第51章 砕け散った静寂と影の再会
雨音だけが、不気味に響いていた。
床に散らばった硝子の破片が、カフェの淡い暖色の灯りを反射して、まるで残酷な星空のように冷たく光っている。
誰も動こうとはしなかった。
ディオは硬直したまま、荒い呼吸を繰り返している。
激しく上下するその胸は、制御を失った機械のように不規則だった。
いつも穏やかで、どこか悪戯っぽさを湛えていた彼の瞳は、今や目の前の女を凝視したまま、恐怖と嫌悪に染まっている。
まるで、過去に葬り去ったはずの悪夢が、実体を持って現れたのを見ているかのようだった。
女――カミーユは、謝罪など口にしなかった。
自分が引き起こした惨状に視線すら向けず、ただ冷徹な威圧感を纏ってそこに立っている。
彼女は黒い革のブーツをゆっくりと踏み出し、一歩、ディオへと近づいた。
パキリッ。
高価な靴の底が、硝子の破片を容赦なく踏みつぶす音が響く。
その耳障りな音に、私の背筋には冷たいものが走った。
彼女にとって、この破片は掃除すべきゴミですらないのだろう。
「挨拶もなしなの? ディオ。」
彼女の声は、絹のように滑らかで、それでいて猛毒を含んでいた。
完璧に整えられたブロンドの髪が、彼女が首を傾げるたびにしなやかに揺れる。
「それとも、自分の子を産んだ女の顔を、忘れてしまったのかしら。」
私は、自分の存在が限りなく小さくなっていくのを感じた。
雨に濡れて張り付いたスカート、乱れた髪、化粧もしていない顔。
この「完成された美」を体現する女の前で、私はただの路傍の石に過ぎない。
彼女の肌は透き通るような白磁のようで、嵐の中でも崩れない完璧な装いは、この空間の空気を支配していた。
教師として、あるいは抑圧された娘としての本能が、無意識に体を動かした。
私はこの耐え難い沈黙と、目の前の混乱をどうにかしたかった。
「私が、片付けますから……」
掠れた声で呟きながら、私はカウンターの近くに落ちた大きな破片を拾おうと手を伸ばした。
「触るな!」
ディオの怒号が、雷鳴よりも鋭く弾けた。
私の指が硝子に触れる直前、逞しい手が私の二の腕を強く掴んだ。
ディオは強引な力で私を引き寄せ、硝子の破片から、そしてカミーユの手の届かない場所へ遠ざけた。
掴まれた場所が痛む。
けれど、彼の手が激しく震えているのが伝わってきて、胸が締め付けられた。
「何も触るな、エララ」
ディオはカミーユから目を逸らさないまま、低い声で私に命じた。
彼は自分の体を盾にするように、私の前に立ち塞がった。
「そしてお前は……」
ディオの指が、出口を指して震えている。
「出て行け。今すぐだ」
カミーユは小さく笑った。
乾いた、他人を嘲り、見下すような笑い声だった。
「客を追い出すなんて、相変わらず無作法ね。私は今着いたばかりなのに」
彼女がさらに踏み出そうとしたその時、横の扉から軋む音が聞こえた。
ガチャッ。
私の心臓が、一瞬で凍りついた。
二階へと続く階段の扉が開いていた。
そこには、ウサギの絵がついたパジャマを着た小さな影が立っていた。
右腕には古びた熊のぬいぐるみ「ボボ」を抱え、左手で眠そうに目を擦っている。
「パパ?」
困惑したような、幼い声が静寂を切り裂いた。
「何か壊れたの? 先生はどこ?」
ディオの背中が、岩のように硬くなった。
「ライラ、戻れ!」
ディオはパニックを抑えきれない様子で叫んだ。
自分の体で、ライラの視界を遮ろうと必死に動く。
「部屋に戻るんだ、いい子だから! 今すぐに!」
だが、遅すぎた。
カミーユの灰色の瞳が、その小さな姿を捉えていた。
女の顔に浮かんだ笑みが、ゆっくりと深まっていく。
それは再会を喜ぶ母親の顔ではなく、獲物を見つけた捕食者の歪な微笑みだった。
「ライラ……」
カミーユの声が震える。
過剰なほどドラマチックな響きを伴って。
「マ・シェリ……」
ディオが止める間もなかった。
カミーユは鮮やかな動きでディオの脇をすり抜け、階段の前へと躍り出た。
ライラは一番下の段で立ち尽くしていた。
大きな瞳が、見知らぬブロンドの女を見つめて見開かれる。
彼女はその顔を知っていた。
リビングのコンソールテーブルに置かれた、銀色の額縁の中にいた顔。
毎日眺めていても、決して触れることのできなかった、ガラスの向こう側の母親。
その写真が今、命を宿し、呼吸をして、鼻を突くような強い薔薇の香りを漂わせて立っている。
「おいで、いい子ね……」
カミーユは両腕を大きく広げ、膝をついて、完璧な「受け入れ」のポーズを取った。
「ママのところへ。あなたのために帰ってきたのよ」
「ママ」という言葉が、重苦しく宙に浮いた。
この家で七年間、一度も発せられることのなかった言葉。
ライラにとっては、絵本の中や友達の話の中にしか存在しない、抽象的な概念でしかなかったはずの響き。
ライラは一歩、後ずさりした。
小さな足が、後ろの段にぶつかる。
顔色は紙のように白く、幼い唇が激しく震え始めた。
彼女はその女の瞳に、愛情など見ていなかった。
ただの不気味な侵入者、写真から這い出してきた幽霊を見ているようだった。
「……嫌だ」
ライラが蚊の鳴くような声で漏らした。
カミーユの微笑みが、わずかに引き攣った。
「ライラ? ママよ。会いたかったでしょう?」
カミーユは立ち上がり、威圧的な歩調で階段へと詰め寄った。
「来ないで!」
ライラが叫んだ。
それは、純粋な恐怖に突き動かされた悲鳴だった。
ライラは手にしたぬいぐるみを床に投げ捨て、走り出した。
だが、彼女が向かったのはカミーユの腕でも、父親の元でもなかった。
小さな少女は階段から飛び降りるようにして駆け出し、ディオの横を通り抜け、私の体に飛び込んできた。
ドンッ。
小さな腕が、私の腰に必死にしがみついた。
私の腹部に顔を埋め、濡れたスカートの布地を、引きちぎらんばかりの力で握りしめる。
「先生……怖い……」
嗚咽が私の服に吸い込まれていく。
「パパ……怖い人がいる……」
静寂。
外の嵐の音と、ライラの押し殺した泣き声だけが、カフェの空気を震わせている。
カミーユは滑稽なほど腕を広げたまま、その場に釘付けになっていた。
完璧だった彼女の表情が、劇的に崩れていく。
作られた慈愛は消え去り、衝撃、そして冷酷な怒りへと変貌した。
彼女のプライドは、完膚なきまでに叩き潰されたのだ。
実の娘が自分を拒絶し、あろうことか「他人の女」に助けを求めた。
私は本能的に、ライラの頭を抱き寄せた。
彼女の顔を私の体に隠すように押し当て、あの女の毒に満ちた視線から守り抜こうとする。
私の腕の中で、小さな体が小刻みに、激しく震えていた。
ディオの様子が変わった。
先ほどまでの狼狽は消え、娘が恐怖している姿を見たことで、彼の中に冷徹な覚悟が宿ったようだった。
背筋が伸び、顎のラインが険しく引き締まる。
彼はカミーユの前に立ち塞がり、私たちへの道を完全に断った。
「彼女はお前を知らない」
ディオの声は低く、地を這うような殺気を孕んでいた。
「ライラにとって、お前は悪夢から這い出してきた赤の他人に過ぎない。二度と触れようとするな」
カミーユは、ゆっくりと腕を下ろした。
彼女は自分のコートの襟を乱暴に整え、母親という仮面をかなぐり捨てた。
そこには、冷酷で計算高いビジネスウーマンの顔があった。
彼女はディオを射殺さんばかりの視線を向け、それから視線を私へと移した。
その眼差しは鋭い刃のように、私の存在を否定しようとしていた。
「子供に何を吹き込んだの、ディオ?」
カミーユが低く、這うような声で言った。
真っ赤なマニキュアが塗られた人差し指が、真っ直ぐに私の顔を指した。
「それとも、その使用人が余計な真似を?」
私の血の気が引いた。使用人?
「彼女は使用人ではない」
ディオが唸るように返した。
「ライラの教師だ。そして、七年前に子供を捨てたお前よりも、遥かに母親らしい存在だ」
その言葉は、どんな暴力よりも深くカミーユを打ち据えた。
彼女の顔が、怒りで赤黒く染まる。
「口を慎みなさい」
カミーユはカウンターに置いていたバッグを乱暴に掴んだ。
「手ぶらで帰るつもりはないわ。永遠に隠し通せると思ったら大間違いよ」
カミーユは出口へと向かって歩き出した。
その足取りは再び力強く、床に散らばった硝子の破片を躊躇なく踏み砕いていく。
彼女は扉の前で立ち止まり、微笑みのない顔で振り返った。
「今夜を精一杯楽しむことね。明日の朝には、私の弁護士が裁判所の命令書を持って伺うわ」
彼女の目が、最後に私を捉えた。
それは、宣戦布告だった。
「血の繋がりは、あなたのような女には断ち切れない。覚えておきなさい、先生」
彼女は扉を開け、外の嵐の中へと消えていった。
バタンッ。
重い扉が閉まり、ドアベルが虚しく、悲しげな音を響かせた。
カミーユの姿が見えなくなった瞬間、ディオの足から力が抜けたようだった。
彼は崩れ落ちるように、近くのバースツールに腰掛けた。
両手で顔を覆い、深く、重い吐息を漏らす。
「くそ……。なんてことだ……」
私の腕の中で、ライラの泣き声がさらに大きくなった。
「先生……行かないで……怖いよ……」
私はその小さな体を強く抱きしめ、震える背中を何度も擦った。
視線の先には、打ちひしがれたディオの背中がある。
昨日までは、世界が完璧だと思っていた。
ようやく、安らげる場所を見つけたのだと信じていた。
けれど、砕け散った硝子のただ中で、泣き叫ぶ子供と、心を折られた男と立ち尽くしながら、私は悟った。
外の嵐は終わっていない。
そして今、この家へと踏み込んできた新たな嵐は――私たちが繋いだ手を、無残に引き裂こうとしているのだ。
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