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第46章 琥珀色の残熱

挿絵(By みてみん)


 シューッ!


 エスプレッソマシンのノズルから熱い蒸気が噴き出し、一瞬で消える白い霧がキッチンの熱気に溶けていく。陶器のカップとスプーンが触れ合うカチャ、カチャ、と響く音が、カフェ・アークスの白いタイル壁に反響して、賑やかな喧騒に包まれていた。


 午後四時半。セノパティ通りは狂乱のピークを迎えている。外では車のクラクションが鳴り止まないが、この中にあるのはただ一つの香りだけ。完璧に焙煎されたコーヒー豆の香りと、オーブンから漂うバターの甘い匂い。


 私は、ビ・ヤニさんがすすいでくれたばかりの磁器の皿を、手際よく布巾で拭いていた。手に持った布は湿っていたけれど、そんなことは気にならない。キッチンの蛍光灯の下で、皿の山がピカピカと輝きを取り戻していくのを見るのは、妙な達成感があった。


「エラ先生、もういいですよ。あとは私がやりますから。上でお休みになってください。ライラお嬢様も、もうすぐお風呂から上がりますよ」


 ビ・ヤニさんが穏やかな声で言った。彼女の手慣れた手つきで、手際よくパティスリーの注文をトレイに並べている。


 私は手の甲でこめかみの汗を拭い、首を横に振った。


「いいえ、大丈夫です、ビ・ヤニさん。なんだか手を動かしたくて。学校で一日中チョークとマジックを握っているだけだと、体がなまっちゃう気がして」


 ビ・ヤニさんはクスクスと笑った。母親のような、安心させる笑い声。


「ディオ様は果報者ですね。教えるのが上手なだけでなく、水仕事も厭わない先生を見つけるなんて」


 顔が急激に熱くなった。スチームマシンの蒸気よりもずっと熱い。私は視線を落とし、皿の縁にある見えもしない汚れを必死に拭き取るふりをした。


「ビ・ヤニさんったら……。私なんて、ほんの少しお手伝いをしているだけですから」


 その時、バーカウンターの方から重く、落ち着いた足音が近づいてきた。振り返らなくても誰だか分かった。彼が近づいてくるたびに、空気の振動が変わるような気がする。


「ディマスが、八番テーブルの注文がまだだと言っているが?」


 そのバリトンの響き。低く、落ち着いていて、いつも私の心臓のリズムを狂わせる。ディオがキッチンの入り口に立っていた。黒いポロシャツの袖を少し捲り上げ、その腕には微かにコーヒーの粉がついている。それだけのことが、どの高級時計の広告モデルよりも彼を魅力的に見せていた。


「今お持ちするところです、ディオ様」


 ビ・ヤニさんがトレイを持ち上げて答えた。


「私が運ぼう、ビ・ヤニさん。ビ・ヤニさんは裏の倉庫のミルクの在庫を確認してきてくれ。ディマスが、漏れているものがあると言っていた」


 ビ・ヤニさんは素直に頷き、足早に去っていった。突然、狭い空間に私たち二人だけが取り残される。息が詰まるような心地がした。


 ディオはすぐにトレイを手に取らなかった。彼はゆっくりと、私の方へ歩み寄ってきた。配膳台へではなく、私へと。


 一歩。また一歩。


 私は腰が後ろの鉄製ラックに当たるまで後退した。皿同士が触れ合ってチリンと鳴り、私の緊張を物語っていた。ディオは、私たちの距離が三十センチも残らなくなるまで近づいた。ラックとシンクの間に、私は追い詰められる。


「何をしているんだ?」


 彼は低い声で尋ねた。その暗い瞳がまっすぐに私を射抜き、視線を逸らすことを許さない。


「ビ・ヤニさんの……お手伝いを」


 私はしどろもどろになりながら答えた。湿った布巾を、まるで役に立たない盾のように胸元で握りしめる。


 ディオは私の濡れた手を見つめ、それから私の顔に視線を戻した。彼は右手を上げると、親指で私の頬を優しく撫でた。いつの間にか付着していた石鹸の泡を、慈しむように拭い去る。その指先は温かく、水で冷え切った私の肌とは対照的だった。


「君はプライベート・チューターだ、エララ。皿洗いじゃない」


 彼は囁いた。その声には、保護欲と、わずかな悪戯心が混ざり合っている。


「ここ、好きなんです。いい匂いがするから」


 私は蚊の鳴くような声で弁明した。


 ディオは薄く微笑んだ。客席で見せる営業用のそれではなく、私だけに向けられる特別な笑み。彼はさらに顔を近づけた。彼の体から漂うシトラスの香りと、染み付いたコーヒーの匂いが私を包み込む。彼の体温が肌に伝わってきた。


「ビ・ヤニさんを手伝ったのなら、報酬を払わないとな」


「報酬? お昼に美味しいご飯をいただいたばかりですけど……」


 言葉は途切れた。ディオがゆっくりと顔を下げたから。


 私は反射的に目を閉じた。この忙しいキッチンの真ん中で、唇を重ねられるのだと思った。


 けれど、違った。


 彼の唇が、私の額に柔らかく触れた。


 長く、温かい。安心させるような、穏やかな圧力。


 世界が止まったような気がした。コーヒーマシンの音も、表のディマスの叫び声も、セノパティの騒音も、すべてが消え去った。残ったのは、胸を突き上げるような激しい鼓動と、額から全身に広がる熱い感覚だけ。それは単なるキスではなく、紳士的でありながらも強固な「独占の意思」だった。


「残業代だ」


 彼が少し顔を離し、目の前で囁いた。


 私が何か言い返そうと口を開きかけた、その時。キッチンの脇にあるドアが乱暴に叩きつけられた。


 バタンッ!


「エララーー! ボスー! 私のお迎えはどうなったのーー!?」


 その甲高い声。遠慮なんて言葉を知らない、あまりにも聞き慣れた響き。


 私とディオは同時に飛び退いた。ディオは慌ててトレイを掴むふりをし、私は手に持っていた皿を落としそうになった。


 サスキアが、まるでヒーローのように入り口に立っていた。デニムのシャツに、頭の上に乗せたサングラス。その顔には「探偵」特有の輝きが満ちている。


 彼女の足が止まった。


 サスキアは目を見開いた。あまりにも近くに立っていたディオと、ゆでダコのように赤くなった私を交互に見つめる。ディオの頭がまだわずかに私の方へ傾いているのは、どんな法律でも消し去ることのできない決定的な証拠だった。


 三秒間の沈黙。


「わあ……」


 サスキアはサングラスを鼻先まで下げた。


「わあ、わあ、わあ」


「サスキア! あなた……いつからそこにいたの?」


 私はパニックになりながら、乱れてもいない髪を整えようとした。


 サスキアは答えなかった。代わりに、私が今まで見た中で最も狡猾な笑みをディオに向けた。


「なるほどね……。これが、エララが私のお迎えを断った理由? キッチンでボーナス付きの『送迎サービス』を受けていたからってわけ?」


 サスキアは胸の前で腕を組み、首を左右に傾けた。


 ディオは大きく咳払いをした。彼はいつになくぎこちない動きで、八番テーブルのトレイを持ち上げた。


「サスキア先生。今着いたのか?」


「今着いた瞬間に、パパのキャラメルマキアートよりも甘い光景を見せてもらったわよ」


 サスキアは容赦なく追い詰める。彼女は中へ踏み込むと、クンクンと空気を嗅いだ。


「匂うわね……。お付き合いを始めたばかりの、甘い恋の香りがするわ。」


「サスキア、やめて!」


 私は布巾で彼女の口を塞ぎたい衝動に駆られた。


「やめられないわよ、ハニー! これは一大事だわ!」


 サスキアは人差し指をディオに向けた。


「ディオさん。友情の世界には『カップル税』っていう法律があるのを知ってる?」


 ディオは片眉を上げ、ようやく状況を支配し始めた。彼の唇に不敵な笑みが戻る。


「カップル税?」


「そう! あなたは私の親友を盗み、彼女を学校で上の空にさせ、今まさにキッチンで彼女を追い詰めていた! 補償を要求するわ!」


 サスキアは腰に手を当てた。


「どんな補償だ?」


 ディオが挑戦的に尋ねる。


「コーヒー一生無料! それから、私がここに来るたびに、一番高いパティスリーを注文しなくてもテーブルに並べること!」


 サスキアは自分自身に満足げに頷いた。


「ああ、それから、あのチョコ入りのドーナツ。今すぐ一ダース、お持ち帰りで用意して」


 私は呆気に取られた。


「サスキア! あなた、恐喝してるじゃないの!」


 ディオは逆に、声を上げて笑い出した。爽やかで、心からの笑い声。彼は私を一瞥し、それからサスキアに向き直った。


「それだけか? この店の株でも要求されるかと思ったが」


「あら、くれるなら拒まないわよ!」


 サスキアが即座に返した。


「いいだろう。交渉成立だ」


 ディオはキッチンの小窓からバーのディマスに合図を送った。


「ディマス! うちで一番いいチョコドーナツを一ダース用意しろ。俺の個人口座に付けておけ。それから、サスキア先生が今日欲しがるものはすべて無料で提供しろ」


「了解っす、ボス!」


 ディマスの叫び声が聞こえる。


 サスキアは歓喜の声を上げ、小さくジャンプした。それから私に向かって、悪戯っぽくウィンクしてみせる。


「ほらね、エラ。セレブな彼氏を持つと、周囲の環境にもメリットがあるのよ」


 私は両手で顔を覆うしかなかった。恥ずかしさと、同時に込み上げる安堵感。ディオとの秘密がサスキアに正式にバレてしまったけれど、不思議と肩の荷が下りた気がした。親友に隠し事をする必要は、もうないのだ。


「人の彼氏を絞り取って満足?」


 私は苦笑を隠せずに、ぶっきらぼうに言った。


「まだよ! これは手付金に過ぎないわ!」


 サスキアはテーブルの上のデコレーション用のイチゴを一つつまみ上げると、傲慢な足取りでバーの方へ歩き出した。


「前でドーナツ待ってるわね、ボス! 『残業代』の続き、頑張って! 見てないから!」


 キッチンのドアが閉まった。


 再び静寂が訪れる。けれど、今度の空気は先ほどよりもずっと軽やかだった。ディオはトレイを一旦配膳台に戻すと、私を見つめた。その眼差しは真剣なものに変わり、サスキアの冗談の余韻を消し去った。


 彼は再び歩み寄り、まだ少し冷たい私の指先を握りしめた。


「エララ」


 彼の声は、先ほどよりも低く重かった。


「はい?」


 ディオは言葉を選ぶように一瞬沈黙した。彼は親指で私の手の甲をゆっくりと撫でる。規則正しい、落ち着かせるリズム。


「サスキアさんも知った。ライラも君にすっかり懐いている」


 彼は言葉を区切った。


「いつ……いつ、君のご両親に正式に挨拶に行けるかな?」


 心臓が、一瞬だけ止まった。


 その問い。私がずっと恐れ、同時に待ち望んでいた問い。冷徹な母と、意気消沈した父のいるブラウィジャヤの家の光景が、脳裏をよぎる。


「ディオ……ブラウィジャヤの家がどんな場所か、知っているでしょう?」


 私は掠れた声で尋ねた。


「お母様は、レイのような『格』が違うと判断した人間を、簡単には受け入れないわ」


 ディオは握る手に力を込めた。その瞳には、揺るぎない強さが宿っている。


「格なんてどうでもいい、エララ。私が気にしているのは、君をあそこから完全に連れ出すための許しだけだ」


 彼はじっと私を見つめた。


「いつだ?」


 私は唾を飲み込んだ。キッチンの熱気が、さらに息苦しく感じられる。


「来週……」


 ようやく、答えを絞り出した。


「家族の食事会があるの。あなた……本当に、準備はいいの?」


 ディオは言葉で答えなかった。彼はただ私の手を引き寄せ、その掌に優しくキスを落とした。そして、どんな嵐が母から吹き荒れようとも、私の前に盾となって守り抜くことを確信させるような眼差しを向けた。


「ドレスを準備しておけ」


 彼は短く言った。


 私は静かに頷いた。


 表では、ディマスをからかうサスキアの笑い声が響いている。私の人生は、本当に変わってしまった。怯える逃亡者から、暗い過去と約束された未来の狭間で、一人の男に求められる女性へと。


 ディオは再びトレイを手に取り、最後にもう一度ウィンクをしてから、客席の方へと向かった。


 私はキッチンに立ち尽くし、閉まったドアを見つめていた。


 自分の額にそっと触れる。まだ熱が残っている。


 来週。


 本当の戦いが、ここから始まる。

第 46 章をお読みいただき、ありがとうございます。

今回はエララとディオの関係がさらに深まる内容でした。

皆さんの感想やコメントをいただけると、とても励みになります。

続きが気になる方は、ぜひブックマークをお願いします。

次回もどうぞお楽しみに。

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