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第45章 琥珀色の午後

挿絵(By みてみん)


 剥きたてのオレンジの香りが、一瞬で車内を満たした。


 鋭く、そして瑞々しいその芳香は、鼻の奥にこびりついていたジャカルタの埃っぽさを一気に押し流していく。ディオは片手でハンドルを握り、もう片方の手で器用に皮を剥いていた。親指がオレンジの表面を的確に捉え、パチッ、と小さな音を立てて精油が空中に弾ける。


「食べるか?」


 彼は白い筋を丁寧に取り除いた一房を、私の唇のすぐそばに差し出した。彼の長い指先が、かすかに私の肌に触れる。私はそれを受け取り、口の中で弾ける甘酸っぱい衝撃に目を細めた。


「……美味しい」


 後部座席では、ライラが自分だけの世界に没頭していた。窓に頭を預け、流れていくジャゴラウィ高速道路の街路樹をぼんやりと眺めている。時折、今朝見ていたポニーのアニメの主題歌を、小さな声で口ずさんでいた。


「パパ、まだ着かないの?」


 車内に響く、くぐもった声。ディオはバックミラーに目をやり、娘だけに向けた柔らかな微笑みを浮かべた。


「あと十分だ。もう少しだけ我慢してくれ」


 私はシートの背もたれに深く体を預け、白いハッチバックが刻む一定の振動に身を委ねた。不思議な感覚だった。これまでの私にとって、ボゴールへの道は、高地の別荘で行われる退屈で形式張った家族の集まりでしかなかった。


 けれど今日の目的地は、植物園ケブン・ラヤ。ただのピクニックだ。


 窮屈なドレスも、冷徹なしきたりも、自分を偽る仮面も、ここには一つもない。


 ディオがシフトレバーを操作した拍子に、私の膝が彼の左手に触れた。


 ビクッ、と静電気のような熱い刺激が走る。けれど、私は足を引かなかった。彼もまた、いつもより少しだけ長く、その接触をそのままにしていた。高速道路を吹き抜ける風の音の中で、それは二人だけの静かな秘密だった。




 ボゴール植物園に足を踏み入れると、湿り気を帯びた重厚な空気と、心を落ち着かせる濡れた土の匂いに包まれた。


 巨大なケナリの木の下、完璧な木陰を見つけると、私は迷わずフラットシューズを脱ぎ捨てた。


 かつての私にとって、「家」とは冷たい大理石の床のことだった。けれど今の私にとっての「家」は、ふくらはぎを優しく刺激する、この湿った柔らかな芝生だ。大きく深呼吸をすると、肺の奥まで洗われていくような気がした。ブラウィジャヤの屋敷に残してきた毒素が、古い巨木たちの吐息によって一つずつ剥がれ落ちていく。


「先生、見て! トンボがいる!」


 ライラはピンクのドレスを花びらのように揺らしながら、透明な羽を震わせる虫を追いかけて草原を駆けていった。


 ディオは赤と白のチェック柄のシートの上に、編み込みのピクニックバスケットを置いた。彼が膝をついて蓋を開けると、トーストされたパンとガーリックの香ばしい匂いが一気に広がった。


「ガランガル風味のチキンサンドイッチだ。ビ・ヤニの秘伝のレシピらしい」


 差し出された一切れを頬張る。外側はカリッとしていて、中は驚くほど柔らかい。スパイスの旨味が鶏肉の繊維の奥まで染み込んでいた。


「ビ・ヤニさんは天才ね。いつかレシピを教わらなきゃ」


「その必要はないよ」


 ディオは私の隣に座り、ケナリの荒い樹皮に背を預けた。


「ビ・ヤニは、君のためなら毎日でも喜んで腕を振るうと言っていたからな」


 手を動かすのが止まった。その言葉は、あまりにも日常的で、あまりにも確かな未来の約束のように聞こえた。私は彼を盗み見た。木漏れ日が彼の横顔に複雑な光の模様を描いている。


「……現実じゃないみたいだわ、ディオ」


 私は膝を抱え、芝生の上に転がった自分の靴をじっと見つめた。


「時々、怖くなるの。明日目が覚めたら、またサスキアのあのアパートの物置にいるんじゃないかって。あるいはもっと最悪な……ブラウィジャヤのあの部屋に引き戻されているんじゃないかって」


 ディオはすぐに答えなかった。彼はズボンのポケットを探り、小さなプラスチックの塊を取り出した。


 鮮やかな緑色の、安っぽいバッタのおもちゃ。さっき入り口の売店で、ライラが欲しがって買ったものだ。


 彼はそれを、私の掌の上にそっと置いた。


「これは現実だ、エララ。この芝生の感触も、サンドイッチの味も……そしてこの安っぽいバッタも、すべて本物だ」


 彼は私の手を、壊れ物を包むように強く握りしめた。


「恐怖に、今日という日を台無しにさせてはいけない」


 冷たいプラスチックの感触。そして、それを覆うディオの手の熱。


 そうだ。私はもう自由なのだ。借金の担保でも、政略結婚の道具でもない。私は今、愛する男とピクニックに来ている一人の女なのだ。


「パパー! 先生ー!」


 ライラがこちらに向かって走ってきた。息を切らし、頬を赤く染めながらも、その瞳は星のように輝いている。彼女は私たちの間に割り込むようにして座り込んだ。


「疲れた?」


 私がティッシュで彼女の額の汗を拭うと、ライラは力強く首を振った。彼女は私の右手を取り、次にディオの左手を取った。そして、自分の膝の上で二人の手を一つに重ね、小さな手でぎゅっと包み込んだ。


「今日、世界で一番幸せ!」


 ライラの突き抜けるような声が、巨木の枝葉に反響する。


「だってパパも先生もいるんだもん! これって、これって……私が描いたあの絵と同じだね!」


 一瞬、世界から音が消えた。


 私はディオを見た。彼もまた、私を見つめていた。その穏やかな瞳の奥に、隠しきれない熱い感情が揺れている。彼は私の手を握り直し、ライラの小さな手の上からさらに力を込めた。それは、誰にも解くことのできない契約の印のようだった。


「ああ、そうだな」


 ディオの声は、少しだけ掠れていた。


「これはまだ始まりだ。これからもっと、こういう日が増えていくよ」


 私は微笑んだ。今度は、心からの、重荷を一切感じない笑顔だった。


 老いたケナリの木の下で、私はようやく理解した。幸せとは、通帳に並ぶゼロの数でも、家の大きさでもない。ふくらはぎをくすぐる芝生の感触と、美味しい食事。そして、壊れかけていた二つの心を繋ぎ止めてくれる、この小さな手の温もりのことなのだと。




 帰りの車内は、行きよりもずっと静かだった。ボゴールの空はドラマチックな紫とオレンジ色に染まり、地平線を優しく包み込んでいる。


 後部座席では、ライラはすっかり夢の中だった。小さな枕を抱き、手にはあの緑色のバッタをしっかりと握りしめたまま、規則正しい寝息を立てている。


 ディオは片手でハンドルを握り、もう片方の左手は、センターコンソールの上で私の手を離さなかった。高速道路を走る間、彼は一度もその力を緩めなかった。


 夜の帳が降りたジャカルタの街へと車は進む。渋滞も、けたたましいクラクションも、今夜は不思議と脅威には感じられなかった。窓ガラスに映る自分の顔を見る。そこには、自分の魂を取り戻した一人の女がいた。


 夜八時。サスキアのアパートの前に車が止まった。ディオはエンジンを切ったが、私の手を放そうとはしなかった。彼は私を引き寄せ、額に長く、深いキスを落とした。


「いい夢を、エララ」


「あなたも。気をつけて帰ってね」


 車を降り、錆びついた鉄門の前に立つ。白い車がゆっくりと遠ざかり、角を曲がって見えなくなるまで、私はずっと手を振り続けた。


 部屋に入ると、サスキアはまだ帰っておらず、静寂が広がっていた。私は折りたたみマットレスの端に腰を下ろし、ディオがいつの間にか私のバッグに忍ばせていた、あのプラスチックのバッタを取り出した。


 指先でその安っぽい感触をなぞり、私は小さく笑った。


 明日は月曜日だ。また学校へ行き、ジャカルタの埃にまみれ、家族のしがらみの余波と向き合わなければならない。


 けれど、もう何も怖くはなかった。


 一日の終わりに、温かいコーヒーの香りと、私の手を決して離さないと誓ってくれたあの男が待っていることを、私は知っているから。

第 45 章をお読みいただき、ありがとうございました。

エララたちの穏やかなひとときが、皆さんの心にも届いていれば幸いです。

感想やコメントをいただけると、とても励みになります。

今後の更新を見逃さないよう、ブックマークもぜひよろしくお願いいたします。

次回もお楽しみに。

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