第42章 動き出した秒針
――― エララ ―――
ぱたん、と小気味よい音がリビングに響いた。
キャラクターが描かれた学習ノートを閉じ、私は満足げにペンを置いた。
「できたわ!」
言い終わるが早いか、それまで机の下で貧乏ゆすりをしていた小さな足が、弾かれたように床を蹴った。ライラは、まるで宝くじにでも当たったかのような輝く瞳で立ち上がる。たった十問の引き算を、指を使わずに解き終えただけだというのに。
「やったぁ! 自由だぁ!」
ライラは両手を突き上げ、ソファに座っていたボボのぬいぐるみをひっ掴むと、そのまま自分の部屋へと猛ダッシュした。パタパタと小気味よい足音が廊下に響き、かつては静まり返っていたというこの「基地」に、心地よい活気を与えていく。
「ちょっと、ライラちゃん! 挨拶は?」
苦笑しながら呼びかけたが、彼女はドア際で一瞬だけ振り返り、乳歯の並んだ口を大きく開けてニカッと笑った。
「バイバイ、エララ先生! ポニーのアニメが始まるの! 急がなきゃ!」
嵐のような去り際に、私はただ苦笑するしかなかった。散らばった文房具を片付けていると、キッチンから布巾を手にしたヤニさんが、慈愛に満ちた表情で姿を現した。
「すみませんね、エラ先生。この時間はあの子にとって『聖なる儀式』なんです。ケーブルテレビのアニメを邪魔しようものなら、第三次世界大戦が始まってしまいますから」
「いいえ、構いませんよ。今日はかなり集中して頑張りましたから、ゆっくり休ませてあげてください」
私は立ち上がり、少し強張った背筋を伸ばした。キッチンからはヤニさんが作ったスープの香ばしい匂いが漂い、ディフューザーからはラベンダーの香りが静かに立ち上っている。
この二階の空間は、今や私にとってもう一つの「家」のような安らぎを与えてくれる場所になっていた。昼間に父から車の鍵を受け取った時の高揚感か、あるいは駐車場で見せたディオのあの眼差しのせいか。胸の奥が、熱い何かで満たされている。
少し、外の空気が吸いたかった。
「ヤニさん、少しバルコニーに出ますね。風に当たりたくて」
「ええ、どうぞ。今夜は風が気持ちいいですよ」
重厚なガラス戸をスライドさせると、眼下に広がるセノパティ通りの喧騒が、一気に耳を打った。車のクラクション、バイクの排気音、隣のカフェから漏れ聞こえる微かな音楽。
けれど、この高さから見下ろす街の騒音は、まるで無声映画のように遠く感じられた。
手すりに身を預ける。夜風が火照った頬を撫で、下ろした髪を優しく揺らした。眼下には、ヘッドライトの白とテールランプの赤が、絶え間なく流れる光の河となってジャカルタの夜を彩っている。
この街は眠らない。そして、私もまた、その鼓動の一部になったような気がしていた。
ブラウィジャヤの黄金の檻に閉じ込められていた私は、もういない。自分の足で立ち、自分の愛する仕事を持ち、そして……。
「……何を考えている?」
背後から響いた低く心地よいバリトンの声に、心臓が跳ねた。
振り返ると、そこにディオが立っていた。
いつの間にか着替えたらしい。仕立ての良いシャツを脱ぎ捨て、彼の逞しい体躯を際立たせる黒の無地Tシャツ姿だ。その手には、湯気を立てる二つのマグカップが握られていた。
「考え事じゃないわ。ただ……景色を見ていただけ」
私が微笑むと、ディオは隣に並び、カップの一つを差し出してきた。指先が触れ、熱い体温が伝わってくる。
「ホットチョコレートだ。エクストラダーク、砂糖は控えめ。先生の好みに合わせてある」
「ありがとう。……本当に、あなたは私の好みを何でもお見通しなのね」
「勘だよ」
ディオは事もなげに言い、自分のカップを口に運んだ。
沈黙が流れる。それは気まずい沈黙ではなく、互いの存在を確かめ合うような、密度の濃い静寂だった。チョコレートの苦味と甘みが舌の上で溶け合い、夜風の冷たさを和らげてくれる。
「ライラは今、テレビに釘付けだ」
ディオが不意に口を開いた。視線は遠くの高層ビル群に向けられている。
「あんなに楽しそうに笑うライラを、今まで見たことがなかった。……君が来る前、この家は二人で住むには広すぎたんだ、エララ」
その横顔を見つめる。顎のラインは鋭いが、瞳の奥には、長年押し殺してきたであろう孤独の影が揺れていた。
「ライラは素晴らしい子よ、ディオ。それは、あなたが彼女を心から愛しているから。あなたがこの場所を、本当の『家』にしたのよ」
ディオがこちらを向いた。唇に浮かんだ薄い笑みとは裏腹に、その瞳には逃れられないほどの熱が宿っている。
「違う。……君が来るまで、ここはただの建物だった」
風が強く吹き込み、私の前髪を乱した。直そうと手を伸ばした瞬間、それよりも早くディオの手が動いた。
ゆっくりとした、吸い込まれるような動き。
彼の温かい指先が私の頬に触れ、こぼれた髪を耳の後ろへと滑り込ませた。
触れられた場所が焼けるように熱い。彼は手を引かず、そのまま親指で私の顎のラインをなぞった。私の顔を、隅々まで記憶に刻み込もうとするかのように。
呼吸が止まる。手にしたカップが、わずかに震えた。
「ディオ……」
「エララ」
彼は私の名を呼んだ。風を遮るように一歩踏み込み、私たちの間に、二人だけの親密な空間を作り出す。
「君に、正直に話さなければならないことがある」
心臓が早鐘を打ち、胸が痛いほどだった。
「……何?」
ディオは重いため息をつき、憑き物が落ちたような表情を見せた。
「この仕事のことだ。家庭教師という役割について」
私は当惑して眉を寄せた。
「どういうこと? ライラに、私の教え方が合わないの?」
ディオは静かに首を振った。その瞳は、さらに深く、暗くなっていく。
「逆だ。合いすぎている。……実は、ライラに家庭教師なんて必要なかったんだ。あの子は賢い。自分一人でも、あるいは塾の講師でも、誰だって良かったんだ」
私は目を見開いた。
「じゃあ……どうして?」
「僕の方こそ、君が必要だったんだ、エララ」
断定的な響き。
「君に会うための理由が。毎日迎えに行き、食事を摂ったか確認し、リビングで笑うその姿を見るための、正当な理由が必要だったんだ」
頭の中が真っ白になった。通りの騒音も、風の音も、すべてが消え去った。聞こえるのは、自分の激しい鼓動だけ。
「ディオ……あなた……」
「私の人生は、ずっと灰色だった。仕事、ライラ、仕事、ライラ……。安全だが、ひどく虚しい繰り返しだ」
彼はもう一段、距離を詰めた。靴の先が触れ合う。
「あの日、君がカフェに現れた。場違いなドレスを着て、困惑した顔で、それでも凛とした強さを秘めて。……あの日、私は気づいたんだ。もう、灰色の人生には戻りたくないと」
彼はもう片方の手を伸ばし、私の両頬を包み込んだ。温かくて、逃げられないほど確かな重み。
「娘の担任の先生として見ているわけじゃない。逃亡を助けた友人としてでもない。……ただ、エララという一人の女性として、君を求めている」
ミントとチョコレートの香りが混じった彼の吐息が、顔にかかる。
「愛している、エララ」
その言葉は、飾り気のない、真っ直ぐに私の胸を貫いた。複雑な詩も、飾り立てた愛の言葉もいらなかった。その一言に込められた真実の重みに、視界が熱く滲む。
「ライラの先生だからじゃない。君が窮地に立たされているから同情しているわけでもない。……私が今まで出会った誰よりも頑固で、誰よりも純粋で、誰よりも強い君を、一人の男として愛しているんだ」
涙がこぼれ落ちた。悲しいからではない。あまりにも大きな幸福に、心が耐えきれなかったからだ。
ディオはゆっくりと顔を近づけた。
私は目を閉じた。唇が重なるのを待つ。
けれど、触れたのは唇ではなかった。
温かく、柔らかな感触が額に伝わる。
額と額を合わせ、私たちは呼吸を共有した。鼻先がかすかに触れ合う、その距離で。
「君が帰る場所になりたい。……困難から逃げる時だけじゃない。毎日、永遠に。君が帰ってくる場所になりたいんだ」
ゆっくりと目を開ける。涙でぼやけた視界の中で、ディオの瞳だけが揺るぎない光を放っていた。そこには、嵐の海で見つけた、穏やかな港のような安心感があった。
私は震える手を伸ばし、彼の胸に置いた。薄い生地越しに、彼もまた激しく脈打っているのが伝わってくる。
「……心臓が」
掠れた声で、私は囁いた。
「鼓動が、すごくうるさいわ。聞こえる、ディオ?」
ディオは、私が今まで見た中で最も美しい微笑みを浮かべた。
「聞こえるよ。……私と同じリズムを刻んでいる」
第 42 章をお読みいただき、ありがとうございました。
ここまで物語に付き合っていただけて、本当に嬉しいです。
もしよろしければ、感想やブックマークをいただけると大変励みになります。
それでは、また次の章でお会いしましょう。




