第44章 秘密の温度
――― エララ・ドウィジャヤ ―――
黒いマーカーがホワイトボードの上で軽快に踊る。
並んだ数字は本来退屈なはずなのに、なぜか今日は楽しげな音符の羅列に見えた。私は小さく鼻歌を口ずさむ。一年A組の教室に満ちる椅子の軋みや子供たちの囁き声に紛れ、それは誰の耳にも届かない。
「じゃあ、10 引く 4 はいくつかな、ガファ君?」
くるりと身体を反転させ、微笑みを投げかける。サスキアいわく、月曜日の朝にしては眩しすぎる笑顔。
「六です、先生!」
ガファが誇らしげに胸を張る。
視線を中央の列へ向けた。ライラが隣の席の子の腕を小突きながら、くすくすと笑っている。彼女はとても健康そうで、幸せそうに見えた。その薄灰色の瞳と私の目が合うたび、言葉を介さない甘い秘密が共有される。
三人で囲んだ夕食。こぼれたチョコレートアイス。そして、今や私の世界の中心となった彼女の父親のこと。
あの日から一ヶ月。
あのホテルでの夜から一ヶ月が経った。最高の意味で、ディオの「もの」になってから。私たちは安全策をとることで合意していた。学校では、私はプロフェッショナルなエラ先生。彼は熱心に迎えに来る保護者のディオさん。
けれど、演技というものは酷く体力を消耗させると同時に、中毒性のある仕事だった。
キーンコーンカーンコーン
終業のチャイムが鳴り響く。
荷物をまとめ始めると、鼓動が速まり始めた。いつも通りのルーティン。なのに、その効果が薄れることは一度もない。
子供たちを連れて校門へと向かう。ジャカルタの昼下がりの熱気が、アスファルトの焼ける匂いと排気ガスの煙を伴って私を包み込んだ。迎えの車が並ぶ中、その男は既にそこに立っていた。
ディオ。
白いハッチバックのドアに背を預けている。ネイビーのポロシャツ、サングラス、そしてズボンのポケットに突っ込まれた手。
誰の目にもどこにでもいる男に見えるだろう。けれど私にとっては、この白黒の世界で唯一鮮やかな色彩を持つ存在だった。
「パパ!」
ライラが駆け出し、父親の胸に飛び込む。
私は一定のリズムを保ちながら、彼に近づいた。
「こんにちは、ディオさん。ライラちゃん、今日はクラスでとても活発でしたよ」
ディオがサングラスを外した。鋭い瞳が私を射抜き、二秒ほど、私の顔をじっと見つめる。保護者に向けるには長すぎる、親密な時間。その奥に、悪戯っぽい光が揺れた。
「こんにちは、エラ先生。娘を見てくださってありがとうございます」
低いバリトンボイスが鼓膜を震わせ、うなじの産毛が総毛立つ。
彼は私の手からライラのランドセルを受け取ろうと手を伸ばした。その時、私たちが計画していた「事故」が起きる。
荷物を受け渡す際、彼の手指がわざと私の手の甲に触れた。
たった一秒。
熱く、硬く、そして電流が走るような感触。
呼吸を止め、真っ直ぐ立っていることだけに集中する。
「……いえ、失礼します」
私は背を向け、少し離れた場所に停めてある白いシビックへと歩き出した。運転席に滑り込むまで、背中に彼の視線が張り付いているのを感じていた。
***
十分後。
学校から二ブロック離れた、人通りのない空き店舗の裏。そこが私たちの秘密の合流地点だった。
助手席のドアが開く。ディオが乗り込み、狭い車内に爽やかなペパーミントの香りが満ちた。
「待たせたかな?」
ポロシャツの一番上のボタンを外し、彼が尋ねる。
「ううん。二分くらい」
身体を彼の方へ向けた。ディオはそれ以上何も言わず、センターコンソールを挟んで私の手を強く握りしめた。彼は私の手を引き寄せ、その甲に長く、深く唇を押し当てる。
一日の仕事を終え、エネルギーを再充填するかのような仕草。
「……会いたかった」
彼が囁く。
シートに頭を預け、私は小さく笑った。
「今日の朝、教室の前で会ったばかりじゃない、ディオ」
「あれはエラ先生とディオさんだ。今は俺と君だ」
彼は指先を優しく握り直した。
「学校はどうだった? また妙なお悔やみの花でも届いたか?」
私は首を振る。
「ベクター・ホールディングスが父の借金を引き受けてから、レイは煙のように消えたわ。内部監査の対応に追われて、こちらを構う余裕なんてないみたい」
疑わしげな視線を彼に向ける。
「ねえ、本当に知らないの? ベクター・ホールディングスの背後に誰がいるのか」
ディオは肩をすくめ、完璧な無表情を保った。
「コーポレートの世界は狭いからね、エララ。レイの独占を快く思わない競合他社がいたんだろう。君はただ、幸運に感謝すればいい」
溜息をつく。
「ええ……感謝してるわ。本当に」
アイドリングの音だけが響く車内。外の世界はそれぞれの喧騒に忙しく、この白い車の中で教師と実業家が親密な静寂を共有していることなど、誰も知りはしない。
「エララ」
彼が静かに呼んだ。
「なに?」
「俺がなぜ青色が好きなのか、知っているか?」
後部座席に置かれた、彼のネイビーのネルシャツに目をやる。
「どうして?」
「昔……十歳の頃、街の端で新聞配達をしていたんだ。持っていたのは、一着の古びた青いジャケットだけだった。そのジャケットだけが、夜明け前の寒さから俺を守ってくれた」
ディオは握りしめた私の手を見つめた。
「青色を着るたびに思い出すんだ。自分には何もなかった頃のことを。そして、今持っているものを二度と失いたくないと、強く思う」
彼は私を真っ直ぐに見つめた。
「君も、その一つだ」
胸の奥が熱い塊で満たされる。ディオが過酷な過去を語ることは稀だ。彼はいつも揺るぎない城壁のように見えるけれど、時折こうして、土台にある亀裂を見せてくれる。その脆さに触れられることを、私は誇りに思った。
「あなたは私を失わないわ、ディオ」
囁くと、彼は微笑み、足元から小さな紙袋を取り出した。
「忘れるところだった。ビ・ヤニからだ」
中を開けると、ガラスの弁当箱が入っていた。温かいご飯、ガランガルの効いた鶏肉、そしてサンバル・テラシの香りが一気に広がった。
「ビ・ヤニが、君はアパート暮らしを始めてから痩せたって心配してね。昼食用に持っていけと強制されたんだ」
家庭料理の匂いを吸い込む。これがディオの愛の形だ。彼は宝石や贅沢品を贈る代わりに、こうした些細な配慮を積み重ねてくれる。空っぽの駐車場での手繋ぎや、帰宅を確認する短いメッセージと同じように。
「ビ・ヤニにありがとうって伝えて。すごく美味しそう」
「今夜の家庭教師の時に、自分で言うといい」
彼はからかうように言い、顔を近づけてきた。距離はわずか数センチ。瞳の中に、自分の姿が映り込んでいる。
「そうだ……今夜のことだけど、サスキアが疑い始めてるわ」
ディオが眉を上げた。
「どう疑っているんだ?」
「最近の私の顔が、破産して倉庫みたいな部屋に住んでいる人間にしては『明るすぎる』って。帰りが遅いことや、車の中に男の香水の匂いがすることも気づいてる」
「俺の香水か?」
ディオは自分の襟元の匂いを嗅いだ。
「いい匂いだろ?」
「ええ、すごく。だからこそ、サスキアの鼻が利くのよ」
ディオは低く笑い、さらに距離を詰めた。
「なら、疑わせておけばいい」
囁きが唇を掠める。
「親友が、自分の受け持っている生徒の父親にキスされているなんて、彼女は夢にも思わないだろうから」
「ディオ、だめ――」
言葉は、彼の唇によって遮られた。
短く、けれど確かな約束を刻むような接吻。
ジャカルタの灼熱の太陽の下、秘密を抱えた白いシビックは、誰にも知られることなく二人の体温を閉じ込めていた。
***
午後九時三十分。
サスキアの安アパートの前に車を停めた。玄関のポーチには黄色い街灯が頼りなく灯り、窓越しに籐の椅子に座るサスキアの影が見える。
深呼吸をして髪を整える。ホットチョコレートの甘い香りや、ディオの香水が服に残りすぎていないか確認する。バッグの中には、ビ・ヤニからの空の弁当箱。
ガチャリ。
鍵を出す前に、ドアが開いた。
サスキアがそこに立っていた。バティックの寝巻き姿で、胸の前で腕を組んでいる。笑顔はない。目を細め、頭の先から爪先までを品定めするように眺めている。
「おかえり、先生?」
平坦な声。
「ええ。ライラちゃんが宿題に手こずっちゃって、少し遅くなったわ」
できるだけ自然を装って答える。サスキアが一歩近づいてきた。麻薬捜査犬のように、私の周りの空気を嗅ぎ回る。
「……匂うわね」
彼女が呟く。
その口角が吊り上がった。私がネズミの穴に逃げ込みたくなるような、あの邪悪な笑み。
「さあ、尋問開始よ。入りなさい。今すぐに」
生唾を飲み込み、観念して中へ足を踏み入れた。バックミラー越しに守られていた秘密が、音を立てて崩れようとしていた。
***
――― サスキア・プトゥリ ―――
胸の前で腕を組み、アパートの入り口の真ん中に陣取る。
目を細め、連続殺人犯を追い詰めるノワール映画の刑事の気分でターゲットを見据えた。標的は、エララ・ドウィジャヤ。
目の前に立つ彼女の顔といったら……。もし世界「怪しい顔選手権」があったら、間違いなく金メダルだわ。
一歩、前へ。さらにもう一歩。
エララは閉まったドアに背中が当たるまで後退した。お構いなしだ。私は顔を突き出し、鼻を空港の麻薬探知機並みにフル稼働させた。
くん、くん。
「匂うわ……」
彼女の周りを一周し、首筋や肩のあたりの空気を嗅ぐ。
「シナモンの香り。それに微かなペパーミント。そして……待って」
顔の目の前で動きを止めた。エララは呼吸を止め、目玉が飛び出しそうなほど見開いている。
「これ、あんたの香水じゃないわね、ラ。これは……あのボスの匂いだわ」
囁くように告げると、彼女の首筋から頬にかけてみるみるうちに赤みが広がっていく。
「それから髪。どうして後ろの一束だけ不自然に跳ねてるの? 誰かの肩にでも寄りかかってたのかしら?」
「サスキア! 何言ってるのよ!」
エララが私を押し除けようとするが、私は微動だにしない。
「誤魔化さないで。その唇を見てごらんなさい」
人差し指で彼女の口元を指差す。
「口紅が消えてるわよ、エララ。今朝あんなに『二十四時間落ちない』って自慢してたやつが。妖精にでもさらわれたのかしら? それとも……誰かに拭い去られた?」
エララの顔はもう赤を通り越して、紫に近い。茹でダコそのものだ。彼女はパクパクと口を動かし、パニックで顔の前で手をひらひらと仰ぎ始めた。
「暑いわ! ちょっと、キア、気づかないの? 今夜のこの部屋、異常に暑すぎるわよ! 扇風機が壊れてるんじゃないの!?」
「扇風機なら今日の夕方に掃除したばかりよ、ラ。風は絶好調だわ」
私は余裕の笑みを崩さずに言い返した。
「違うわ! 蒸し暑いのよ! 私、氷水でシャワー浴びてくる! どいて、キア!」
エララは私の腕の下をすり抜け、光の速さで浴室へと走っていった。ドアが乱暴に閉まる。
バタンッ!
私はこらえきれず、腹を抱えてソファに倒れ込んだ。彼女がさっきまで使っていたクッションを抱きしめ、爆笑する。
「嘘つかなくていいわよ、エララ! その顔が世界で一番正直な目撃者なんだから!」
浴室に向かって叫ぶ。
中から激しいシャワーの音が返ってきた。必死に「燃える顔」を冷やそうとしているに違いない。私は首を振った。私の親友は、感情を隠すことに関しては本当に救いようがないほど下手くそだ。
けれど、心の底から安堵していた。
かつての暗く重い荷物を背負っていたエララが、今や一人の男の名前を聞いただけでこれほどまでに赤らむことができる。
「お祝いの税金は高くつくわよ」
テーブルの上の芋けんぴに手を伸ばしながら、独り言を漏らす。
「最低でも、あのボスのカフェで一週間フルコース奢ってもらわなきゃ」
第 44 章をお読みいただき、ありがとうございます。
今回もエララとディオの隠しきれない関係を描いてみました。
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