第5章 ママの響き
笑い声が潮が引くように遠のき、代わりに心地よい静寂が辺りを包み込んだ。
私は手元のノートに視線を戻した。
膝の上ではライラがもぞもぞと動くたびに、ストロベリーシャンプーの甘い香りがふわりと鼻先をかすめる。
肩にはディオさんのデニムジャケットがかけられたままだ。
サイズが大きすぎて、私が着ている高価なアイボリーのドレスはすっかり隠れてしまっている。
それでも、その重みが今はひどく頼もしかった。
生地から漂うシトラスとシナモンの香りが、ささくれ立った私の心を静かに解かしていく。
「次はこれ。英語で『鶏』はなんて言うかな?」
タブレットに映るイラストを指差すと、ライラが小さな指で画面を叩いた。
「チキン!」
元気いっぱいの声が店内に響く。
「正解。じゃあ、『牛』は?」
「カウ!」
誇らしげに胸を張る彼女を見て、思わず頬が緩んだ。
子供の純粋な熱量というものに、どうしてこうも簡単にあてられてしまうのだろう。
ついさっきまで耐えていた、レイとの冷え切ったディナーの記憶が嘘のように遠のいていく。
視線の端で、ディオさんがこちらを見ているのがわかった。
彼はテーブルの向こう側に座り、組んだ手の上に顎を乗せている。
その目元には、柔らかなシワが寄っていた。
ふと目が合うと、彼は授業中に居眠りを見つかった生徒のように小さく肩を揺らす。
慌てて空になったコーヒーカップを口に運ぶ姿が、どこかおかしい。
「私の顔に、何か付いていますか?」
少しだけ意地悪な気分になって、小声で尋ねてみた。
「……いえ。別に、何も」
ディオさんは咳払いをして、ぎこちない動作で首筋をさすった。
目をパチクリさせている彼を見て、笑いを堪えるのが大変だった。
私は再び、画面をスクロールするライラに意識を集中させる。
カフェの客足はまばらになり、隅の席で話し込む常連客が数人残るだけだ。
カウンターの奥でエスプレッソマシンが立てる蒸気の音が、妙に大きく聞こえた。
その時、バーの奥にあるドアから一人の女性が現れた。
清潔感のあるエプロンを身にまとい、穏やかな笑みを浮かべた年配の女性――ビ・ヤニが現れた。
「ディオ様、もう九時ですよ。ライラちゃん、寝る時間です」
その言葉に、ディオさんの背筋が伸びた。
一瞬で「父親モード」に切り替わった彼は、腕時計に目を落とす。
「ああ、もうそんな時間か。ありがとう、ヤニさん」
私の膝の上で、ライラがあからさまに体を硬くした。
唇を尖らせ、抱えていたタブレットをぎゅっと胸に抱え込む。
「やだ……まだ先生と一緒にいたいもん」
上目遣いでこちらを見つめるその瞳は、子供特有の強力な武器だ。
ディオさんは席を立ち、テーブルを回って私たちの隣にしゃがみ込んだ。
視線を子供と同じ高さに合わせるその仕草には、慣れた手つきの優しさが滲んでいる。
「明日も学校で会えるだろ? 今は元気をチャージしておかないと、明日眠くなっちゃうぞ」
私も彼女の背中を優しく撫でた。
「お父さんの言う通りよ。明日、教室で待っているからね?」
ライラはうつむき、スカートから少しはみ出したシャツのボタンをいじり始めた。
「ずるい……」
ぽつりと、小さな声が漏れる。
「パパは先生とデートできるのに」
ドクン!
心臓が跳ねた。
一秒、二秒。
静寂が、粘り気のある熱を帯びて部屋に充満していく。
顔が焼けるように熱い。
耳の先まで真っ赤になっているのが、自分でもはっきりとわかった。
私とディオさんは反射的に顔を見合わせ、目を見開いたまま、次の瞬間には弾かれたように反対側を向いた。
「ゴホッ、ゴホゴホッ!」
ディオさんが激しくむせ返る。
自分の唾でむせている姿は、およそクールなカフェオーナーとは程遠いものだった。
「ち、違うぞ、ライラ! 誰がデートなんて言ったんだ?」
彼は手を泳がせながら、必死に弁明を試みている。
私は慌ててライラを膝から降ろし、彼女の前に膝をついた。
ドレスの裾が床に擦れるのも構っていられない。
「先生も、もう帰るところなのよ。デートなんて、そんなわけないでしょう?」
ライラは私たちを交互に見つめた。
その純粋すぎて残酷な瞳が、私たちの嘘を透かしているような気がしてならない。
彼女は深くため息をついた。
まるで、何もわかっていない子供を諭す大人のような仕草で。
「……わかったよ」
少女は一歩前に踏み出し、両腕を広げた。
「バイバイ、先生」
私は安堵して微笑み、彼女に頬を差し出した。
チュッ
湿った感触が頬に残る。
「おやすみなさい、いい夢をね」
「うん。おやすみ、マ……あ、先生!」
ライラが慌てて両手で口を塞いだ。
その大きな瞳が、驚きでさらに丸くなる。
一瞬、時が止まったかのようだった。
「マ」という響きが、空中に取り残されたように漂っている。
短く、かすかな音だったはずなのに、狭い店内に爆弾が投げ込まれたような衝撃だった。
ライラは私たちの固まった表情を見て、くすくすと楽しそうに笑った。
そして、そのままヤニさんの元へ駆け寄っていく。
「ヤニさん、行こう! 逃げろー!」
二人の姿は、プライベートエリアへと続くドアの向こうに消えていった。
残されたのは、妙な格好で固まった男女が二人きり。
沈黙が重い。
「すみません……」
ディオさんが、掠れた声で沈黙を破った。
「ライラは時々、その……想像力が豊かすぎて」
私は立ち上がり、しわになったドレスの裾を震える手で整えた。
「いいえ、気にしないでください。子供の言うことですし、きっと言い間違えただけですよ」
「いや、でも……」
ディオさんは痒くもない後頭部をポリポリとかき、困惑した表情を浮かべている。
「先生、気を悪くしてませんか? その……あんな風に呼ばれて」
「そんなこと! 全然、嫌じゃありません。ライラちゃんがリラックスしてくれているなら、私は……」
言葉が空回りする。
フォローしようとすればするほど、墓穴を掘っている気がしてならない。
「つまり、お姉さんはライラのママになりたいけど、まだ心の準備が必要だってことだよね?」
隅の席から、場違いな明るい声が飛んできた。
レザージャケットを着た常連客が、電子タバコの煙を吐き出しながらニヤリと笑っている。
パニックに陥っていた私は、反射的に叫んでしまった。
「そう! そういうことです!」
シーン……
再び、静寂。
ディオさんが口を半開きにして私を見ている。
自分が何を肯定してしまったのか、一拍遅れて脳が理解した。
「ヒューッ!」
店内のあちこちから、冷やかしの声と拍手が沸き起こった。
カウンターにいた髭面のバリスタが、レジ台を叩いて盛り上げている。
チェスをしていた老人たちまでが、長く口笛を吹いた。
「行け行け、オーナー! 脈ありだぞ!」
「おめでとうございます、ボス! 家族会議決定だな!」
神様、お願いです。今すぐ私を消してください。
顔の色はもう赤を通り越して、紫になっているかもしれない。
私はうつむき、髪で顔を隠すようにして立ち尽くした。
ディオさんも同様に、眉間を押さえながら絶望したように首を振っている。
「……外に出ましょうか」
彼は蚊の鳴くような声で囁いた。
「ここの空気は、少し『熱』を帯びすぎている」
私は顔を上げられないまま、激しく何度も頷いた。
• • •
屋外の空気は、驚くほど冷たくて優しかった。
ジャカルタの夜風が頬をなで、燃えるような熱を少しずつ奪っていく。
目の前のセノパティ通りを行き交う車の走行音が、騒がしい鼓動をかき消してくれた。
私たちは通りに面した長い木製のベンチに腰を下ろした。
ディオさんが、持ってきた二つのアイスティーのグラスを横に置く。
彼のデニムジャケットは、まだ私の肩にある。
私はその襟元をぎゅっと掴み、滑り落ちないように引き寄せた。
「中の連中が騒がしくて、すみませんでした」
ディオさんは、グラスの中でカランと音を立てる氷を見つめながら言った。
「口は悪いですが、根はいい奴らなんです」
私はアイスティーを一口含んだ。
冷たさが喉を通るたびに、ようやく正気に戻っていく感覚がある。
「いえ……賑やかで、楽しかったです」
ディオさんが小さく笑った。
「あいつらは、俺がこの店を開いたばかりの頃からの付き合いなんです。どん底だった頃の俺を知っている、数少ない連中で……」
言葉が途切れた。
私は彼を横から盗み見た。
街灯の光に照らされた彼の横顔は、彫刻のように整っている。
けれど、その瞳には乾ききらない古い傷跡のようなものが宿っていた。
「……ライラちゃんのお母さんに、去られた時ですか?」
慎重に言葉を選んで尋ねてみた。
ディオさんは私に視線を向け、少しだけ苦い笑みを浮かべた。
「まあ、そんなところです。話せば長くなるし、こんな夜に聞くような楽しい話じゃありません」
もっと深く聞いてみたい、という衝動が胸をかすめる。
彼女はどんな人だったのか。
なぜ、こんなに誠実そうな男性と、天使のような子供を置いていけたのか。
けれど、それを口にする勇気はなかった。
私たちはまだ、出会ってから数時間しか経っていないのだ。
「でも、あなたにはライラちゃんがいます」
私は本心を口にした。
「あの子は、本当に素晴らしい子です」
ディオさんは頷き、その表情がふわりと和らいだ。
「ええ。あの子は、俺のすべてです」
再び沈黙が訪れた。
けれど今度は、少しも気まずくはなかった。
都会の喧騒の片隅で、ただ二人の大人が静かに座っている。
それぞれの人生の荒波から、一時的に避難してきたかのような穏やかな時間。
こんな平和が、私にも許されるのだろうか。
そう思った矢先、バッグの中で手元の端末が激しく震え出した。
ブーッ、ブーッ!
心臓が跳ね上がる。
その振動は、魔法のような時間を一瞬で打ち砕いた。
バッグを漁り、画面に表示された名前を確認する。
「母様」
胸が締め付けられる。
現実はいつだって、最悪のタイミングで引き戻しに来る。
私はただの「エララ」ではない。
政略結婚のディナーから逃げ出した、逃げ場のない令嬢なのだ。
「……電話に、出ますね」
ディオさんは黙って頷き、プライバシーを配慮して視線を通りへと向けた。
通話ボタンをスライドさせ、震える手で耳に当てる。
「もしもし、お母様……」
「エララ!」
鼓膜を突き刺すような、母の金切り声が響いた。
思わず端末を耳から遠ざける。
「今どこにいるの!? 私たちはもう家に着いたのよ、あなたまだ帰ってないじゃない! レイさんから聞いたわ、途中で車を降りたんですって!? 正気なの!?」
指先が震える。
隣に座るディオさんの静かな横顔と、カフェの窓ガラスに映る自分の姿を交互に見た。
アイボリーのドレス、不釣り合いなデニムジャケット、そして怯えきった顔。
おとぎ話は終わりだ。
地獄へ帰る時間がやってきた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
外国語での執筆ということもあり、表現や言葉選びに不自然な点があるかもしれません。
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