第43章 帰る場所
セノパティの夜風が、私の乱れた髪の端を優しく弄んでいる。けれど、もう冷たさは感じなかった。
私の顔を包み込む、この温かい両手のせいだ。まるで、世界で最も壊れやすい宝物を扱うような、ディオの慎重な手つき。
心臓が、胸の奥を激しく打ちつけている。彼の吐息が額にかかるたび、思考が麻痺していくのがわかった。
「聞こえるよ。……僕と同じリズムを刻んでいる」
彼の囁きは、飾り気のない、けれど私の理性をかき乱すには十分すぎる響きだった。
ディオの暗い瞳を見つめる。そこには、一片の迷いもなかった。去っていった元妻の影も、私たちの不釣り合いな社会的地位への懸念も、何一つ。
ただ、私だけを見ていた。
ドウィジャヤ・トレーディングの「資産」でも、小学校の「先生」でもない。ただの、エララという一人の女性を。
「ディオ……」
声が震える。夜風にさらわれて消えてしまいそうなほど、か細い声。
「わかってるの? 私は厄介事の塊みたいな女よ。家族、恩義、トラウマ……」
ディオは薄く微笑んだ。親指が、私の頬を柔らかくなぞる。
「僕は『掘り出し物』を探しているわけじゃない。パートナーを求めているんだ。もしパートナーに問題があるなら、それは僕たちの問題だ」
彼はさらに顔を近づけた。鼻先が触れ合う、至近距離。
「それで……今のを『イエス』と受け取ってもいいかな?」
生唾を飲み込む。喉がカラカラに乾いているのに、胸の奥は溢れんばかりの感情で満たされていた。
「……ええ」
私は真っ直ぐに答えた。
「イエスよ、ディオ」
次の瞬間、私は彼の腕の中に引き寄せられた。
強い。驚くほど強く、確かな抱擁。彼は私の首筋に顔を埋め、長い間止めていた息を吐き出すように、深く、重いため息をついた。
ジャカルタの汚れた空の下。星さえも霞むこの街のバルコニーで、私たちは明日世界が崩壊しても構わないというほど、互いの存在を確かめ合った。
「ありがとう」
耳元で、彼のバリトンボイスが震えた。
***
私たちはリビングへと戻った。
重厚なガラス戸が閉まると、外の喧騒は一瞬で遮断された。残ったのは、二人だけの濃密な静寂だ。
鞄を取ろうとソファへ歩き出したが、足が止まった。
背後から、腰に腕が回される。
ディオだ。
彼は私を逃がすつもりはないようだった。私の背中を彼のがっしりとした胸に密着させ、顎を私の右肩に預ける。
心臓が、狂ったように跳ねた。
正面からの抱擁よりも、ずっと親密で、独占的な姿勢。彼は私の盾に、私を守る強固な壁になったかのようだった。
「まだ、帰らないでくれ」
耳元で、彼の低い声が響く。シトラスとミントの香りが、私を完全に包み込んだ。
「ディオ……もう夜も遅いわ。ライラちゃんが……」
「ライラはポニーのアニメに夢中だ。エピソードが終わるまでは出てこないよ」
ディオは抱きしめる力を強めた。背中に、彼の力強い鼓動が伝わってくる。
「少しだけでいい、エララ。こうさせてくれ。……現実なんだと、実感したい」
私は目を閉じ、彼の肩に頭を預けた。
彼が与えてくれる安心感は、毒のように甘く、抗いがたい。これまで、母やレイを相手に、たった一人で戦うための盾であり続けてきた私。けれど今夜、私はようやく、誰かに寄り添うことを許されたのだ。
「どこにも行かないわ」
私は囁いた。
温かなリビングの真ん中で、私たちは付き合いたての若者のように、胸の内に沸き上がる幸福感に身を委ねていた。
ギイッ……。
廊下の方から、乾いた蝶番の音が響いた。
反射的に体が動いた。
ディオは腕を解き、二歩後ろへ飛び退いた。私は慌ててテーブルへと向かい、乱れてもいないテーブルクロスを整える振りをした。
二人とも、呼吸を乱し、顔を真っ赤にして直立不動になる。
ドアが大きく開いた。ボボのぬいぐるみを引きずりながら、ライラが姿を現した。眠たげに目を細め、眩しそうに私たちを見ている。
「パパ? 先生?」
少女は、交互に私たちを見つめた。そして、不思議そうに首を傾げる。
「どうしてお顔が赤いの? パパ、走ったの?」
ディオは激しくむせ込み、手の甲で口を覆った。「威厳ある父親」の仮面を被ろうとしているが、耳の先まで赤くなっているせいで、完全に失敗している。
「ゴホン! ……いや。パパは……少し暑いだけだ。エアコンが壊れているのかもしれない」
「そうなの?」
ライラは、設定温度が十八度になっているエアコンを指差した。
「動いてるよ?」
私は笑いを堪えるのに必死だった。恥ずかしさと可笑しさが混ざり合い、胃のあたりが震える。
「ライラちゃん、アニメは終わったの?」
「うん! ポニーが誕生日ケーキを守ったんだよ!」
ライラはソファに駆け寄り、その上に飛び乗った。
「喉乾いた。ミルク飲みたい」
ディオは、この気まずい状況から逃げ出す絶好のチャンスを逃さなかった。
「よし、ミルクだな! 世界一美味しいチョコレートミルクを作ってやる。ここで待ってろ!」
ディオは毛足の長いカーペットに躓きそうになりながら、早歩きでキッチンへと向かった。
あの冷静沈着でクールな男が、自分の娘の前でこれほどまでに狼狽えるなんて。
***
十五分後。
ミルクを飲み干したライラは、一日中遊び疲れたせいか、すぐに眠りについた。
リビングのグレーのソファには、私とディオだけが残された。距離は少し開いているが、空気の中には甘い緊張感が漂っている。
「それで……」
ディオが口を開いた。コーヒーカップをテーブルの上で弄りながら、私を盗み見る。
「僕たちは……正式に付き合っている、ということでいいのかな?」
彼の不器用な問いかけに、思わず小さな笑いが漏れた。
「公式って何ですか、ディオさん? ビジネスパートナーの契約でも結びます?」
ディオは鼻を鳴らしたが、その口元には満足げな笑みが浮かんでいた。
「『僕たち』という関係の、公式発表だ」
彼は少しだけ座り位置を詰め、私の膝の上にある手に触れた。優しく、包み込むように。
「だが、ルールを決めよう。エララ。ライラのため、そして君の仕事のためにも」
彼の論理的な思考が動き出したことに、私は安堵した。
「賛成よ。学校では、私は今まで通りライラちゃんの担任のエラ先生。あなたは、少し熱心すぎる保護者のディオさん」
「熱心すぎる?」
ディオが眉を上げた。
「私は学園の支援者であり、無料の送迎サービス業者でもあるんだが。忘れないでほしいな」
「わかったわ、VIP保護者様」
私はクスクスと笑いながら訂正した。
「要するに、プロフェッショナルでいましょう。ライラちゃんを混乱させたり、ダルミ先生を気絶させたりするような噂は御免だわ」
「合意だ。校門の前では、私たちはプロだ。手を繋ぐことも、見つめ合うことも禁止する」
ディオは私の指先を軽く握り、それから射抜くような視線を向けた。
「だが、この家のドアが閉まったら……あるいは、私的な空間に二人きりになったら……」
彼は私の手を持ち上げ、手の甲に軽くキスを落とした。唇の熱が肌に染み渡る。
「……君は僕のものだ。そして、僕は君のものだ」
全身の血が逆流した。独占欲を孕んだ、けれど甘い宣言。
「ずるいわ」
私は囁いた。
「自分に都合のいいルールじゃない」
「僕はビジネスマンだからね。常に利益を追求するのが性分なんだ」
彼は悪戯っぽくウィンクしてみせた。
私たちは静かに笑い合った。肩に乗っていた重苦しい荷物が、嘘のように消えていく。
壁の時計が十時を指した。
「帰らなきゃ、ディオ。明日は月曜日。朝礼があるの」
ディオの顔にわずかな落胆が過ったが、彼は頷いた。立ち上がり、私の手を引いて立たせてくれる。
「下まで送ろう」
階段を降り、横の駐車場へと向かう。一階のカフェは既に閉まり、街灯の鈍い光だけが辺りを照らしていた。
私の白いシビックが、そこに静かに佇んでいる。
ディオは運転席のドアを開けてくれた。彼はドアを押さえたまま、私の逃げ道を塞ぐように、車と自分の体で私を囲い込んだ。
距離が、再び親密になる。
「気をつけて」
彼は静かに言い、私のこめかみに張り付いた後れ毛を指先で整えた。
「アパートに着いたら連絡を」
「ええ、必ず」
私は彼を見上げた。唇が、すぐ近くにある。
背伸びをして、彼にキスをしたいという衝動が胸を突き上げた。ほんの短い、誓いの印として。
けれど、女としての羞恥心が、私の足を地面に縫い止めた。そこまでの勇気は、まだ持ち合わせていない。
「おやすみなさい、ディオ」
結局、私は機会を逃したことを少し後悔しながら、そう告げた。
ディオは私の葛藤を見抜いたかのように、優しく微笑んだ。無理にキスを強いることはしなかった。代わりに、彼は再び私の右手を掴んだ。
彼は腰を屈めた。けれど、今度は手の甲ではない。
彼は私の手のひらを返し、手首の内側——激しく脈打つ血管の上に、唇を押し当てた。
長く。温かく。そして、恐ろしいほど官能的に。
息が止まった。膝の力が一気に抜けていく。
ディオは顔を上げ、暗がりの中で燃えるような瞳で私を見つめた。
「気をつけて……愛しい人」
その言葉。
「サヤン」。
彼はそれを、低く掠れたバリトンボイスで紡いだ。ありふれた愛称のはずなのに、彼の声を通すと、まるで世界で最も神聖な呪文のように聞こえた。
顔が焼けるように熱い。心臓が爆発しそうだった。
「……あ、あなたもね」
私はしどろもどろになりながら、逃げるように車内に滑り込んだ。これ以上彼を見ていたら、その場に倒れ伏してしまいそうだったから。
バタンッ!
ドアを閉め、震える手でエンジンをかける。
ディオは一歩下がり、両手をポケットに突っ込んだ。彼は街灯の琥珀色の光の下に立ち、凛々しく、そして……私だけの男としてそこに立っていた。
私はゆっくりと車を走らせ、駐車場の出口へと向かう。
バックミラーに目をやった。
ディオはまだそこにいた。直立したまま、私の車が角を曲がって見えなくなるまで、一度も視線を外さずに見送ってくれていた。
唇に、抑えきれない笑みが広がった。
「愛しい人、だって……」
静かな車内で、独り言が漏れる。
私はハンドルを握りしめ、堪えきれずに小さく吹き出した。目尻に、幸せな涙が滲む。
今夜、私はあの狭いアパートへ、安物のマットレスが待つ部屋へと帰る。
けれど、心の中には、世界中の全ての幸福を持ち帰っているような気分だった。
第 43 章をお読みいただき、ありがとうございます。
ようやく二人の距離が縮まった今回の章、楽しんでいただけたでしょうか。
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次回もお楽しみに。




