第40章 安らぎの場所
大理石の壁とクリスタルのシャンデリア。
その内側にあるのは、虚飾と腐りかけた野心、そしてレイ・ダルヴィアンという男の崩れ落ちた自尊心の残骸だけだった。
だが、一歩外へ出れば、夜風が吹き抜けるジャカルタのロビーは、それよりもずっと嘘のない世界に見えた。
湿り気を帯びた夜の空気と、かすかな排気ガスの匂いが肌を刺す。
普段ならその粘りつくような感覚に顔をしかめるところだが、今夜ばかりは、この汚れた空気さえも肺の奥で蜜のように甘く感じられた。
私は深く息を吸い込み、恐怖で縮こまっていた胸をゆっくりと広げた。
膝がまだ震えている。
アドレナリンが引いた後の脱力感が、体の節々に重くのしかかっていた。
不安定な足取りで、ハイヒールの音がアスファルトを叩く。
一流ホテルの正面玄関から遠ざかるにつれ、背後の喧騒が他人事のように思えてきた。
整った制服に身を包んだバレーパーキングのスタッフたちが、慌ただしく走り回っている。
アルファード、メルセデス、最新型のBMW。
会場内での混乱に困惑し、怒りをあらわにする客たちのために、次々と高級車のドアが開けられていく。
私は大きな柱の陰に立ち、自分の体を抱きしめた。
自分で選んだネイビーブルーのドレスは、夜風にさらされるにはあまりに薄すぎた。
自分がひどく小さく、孤独に思えたが、不思議なことに、心はかつてないほど満たされていた。
ドロップオフゾーンに並ぶ車両の列に目を向ける。
タクシーを呼んだわけではないし、どこへ行けばいいのかも分からなかった。
ブラウィジャヤの家に戻るという選択肢は、今の私にはない。
かといって、サスキアの安アパートまで戻るには、今の精神状態ではあまりに遠すぎた。
その時だった。
派手な黄色のポルシェと、黒塗りのレクサスの間に、明らかに場違いな車が紛れ込んでいるのが見えた。
白いハッチバックのコンパクトカー。
小さくて簡素なその車には、周囲の高級車のようなナノコーティングの輝きなど微塵もない。
けれど、私にはその車がホテルのどんなスポットライトよりも眩しく見えた。
心臓が大きく跳ねる。
運転席のドアが開き、背の高い男が姿を現した。
高価なスーツも、糊のきいたタキシードも着ていない。
袖を肘までまくった濃紺のフランネルシャツに、脚のラインに馴染んだチノパン。
風に吹かれた髪は無造作で、固いポマードで整えられているわけでもない。
ディオさんだ。
彼は車のドアに軽く寄りかかり、まるでドライブスルーのコーヒーを待っているかのような自然体でそこに立っていた。
五つ星ホテルから婚約を破棄して逃げ出してきた女を待っているようには、到底見えない。
彼の暗い瞳が、人混みの中からすぐに私を見つけ出した。
手を振るわけでも、満面の笑みを浮かべるわけでもない。
ただ、彼はゆっくりと体を起こし、私をまっすぐに見つめて小さく頷いた。
「ここにいるよ」という、無言の合図。
私の張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
周囲の視線なんてどうでもいい。
高価なドレスも、ハイヒールも、もう何も気にならなかった。
私は走り出した。
バレーパーキングの列を横切り、抗議する高級車のクラクションを無視して、ひたすら走る。
今夜、この世界で唯一「本物」だと感じられる場所に向かって。
勢いよく近づく私を見て、ディオさんは少しだけ両腕を広げた。
どんっ
私は彼の胸に、体ごとぶつかった。
彼の腰に腕を回し、フランネルの生地に顔を埋める。
清潔なシトラスの香り、コーヒー豆の匂い、そして微かなペパーミント。
それは、私にとっての安全地帯の香りだった。
衝撃でディオさんの体がわずかに後ろに揺れたが、彼はその逞しい脚でしっかりと私を支えてくれた。
太い腕が私の背中に回される。
少しでも力を緩めたら、私が粉々に砕け散ってしまうのを恐れているかのように、強く、深く抱きしめられた。
「終わったよ……」
頭上で、彼のバリトンボイスが囁くように響いた。
その低い振動が、私の胸にまで伝わってくる。
「もう終わりだ、エララ。君は自由だよ」
何も答えられなかった。
声を出そうとしても、こみ上げる感情の塊が喉に詰まって言葉にならない。
私はただ彼の胸の中で頷き、震える指先で彼のシャツを強く握りしめた。
高級ホテルのロビーの真ん中で、安っぽい車の隣で抱き合う私たち。
通り過ぎる社交界の人々にとって、それは奇妙な見世物だったかもしれない。
けれど、私は一向に構わなかった。
幸せが必ずしも高級車に乗ってやってくるわけではないことを、彼らに見せつけてやればいい。
ディオさんは、まるでライラをあやす時のように、優しく私の髪を撫でた。
「帰ろう」
彼は穏やかに言った。
「ここは、少し騒がしすぎる」
彼は名残惜しそうに腕を解いたが、手は私の肩に添えたままだった。
エスコートするように助手席へと導き、頭をぶつけないようドアの縁を手で押さえてくれる。
私はその小さな車内へと滑り込んだ。
バタンッ
ドアが閉まると、外のクラクションや人々の話し声が一瞬で消え去り、聞き慣れた静寂が訪れた。
ここは私の安息の場所だ。
ディオさんが運転席に乗り込んできた。
彼はすぐにエンジンをかけず、心配そうな眼差しで私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
短い問いかけ。
私は深く息を吐き出し、ホテルのソファほど柔らかくはないけれど、それよりもずっと心地よいシートに背中を預けた。
「私……生きてる」
消え入るような声で答えた。
「まだ生きてるよ、ディオさん」
ディオさんは、わずかに口角を上げた。
その瞳には、深い安堵の色が浮かんでいる。
彼は手を伸ばし、指の背で私の頬に一瞬だけ触れた。
ギアに手をかける前の、ほんの一秒の出来事だった。
「それが一番大事なことだ」
エンジンが静かに唸りを上げる。
ディオさんは片手でハンドルを回し、白い小さな車を鉄の塊たちの列から引き抜いた。
煌びやかなジャカルタの夜の街へと、私たちは滑り出した。
窓の外を流れる景色を眺める。
聳え立つホテルのビルが次第に小さくなり、レイへの悪夢や両親の野心も一緒に遠ざかっていく。
車内の沈黙は心地よかった。
スピーカーからは、いつか本屋へ行った時に聴いたのと同じジャズのインストゥルメンタルが流れている。
私は隣に座るディオさんの横顔を盗み見た。
街灯の光が交互に彼の顔を照らし、顎のラインと鼻筋に鋭い陰影を作っている。
彼は冷静で、集中していた。
この混乱の中から私を連れ出すことが、世界で最も当然のことであるかのように。
「ディオさん……」
小さく名前を呼んだ。
「ん?」
彼は前を向いたまま、視線を道路に固定している。
「どうして……どうしてあそこにいたの? あんなにタイミングよく」
ずっと心に引っかかっていた。
私は何も伝えていなかったはずだ。
いつロビーで待っていればいいのか、どうして分かったのだろう。
ディオさんは一瞬黙り込んだ。
音楽のリズムに合わせて、指先でハンドルを軽く叩く。
「サスキアだ」
短く、彼は答えた。
私は眉を寄せた。
「サスキアが?」
ディオさんは一瞬だけこちらを向き、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「君の友達が、今日の夕方に電話をくれたんだ。パニック状態で怒鳴り散らしてね。もし君に何かあったら、ホテルを焼き払ってやるって息巻いてたよ」
彼は低く笑った。
「彼女にスタンバイしててくれって頼まれたんだ。もし君に『白馬の王子様』が必要になったら……いや、この場合は『鉄の馬に乗った運転手』かな。悪い龍から君を救い出すためにね」
私は絶句した。
サスキア。やはり彼女か。
その説明は、あまりにも腑に落ちた。
サスキアなら、それくらいの無茶なことは平気でするだろう。
「まったく、サスキアったら……」
私は首を振って呟いた。
けれど、胸の奥では、あんな風に狂ったような行動をしてくれる親友がいることに感謝していた。
そして、その無茶な頼みを聞いてくれた、この優しい男性にも。
「来てくれて、ありがとう」
心からの言葉を伝えた。
「いつでも行くよ、エララ。どんな時でも」
その言葉はシンプルだったが、重みがあった。
彼は中で何があったのか、一切問い詰めなかった。
婚約のこと、父の借金のこと、会場を台無しにした連中の正体についても。
彼はただここにいて、私の心の拠り所になってくれた。
再びシートに頭を預け、目を閉じる。
体がようやく弛緩していくのを感じた。
猛烈な眠気と肉体的な疲労が襲ってきたが、それはどこか清々しい疲れだった。
目を開けると、シフトレバーを握るディオさんの左手が目に入った。
大きく、手の甲に血管が浮き出た手。
ライラの頭を撫でる時の優しさと、力強さを併せ持った、働く男の手だ。
衝動的な思いが胸に突き上げた。
彼に触れたい。
彼が本当に実在しているのか、これはブラウィジャヤの家へ帰る途中の夢ではないのか、確かめたかった。
私の手が、ゆっくりと、ためらいながら空中で動く。
センターコンソールの近くにある彼の手に、指先を近づけた。
その手を握りたい。
けれど、恐怖と恥ずかしさがブレーキをかける。
もし嫌がられたら? もし一線を越えてしまったら?
私の手は、コンソールの上で数センチ浮いたまま止まった。
馬鹿げたことをしている自分に気づき、手を引っ込めようとした、その時。
ガシッ
前を向いたまま、ディオさんの左手がシフトレバーから離れ、空中にあった私の手を捕まえた。
素早く、けれど驚くほど柔らかな動きだった。
彼の温かい指が私の指の間に滑り込み、恋人繋ぎのようにしっかりと絡め取られる。
息が止まった。
ディオさんは私の手を引き寄せ、ドレスに覆われた私の太ももの上に置いた。
彼は手を離さず、そのまま包み込むようにして、シルクの生地越しに熱を伝えてきた。
親指が、私の手の甲をゆっくりと撫でる。
一定のリズムで。落ち着かせるように。
彼は右手の片手運転を続け、視線はまっすぐ前を向いたままだった。
まるで、今したことが世界で一番自然なことであるかのように。
私たちの手が、最初からこうして重なるために作られたものであるかのように。
私の防波堤が、完全に崩壊した。
悲しいからではない。怖いからでもない。
胸が張り裂けそうなほどの、圧倒的な感謝の念だった。
あの宴会場にいた誰もが、数字や資産、権力のことばかりを考えていた。
実の両親でさえ、見栄のために私を売り払おうとした。
それなのに、私に対して何の義務もないこの人が、こうして私の手を握ってくれている。
彼は私の富なんて必要としていない。
私の家の名前も、肩書きも。
ただ、私が無事であることだけを求めてくれた。
再び涙が溢れ出した。今度は、止めようもなかった。
私は小さく声を漏らして泣いた。肩が激しく震える。
ディオさんは慌てなかった。
ただ、握った手に力を込め、指先を優しく締め直して、私が泣き止むのを待ってくれた。
彼は、私が今これを必要としていることを知っていた。
「ありがとう、ディオさん……」
嗚咽の合間に、かろうじて言葉を絞り出す。
涙で濡れた声は、ひどく掠れていた。
「本当に……ありがとう……」
なぜ同じ言葉を繰り返しているのか、自分でも分からなかった。
今の私の感情を表すのに、人間の言語の辞書にはこれ以上の言葉が存在しないように思えた。
ディオさんが一瞬だけこちらを向いた。
街の明かりを反射した彼の瞳は、どこまでも優しかった。
「少し休みなさい、エララ」
彼は囁くように言った。
「もう、安全だから」
生まれて初めて、私はその言葉を心から信じることができた。
私は今、本当に安全な場所にいるのだと感じた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
外国語での執筆ということもあり、表現や言葉選びに不自然な点があるかもしれません。
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