回ったような、酷くしわがれた音だった。
「ライラを二階へ……連れて行ってくれ。そして、そばにいてやってほしい」
エララは短く頷いた。余計な言葉は一切ない。彼女の聡明さは、今が議論すべき時ではないことを瞬時に悟っていた。
「さあ、ライラ……お部屋に行こうね。上でボボと一緒に遊ぼう。ここはちょっと寒いから」
エララは努めて明るい声を作ったが、その声の端々は震えでひび割れていた。
彼女はぐったりとしたライラを抱きかかえるようにして立ち上がった。少女の足はショックで力が入らず、ふらついている。私は反射的に手を伸ばして助けようとしたが、空中でその手を止めた。
今、ライラが必要としているのは、殺気を放つ父親ではない。温かな避難所としてのエララだ。
階段へと続く通用口に向かう前、エララは一度だけ振り返った。その視線が、私の顔を心配そうに走査する。私が必死に貼り付けようとしている「大丈夫だ」という仮面が、すでに修復不可能なほどひび割れていることに気づいている目だった。
「ディオ……あなたは……」
「俺は平気だ」
言葉を被せるようにして遮った。
頬の筋肉を無理やり引きつらせ、笑顔のような形を作る。おそらく、それは笑顔というよりは、苦痛に歪んだ能面のように見えたことだろう。
「ここの片付けをしたら、すぐに行く」
エララは一瞬ためらったが、やがて意を決したように頷き、ライラを連れてドアの向こうへと消えていった。
カタンッ。
ドアが閉まる音が、決定的な断絶として響く。
鉄製の階段を上っていく足音が遠ざかり、やがて完全な静寂が訪れた瞬間、私の肩から力が抜け落ちた。
仮面が、崩れ落ちる。
私は糸が切れた操り人形のように、ふらふらとカフェの最も暗い隅へと歩を進めた。窓から離れ、まだ残っている数人の客の視線からも隠れるようにして、隅の木の椅子に体を投げ出す。
客たちはラップトップに向かって必死に作業をするふりをしているが、その背中が緊張で強張っているのがわかる。オーナーが発狂するのを恐れているのだ。
関節が溶けたように力が入らない。恐怖ではない。急激に沸騰したアドレナリンが引き潮のように去り、その反動で鉛のような鉛のような倦怠感が全身を駆け巡り始めたのだ。
こめかみを親指で強く押し、長く重い息を吐き出す。
瞼の裏に焼き付いているのは、カミーユの顔だ。七年前、私が命を懸けて愛したその美しい顔が、今は醜悪な怪物のそれに見える。
なぜ、今なんだ?
壊れたレコードのように、同じ問いが頭の中でループする。
七年だぞ。七年間、彼女は一度たりともライラの安否を気にかけることはなかった。ライラが生きているのか、飢えているのか、病気になっていないか、そんなことには一切興味を示さなかった。パリのあの薄汚れたアパートに、ゴミ袋のように私たちを捨てていったくせに。
あの日、ルイ・ヴィトンのスーツケースに自分の服だけを詰め込んでいた彼女の背中を、私は鮮明に覚えている。
『こんな生活、もう無理よ、ディオ。愛だけじゃ食べていけないの。愛じゃ私をモルディブに連れて行ってはくれないのよ』
私を汚物でも見るような目で見下し、彼女はそう言い放った。
彼女は、私が貧乏だと思っていた。
奨学金とアルバイトで食いつなぐ、しがない留学生。それが彼女の認識する「ディオ」だった。彼女は知らなかったのだ。私が背負っている「アトマンタ」という名が、アジア最大級のコングロマリットへの鍵であることを。
私はあえて隠していた。私の金ではなく、私という人間そのものを愛してほしかったからだ。
そして、その賭けに私は惨敗した。カミーユは試験に落ちたのだ。彼女はティエリ・デラクロワという、オーヴァン・グローバルの御曹司を選び、生後数ヶ月の赤ん坊を捨てて去っていった。
それなのに、今さら何だ? 高級なコートを纏い、革のブーツを鳴らして「親権」だと?
「ふざけるな……」
闇に向かって、呪詛のように呟く。
カミーユは利己主義の塊だ。そんな女に、突然母性本能が目覚めるはずがない。彼女が単独で動いているとは到底思えなかった。必ず裏がある。彼女を動かしている「何か」があるはずだ。
私の脳内で、冷徹な論理回路が再起動を始める。感情の嵐を押し込め、事実の断片を繋ぎ合わせていく。
もしカミーユが、私がアークシロン・ヘリテージ・キャピタルの会長であることを知っているなら、あんな芝居がかった登場はしない。離婚弁護士の大軍団を引き連れて、莫大な慰謝料や養育費を請求しに来るはずだ。彼女の目的が金なら、子供を引き取るという面倒な手段は選ばない。
だが、彼女は言った。『娘を返してほしい』と。
つまり、彼女はまだ知らない。彼女の目には、私はいまだにパリ時代の「冴えない元恋人」であり、今はしがないカフェのマスターに過ぎないのだ。
ならば、動機は何だ?
一つの名前が脳裏に浮かび上がり、神経を焼き尽くすような警報を鳴らした。
ティエリ・デラクロワ。
彼女を奪った男。そして……ライラの、生物学上の父親。
その可能性に思い至った瞬間、血管の中を流れる血液が沸騰するような怒りを感じた。ティエリは、自分に子供がいることを知ったのか? カミーユは、彼との冷え切った関係を修復するための道具として、ライラを利用しようとしているのか?
あるいは、もっと最悪のケース……ティエリが「後継者」を必要としているとしたら?
背筋に氷柱を差し込まれたような悪寒が走る。カミーユが金目当てなら、札束で頬を叩けば解決する。だが、ティエリが自分の血を求めて動いているなら、これは金の問題ではない。
エゴと、権力と、血統の戦争だ。
ティエリには力がある。オーヴァン・グローバルという巨大な後ろ盾がある。彼なら、私がライラの実の父親ではないという事実を暴き出し、法的にねじ伏せることも可能かもしれない。出生届や養子縁組の手続きがどれほど完璧であっても、血の繋がりという事実は覆せないのだから。
全面戦争になる。そして、その戦火の真ん中で最も傷つくのは、ライラだ。
「ボス……これ、飲んでください」
遠慮がちな声に、思考の海から引き戻された。
ディマスが、テーブルの上にダブルエスプレッソのカップを置いていた。薄く立ち上る湯気が、鼻腔をくすぐる。彼の表情には明らかな動揺があったが、それ以上に「余計なことは聞かない」という強い意志が感じられた。
「頭、冷えると思うんで」
彼はそれだけ言うと、一歩下がった。
私は顔を上げ、この忠実な従業員を見つめた。唇の端が、微かに、しかし自然に持ち上がるのを感じた。この嵐の中で、ディマスの素朴な忠誠心が、何よりも得難い救いに思えた。
「ありがとう、ディマス。……すまなかったな、驚かせて」
「いや、いいんすよ。グラスなんてまた買えばいいし。ボスが無事なら、それで」
彼は照れくさそうに鼻をこすり、カウンターという名の砦へと戻っていった。
私は小さなカップを手に取った。砂糖なしの、漆黒の液体。
一口すする。
苦い。熱い。そして、強烈なカフェインが脳髄を殴りつける。
その刺激が、私の意識を完全に覚醒させた。感傷に浸るのは終わりだ。被害者面をして震えている時間など、一秒たりともない。
コトッ。
硬質な音を立てて、カップをテーブルに置く。視線は窓の外、闇の中で暴れ狂う雨に向けられた。
かつて、ライラが自分の子ではないと知った時、そしてカミーユの裏切りを知った時、私は彼女を追わなかった。「自分を選ばない人間を追いかけて何になる?」という諦めと、プライドがあったからだ。
泥沼の争いを避け、ライラを引き取ることで手打ちにした。カミーユ自身、重荷が消えてせいせいした顔をしていたではないか。
だが、今回は違う。
ライラは拒絶した。あの小さな体で震えながら、実の母親ではなく、エララを選んで走ったのだ。
それが、私が戦いの火蓋を切るための、唯一にして絶対の理由だった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。ひんやりとした金属の感触が、手のひらに心地よい。画面を点灯させると、待ち受け画面のライラとエララが笑っている。
この笑顔を消そうとする奴は、誰であろうと許さない。神だろうが、悪魔だろうが、実の親だろうが。
指先が迷いなく動き、お気に入りの連絡先をタップする。
『レオンハート・ヴェイル』
発信ボタンを押す。
プルル、プルル……。
「……ディオか?」
数コールの後、レオンハートの落ち着いた声が響いた。「珍しいな。この時間に君からかけてくるなんて、市場が崩壊した時くらいだぞ」
「レオン」
自分の声の低さに、自分でも驚いた。感情の一切が削ぎ落とされた、氷のように冷たい声。
「明日の午前の会議、すべてキャンセルしてくれ」
「なんだって? 何かトラブルか?」
「カミーユが戻ってきた」
電話の向こうで、息を呑む気配がした。レオンハートは私の過去を知る数少ない人間だ。その名前が私にとって何を意味するか、彼だけは理解している。
「……彼女は、何を求めている?」
レオンハートの声色が、瞬時に友人のそれから、冷徹な参謀のものへと切り替わる。
「ライラだ」
「クソッ……」低く短い罵倒。「彼女は、アークシロンのことを知っているのか?」
「いや、まだ気づいていないようだ。だが、妙に自信に満ちていた。明日の朝一番で弁護士を寄越すと脅してきたよ」
私は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。そこに映っているのは、カフェの店主ではない。獲物を前にした捕食者の目をした男だ。
「レオン、オーヴァン・グローバルの完全なデータが欲しい。財務状況、隠されたスキャンダル、ティエリ・デラクロワの個人的な動向……すべてだ。あの男の弱点を、骨の髄まで洗い出せ」
「ティエリが黒幕だと?」
「カミーユは見返りなしには動かない女だ。フランスで何が起きているのか突き止めろ。破局か? それとも、ティエリが跡取りを欲しがっているのか? どんな些細な噂でもいい、埃を叩き出すんだ」
「了解した。情報部の精鋭を今夜中に動かす」
「それと、もう一つ」
私は言葉に力を込めた。
「ジャカルタで最高の法務チームを用意してくれ。企業の顧問弁護士じゃない。親権争いを専門にする、血も涙もない『サメ』のような連中だ。最も冷酷で、最も高額な弁護士を。金に糸目はつけない」
「手配しよう。明日の朝八時には、君の元へ送り込む」
「頼む」
「ディオ……」レオンハートの声が、わずかに和らいだ。「君は、大丈夫なのか?」
私は空になったエスプレッソのカップを指先で回しながら、一瞬だけ目を閉じた。
「ああ。あの女が俺たちの人生から永遠に消え去れば、すべてうまくいくさ」
通話を切る。
スマートフォンをポケットにしまい、私は立ち上がった。
もう、足の震えは止まっていた。血管を流れているのは恐怖ではない。純粋で、研ぎ澄まされた闘争本能だ。
カミーユは思っているのだろう。ここに来て、私の人生を土足で踏み荒らし、ライラをアクセサリーのように奪っていけると思っているのだろう。私がまだ、彼女に侮蔑されていた貧乏学生のままだと信じているのだろう。
大きな間違いだ。
今回ばかりは、正体を隠すつもりはない。
私の娘の髪の毛一本にでも触れようとするならば、その手を伸ばした瞬間に、彼女が立っている地面ごと焼き尽くしてやる。
私は窓ガラスに映る自分の影を睨みつけ、静かに、しかし確実に、開戦の狼煙を上げた。




