第41章 翼の帰還
サスキアの安アパートの換気口から、朝の光が細く差し込んでいた。
踊る埃の粒子が、逆光の中で銀色に輝いている。
私はゆっくりと目を開けた。
そこには、見慣れたクリスタルのシャンデリアも、静かに唸る全館空調もない。
雨漏りの跡が抽象画のように広がる天井と、近所の鶏の調子外れな鳴き声があるだけだ。
けれど、不思議と胸のうちは凪いでいた。
ドウィジャヤ家の「小さな終末」が、ベクター・ホールディングスの介入によって回避されてから一週間。
安物の折りたたみマットレスの上で体を伸ばすと、背骨が小さく鳴った。
鈍い痛みがある。
「起きなさい、シンデレラ! かぼちゃの馬車が待ってるわよ!」
隣の部屋からサスキアの怒鳴り声が飛んできた。
彼女の言う「馬車」とは、マフラーが時々爆発音を立てる、おんぼろの原付バイクのことだ。
私は口角をわずかに上げた。
これが、私の新しい日常。
そして、私はこの生活を、ひどく気に入っていた。
・ ・ ・
放課後の午後。
アルクス・カフェのガラス扉を開けると、挽きたての豆の香りが全身を包み込んだ。
焙煎の深い、土の匂いに似た温かさ。
「いらっしゃいませ、奥様!」
バーカウンターの向こうで、長髪のバリスタ・ディマスが騒がしく声を張り上げた。
彼は大げさな手つきでシェイカーを振っている。
私は苦笑しながら、仕事鞄をカウンター席に置いた。
「奥様なんて呼ばないで、ディマス。あなたのボスに給料を減らされるわよ」
「ええっ、ボスならむしろ喜んで昇給させてくれると思いますけどね」
ディマスが片目を瞑ってみせる。
私はそのからかいを無視したが、頬がわずかに熱くなるのを感じた。
何も言わずにバーの内側へ入り、フックに掛かった予備の黒いエプロンを手に取る。
あの一件以来、私の午後のルーチンは変わった。
夜にライラの家庭教師として来るだけでなく、放課後にふらりと立ち寄るようになったのだ。
教えるためではなく、ただ、ここに「居る」ために。
「今日は何を教えてくれるの?」
腰の後ろでエプロンの紐を結びながら尋ねる。
ディマスはニヤリと笑った。
「ミルクのスチーミングですよ。昨日のやつは、食器用洗剤の泡みたいでしたからね。今日はシルキーなやつを目指しましょう」
「お手柔らかにお願いします、先生」
私はバーの裏側で忙しく動き始めた。
ミルクが温まる音と、ポートフィルターがぶつかる金属音が、今の私のBGMだ。
顔を覚えてくれた常連客が、時折親しげに声をかけてくれる。
「先生が淹れると、コーヒーが少し甘くなる気がするな」
ノートパソコンを開いた年配の男性が、冗談めかして言った。
「それは砂糖の入れすぎですよ、お客様」
私はラテを差し出しながら、さらりと答えた。
視界の端に、ディオの姿があった。
彼はいつもの隅の席で、ノートパソコンとサプライヤーの請求書の山に向き合っている。
鼻筋にかかった読書用の眼鏡が、彼をどこか知的な、近づきがたい学者のように見せていた。
時折、彼が顔を上げる。
彼の視線は、入り口でも他の客でもなく、まっすぐに私を捉えた。
満面の笑みを浮かべるわけではない。
ただ、唇の端をわずかに持ち上げ、私が自分の縄張りで無事であることを確認するように。
その眼差しは、私にとっての安全網だった。
ブルル、ブルル……
ズボンのポケットの中で、携帯電話が長く震えた。
ミルクジャグを置き、エプロンで手を拭く。
画面には「父」の二文字。
鼓動が乱れた。
この一週間、父とのやり取りは事務的な短いメッセージだけだった。
父は気まずさを抱え、私はまだ傷を抱えている。
私はディマスに合図を送り、奥の豆の貯蔵庫へと逃げ込んだ。
麻袋が積まれた、静かで埃っぽい空間。
「……もしもし、お父様?」
「エララか……」
受話器の向こうの父の声は、先週のようなパニックも絶望も消えていた。
ひどく疲れ切っているが、どこか落ち着いている。
「何をしているんだ? 学校か?」
「もう終わったわ。今は……友達のところにいるの」
教え子の父親が経営するカフェで、見習いバリスタの真似事をしているとは言えなかった。
「そうか……よかった。報告があるんだ。ベクター・ホールディングスのチームが会社に入った。彼らは、驚くほど有能だよ。ゲイリーという代表が、債務をすべて再編してくれた」
私は積み上げられたコーヒー袋に背を預けた。
「よかったわね。お父様がもう頭を抱えなくて済むなら」
「ああ……だが、不思議な気分だよ。この会社が、もう自分のものではないような気がして。私はただ、命令を実行するだけのマネージャーになった気分だ」
声に寂しさが混じっている。
創業者としてのプライドが削り取られた者の末路。
以前の私なら同情しただろうが、今の私は、それが当然の対価だと思えた。
「エララ……母さんが会いたがっている。お前の部屋はそのままだ。シーツも今朝、新しく替えた。帰ってきなさい。今夜、一緒に食事をしよう」
それは、和解の申し出だった。
私は目を閉じ、ブラウィジャヤのあの冷え切った食卓を思い浮かべた。
ダルヴィアン家との縁談を壊した私を、まだ責めているであろう母の視線を。
「ごめんなさい、お父様。まだ無理よ」
私の声は、静かだが揺るぎなかった。
「もう少し、時間が欲しいの。今の場所が、心地いいから」
長い沈黙が流れた。
父の重いため息が、鼓動のように伝わってくる。
「……分かった。無理強いはしない。お前が無事なら、今はそれでいい」
通話が切れた。
暗くなった画面を見つめる。
罪悪感が微かに忍び寄るが、それ以上に、境界線を引けたことへの安堵が勝っていた。
私はもう、甘い言葉で鳥籠に連れ戻される子供ではない。
コン、コン。
貯蔵庫の扉が軽く叩かれた。
「エララさん、お届け物ですよ!」
ディマスの声だ。
扉を開けると、彼は厚みのある茶封筒と、一本の車の鍵を差し出してきた。
「さっき、運び屋が来ました。ラフリさんという方からの預かり物だそうです」
私の視線は、その鍵に釘付けになった。
キーホルダーには、薄汚れた小さな熊のぬいぐるみが付いている。
私がブラウィジャヤの家に置いてきた、白いホンダ・シビックの鍵。
震える手で封筒を受け取り、中を確かめる。
そこには、父の乱れた筆跡で、たった数行の言葉が綴られていた。
『この車は、お前の権利だ。お前の名義になっている。私にこれを止める権利はない。使いなさい。せめて、娘が外で暑さに苦しんでいないか心配する父親でいさせてくれ。済まなかった』
涙が、溢れた。
ポタ、ポタ
それは止まることなく、頬を伝い落ちる。
私はコーヒー袋の上に、崩れるように座り込んだ。
声を出さずに、肩を震わせる。
これは悲しみの涙ではない。
解放の涙だ。
この鍵は、賄賂ではない。承認だ。
父はついに認めたのだ。
私が彼らの所有物ではなく、一人の独立した人間であることを。
彼は、自分が折った私の翼を、ようやく返してくれた。
扉が再び開いた。
今度はディマスではない。
ディオがそこに立っていた。
彼は何も聞かなかった。
泣いている私を見ても、慌てることはない。
ただ静かに入ってくると、背後の扉を閉め、外の世界を遮断した。
ディオは私の前に屈み込んだ。
私の手の中にある鍵に目をやり、それから濡れた私の顔を見つめる。
「お父さんからか?」
彼の声は、凪いだ海のように穏やかだった。
私は頷き、手の甲で涙を拭った。
「車を……返してくれたの。謝罪の言葉と一緒に」
ディオが微かに微笑んだ。
彼は私に触れなかったが、その静かな存在感は、どんな抱擁よりも温かく私を包んだ。
「受け取れ、エララ。それは君のものだ。負い目を感じる必要なんて、どこにもない」
「でも、変な感じなの、ディオ……。まだ怒っているのに、どこか同情してしまう自分もいて」
「それが『過程』というものだよ」
ディオはズボンのポケットから清潔なハンカチを取り出し、私に差し出した。
「許すことと、忘れることは切り離して考えていい。車は受け取っても、君はアパートに住み続けていいんだ。それは君の自由だ」
その言葉が、私の頑なな心を優しく解きほぐした。
そうだ。
この鍵を受け取ることが、屈服を意味するわけではない。
これは、私の勝利の象徴なのだ。
私はハンカチを受け取り、大きく息を吐き出した。
「……そうね。この車が必要だわ。サスキアのバイクに二人乗りするのは、もう限界。彼女のヘルメット、カビ臭いんだもの」
ディオが声を立てて笑った。
その笑い声が、埃っぽい貯蔵庫を明るく照らす。
「いいぞ。その調子だ」
彼は立ち上がり、私に手を差し伸べた。
「さあ、出よう。ライラも喜ぶ。先生が自分の車を持てば、忙しい父親を待たずに遊びに行けるからな」
私はその大きな手を取った。
熱いほどの温もりと、確かな力強さ。
鍵を握りしめ、私は立ち上がった。
・ ・ ・
夕暮れ時。
私はアルクス・カフェの駐車場に立っていた。
そこには、磨き上げられた私の白いシビックが停まっている。
私はその車を、親からの施しとしてではなく、「道具」として見つめた。
私をどこへでも連れて行ってくれる道具。
学校へ、アパートへ、そして何より……ここへ。
ディオとライラがいる、この場所へ。
私はもう、塔に閉じ込められた王女ではない。
怯えて逃げ回る逃亡者でもない。
私はエララ。
自分の人生という車のハンドルを、今、この手でしっかりと握っている。
「いい車じゃないか」
隣に立つディオが、ポケットに手を突っ込んだまま言った。
「まあね」
私はいたずらっぽく微笑んで、彼を横目で見た。
「でも、誰かさんの白いコンパクトカーほど、乗り心地は良くないかもしれないわ」
ディオが眉を上げた。
「ほう?」
「だって、あの車には、ジャズを流してくれるハンサムな運転手さんが付いているもの」
ディオは一瞬呆気に取られた後、顔をわずかに赤らめて笑った。
「気をつけろ、先生。その言い回しは、コーヒーの値段を上げかねないぞ」
私もつられて笑った。
ジャカルタの空は、燃えるような黄金色に染まっている。
嵐は去った。
そして私は、まだここに立っている。




