表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/86

第51章 砕け散った静寂と影の再会

挿絵(By みてみん)


雨音だけが、不気味に響いていた。


床に散らばった硝子の破片が、カフェの淡い暖色の灯りを反射して、まるで残酷な星空のように冷たく光っている。


誰も動こうとはしなかった。


ディオは硬直したまま、荒い呼吸を繰り返している。


激しく上下するその胸は、制御を失った機械のように不規則だった。


いつも穏やかで、どこか悪戯っぽさを湛えていた彼の瞳は、今や目の前の女を凝視したまま、恐怖と嫌悪に染まっている。


まるで、過去に葬り去ったはずの悪夢が、実体を持って現れたのを見ているかのようだった。


女――カミーユは、謝罪など口にしなかった。


自分が引き起こした惨状に視線すら向けず、ただ冷徹な威圧感を纏ってそこに立っている。


彼女は黒い革のブーツをゆっくりと踏み出し、一歩、ディオへと近づいた。


パキリッ。


高価な靴の底が、硝子の破片を容赦なく踏みつぶす音が響く。


その耳障りな音に、私の背筋には冷たいものが走った。


彼女にとって、この破片は掃除すべきゴミですらないのだろう。


「挨拶もなしなの? ディオ。」


彼女の声は、絹のように滑らかで、それでいて猛毒を含んでいた。


完璧に整えられたブロンドの髪が、彼女が首を傾げるたびにしなやかに揺れる。


「それとも、自分の子を産んだ女の顔を、忘れてしまったのかしら。」


私は、自分の存在が限りなく小さくなっていくのを感じた。


雨に濡れて張り付いたスカート、乱れた髪、化粧もしていない顔。


この「完成された美」を体現する女の前で、私はただの路傍の石に過ぎない。


彼女の肌は透き通るような白磁のようで、嵐の中でも崩れない完璧な装いは、この空間の空気を支配していた。


教師として、あるいは抑圧された娘としての本能が、無意識に体を動かした。


私はこの耐え難い沈黙と、目の前の混乱をどうにかしたかった。


「私が、片付けますから……」


掠れた声で呟きながら、私はカウンターの近くに落ちた大きな破片を拾おうと手を伸ばした。


「触るな!」


ディオの怒号が、雷鳴よりも鋭く弾けた。


私の指が硝子に触れる直前、逞しい手が私の二の腕を強く掴んだ。


ディオは強引な力で私を引き寄せ、硝子の破片から、そしてカミーユの手の届かない場所へ遠ざけた。


掴まれた場所が痛む。


けれど、彼の手が激しく震えているのが伝わってきて、胸が締め付けられた。


「何も触るな、エララ」


ディオはカミーユから目を逸らさないまま、低い声で私に命じた。


彼は自分の体を盾にするように、私の前に立ち塞がった。


「そしてお前は……」


ディオの指が、出口を指して震えている。


「出て行け。今すぐだ」


カミーユは小さく笑った。


乾いた、他人を嘲り、見下すような笑い声だった。


「客を追い出すなんて、相変わらず無作法ね。私は今着いたばかりなのに」


彼女がさらに踏み出そうとしたその時、横の扉から軋む音が聞こえた。


ガチャッ。


私の心臓が、一瞬で凍りついた。


二階へと続く階段の扉が開いていた。


そこには、ウサギの絵がついたパジャマを着た小さな影が立っていた。


右腕には古びた熊のぬいぐるみ「ボボ」を抱え、左手で眠そうに目を擦っている。


「パパ?」


困惑したような、幼い声が静寂を切り裂いた。


「何か壊れたの? 先生はどこ?」


ディオの背中が、岩のように硬くなった。


「ライラ、戻れ!」


ディオはパニックを抑えきれない様子で叫んだ。


自分の体で、ライラの視界を遮ろうと必死に動く。


「部屋に戻るんだ、いい子だから! 今すぐに!」


だが、遅すぎた。


カミーユの灰色の瞳が、その小さな姿を捉えていた。


女の顔に浮かんだ笑みが、ゆっくりと深まっていく。


それは再会を喜ぶ母親の顔ではなく、獲物を見つけた捕食者の歪な微笑みだった。


「ライラ……」


カミーユの声が震える。


過剰なほどドラマチックな響きを伴って。


「マ・シェリ……」


ディオが止める間もなかった。


カミーユは鮮やかな動きでディオの脇をすり抜け、階段の前へと躍り出た。


ライラは一番下の段で立ち尽くしていた。


大きな瞳が、見知らぬブロンドの女を見つめて見開かれる。


彼女はその顔を知っていた。


リビングのコンソールテーブルに置かれた、銀色の額縁の中にいた顔。


毎日眺めていても、決して触れることのできなかった、ガラスの向こう側の母親。


その写真が今、命を宿し、呼吸をして、鼻を突くような強い薔薇の香りを漂わせて立っている。


「おいで、いい子ね……」


カミーユは両腕を大きく広げ、膝をついて、完璧な「受け入れ」のポーズを取った。


「ママのところへ。あなたのために帰ってきたのよ」


「ママ」という言葉が、重苦しく宙に浮いた。


この家で七年間、一度も発せられることのなかった言葉。


ライラにとっては、絵本の中や友達の話の中にしか存在しない、抽象的な概念でしかなかったはずの響き。


ライラは一歩、後ずさりした。


小さな足が、後ろの段にぶつかる。


顔色は紙のように白く、幼い唇が激しく震え始めた。


彼女はその女の瞳に、愛情など見ていなかった。


ただの不気味な侵入者、写真から這い出してきた幽霊を見ているようだった。


「……嫌だ」


ライラが蚊の鳴くような声で漏らした。


カミーユの微笑みが、わずかに引き攣った。


「ライラ? ママよ。会いたかったでしょう?」


カミーユは立ち上がり、威圧的な歩調で階段へと詰め寄った。


「来ないで!」


ライラが叫んだ。


それは、純粋な恐怖に突き動かされた悲鳴だった。


ライラは手にしたぬいぐるみを床に投げ捨て、走り出した。


だが、彼女が向かったのはカミーユの腕でも、父親の元でもなかった。


小さな少女は階段から飛び降りるようにして駆け出し、ディオの横を通り抜け、私の体に飛び込んできた。


ドンッ。


小さな腕が、私の腰に必死にしがみついた。


私の腹部に顔を埋め、濡れたスカートの布地を、引きちぎらんばかりの力で握りしめる。


「先生……怖い……」


嗚咽が私の服に吸い込まれていく。


「パパ……怖い人がいる……」


静寂。


外の嵐の音と、ライラの押し殺した泣き声だけが、カフェの空気を震わせている。


カミーユは滑稽なほど腕を広げたまま、その場に釘付けになっていた。


完璧だった彼女の表情が、劇的に崩れていく。


作られた慈愛は消え去り、衝撃、そして冷酷な怒りへと変貌した。


彼女のプライドは、完膚なきまでに叩き潰されたのだ。


実の娘が自分を拒絶し、あろうことか「他人の女」に助けを求めた。


私は本能的に、ライラの頭を抱き寄せた。


彼女の顔を私の体に隠すように押し当て、あの女の毒に満ちた視線から守り抜こうとする。


私の腕の中で、小さな体が小刻みに、激しく震えていた。


ディオの様子が変わった。


先ほどまでの狼狽は消え、娘が恐怖している姿を見たことで、彼の中に冷徹な覚悟が宿ったようだった。


背筋が伸び、顎のラインが険しく引き締まる。


彼はカミーユの前に立ち塞がり、私たちへの道を完全に断った。


「彼女はお前を知らない」


ディオの声は低く、地を這うような殺気を孕んでいた。


「ライラにとって、お前は悪夢から這い出してきた赤の他人に過ぎない。二度と触れようとするな」


カミーユは、ゆっくりと腕を下ろした。


彼女は自分のコートの襟を乱暴に整え、母親という仮面をかなぐり捨てた。


そこには、冷酷で計算高いビジネスウーマンの顔があった。


彼女はディオを射殺さんばかりの視線を向け、それから視線を私へと移した。


その眼差しは鋭い刃のように、私の存在を否定しようとしていた。


「子供に何を吹き込んだの、ディオ?」


カミーユが低く、這うような声で言った。


真っ赤なマニキュアが塗られた人差し指が、真っ直ぐに私の顔を指した。


「それとも、その使用人が余計な真似を?」


私の血の気が引いた。使用人?


「彼女は使用人ではない」


ディオが唸るように返した。


「ライラの教師だ。そして、七年前に子供を捨てたお前よりも、遥かに母親らしい存在だ」


その言葉は、どんな暴力よりも深くカミーユを打ち据えた。


彼女の顔が、怒りで赤黒く染まる。


「口を慎みなさい」


カミーユはカウンターに置いていたバッグを乱暴に掴んだ。


「手ぶらで帰るつもりはないわ。永遠に隠し通せると思ったら大間違いよ」


カミーユは出口へと向かって歩き出した。


その足取りは再び力強く、床に散らばった硝子の破片を躊躇なく踏み砕いていく。


彼女は扉の前で立ち止まり、微笑みのない顔で振り返った。


「今夜を精一杯楽しむことね。明日の朝には、私の弁護士が裁判所の命令書を持って伺うわ」


彼女の目が、最後に私を捉えた。


それは、宣戦布告だった。


「血の繋がりは、あなたのような女には断ち切れない。覚えておきなさい、先生」


彼女は扉を開け、外の嵐の中へと消えていった。


バタンッ。


重い扉が閉まり、ドアベルが虚しく、悲しげな音を響かせた。


カミーユの姿が見えなくなった瞬間、ディオの足から力が抜けたようだった。


彼は崩れ落ちるように、近くのバースツールに腰掛けた。


両手で顔を覆い、深く、重い吐息を漏らす。


「くそ……。なんてことだ……」


私の腕の中で、ライラの泣き声がさらに大きくなった。


「先生……行かないで……怖いよ……」


私はその小さな体を強く抱きしめ、震える背中を何度も擦った。


視線の先には、打ちひしがれたディオの背中がある。


昨日までは、世界が完璧だと思っていた。


ようやく、安らげる場所を見つけたのだと信じていた。


けれど、砕け散った硝子のただ中で、泣き叫ぶ子供と、心を折られた男と立ち尽くしながら、私は悟った。


外の嵐は終わっていない。


そして今、この家へと踏み込んできた新たな嵐は――私たちが繋いだ手を、無残に引き裂こうとしているのだ。


第 51 章をお読みいただき、ありがとうございます。

緊迫した展開に、心臓が痛くなった方もいるかもしれません。

コメントで皆さんの感想や励ましをいただけると、執筆の大きな力になります。

ブックマークしていただくと、次の章を見逃しません。

最後までどうぞよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ