第4章 借り物の体温
アイボリーのドレスが、夜のカフェの空気の中で浮き上がっている。
場違い。その一言に尽きる。
場違いすぎて、いっそ清々しいくらいだ。
私は、カクテルパーティーから逃げ出してきた格好のまま、場違いな自分を自覚して立ち尽くしていた。
ディオさんは戸惑ったように周囲を見渡し、それから私の視線を真っ直ぐに受け止めた。
拒絶の色はないけれど、明らかな困惑がその瞳に宿っている。
隣のテーブルの客たちが、ちらちらとこちらを盗み見ているのがわかった。
カジュアルなコーヒーショップに、肩を剥き出しにしたドレスの女。
誰だって二度見するだろう。
「あの……さっき通りかかって、偶然見かけたんです。その……」
舌がもつれる。
「ライラちゃんが、見えたから」
嘘だ。
本当は、追いかけてくるレイから逃げる場所を探していただけ。
私はバッグのストラップを指が白くなるほど握りしめ、必死に平静を装った。
ディオさんは小さく頷き、手にしていたスプーンを置いた。
何も言わない。
その沈黙が、今の私にはむしろありがたかった。
「先生! 先生、とっても綺麗! お姫様みたい!」
膝の上から飛び降りたライラちゃんが、目を輝かせて駆け寄ってくる。
子供の称賛は、いつだって残酷なほど真っ直ぐだ。
私は少し腰を落とし、彼女の柔らかい髪に触れた。
「ありがとう、ライラちゃん。とっても嬉しいわ」
頬が熱くなるのを感じる。
「パパと何をしてたの?」
問いかけると、ライラちゃんはテーブルの上のタブレットを誇らしげに掲げた。
「英語のお勉強! 見て!」
画面の中では、派手な色のカモが陽気に踊っている。
「あら、お利口さんね」
私は彼女の頭を撫でながら、ふと外の気配を感じた。
ヒューッ
夜風が強く吹き込み、露出した肩を容赦なく撫でていく。
サブリナカットの襟ぐりは、防寒には一切向いていない。
私は無意識に自分の腕を抱き、身震いした。
ディオさんが椅子を引いて立ち上がる。
見上げるほど高い彼の影が、私を包み込むように伸びた。
「エララ先生……もし急ぎでないなら、中で話しませんか。外は風が冷たい」
オレンジ色の温かい光が漏れるカフェの入り口を見る。
「……そうですね。お言葉に甘えて」
私は短く答え、ライラちゃんの小さな手を引いた。
カラン、カラン
ドアベルの乾いた音が響く。
焙煎された豆の香ばしい匂いと、焼き立てのペストリーの甘い香りが一気に鼻腔を満たした。
外の冷気とは比べものにならない安心感。
だが、その平穏も束の間だった。
「おっ! ボスの彼女のお出ましだ!」
カウンターの奥から、調子のいい声が飛んでくる。
少し長めの髪を後ろで結んだ若いバリスタが、グラスを拭きながらニヤリと笑った。
窓際のソファに座っていた常連客たちが、一斉にこちらを振り返る。
「うわ、マジで綺麗じゃん。なあ?」
レザージャケットを着た男が、電子タバコの煙を吐き出しながら茶化すように言った。
「やるなあ、ディオさん……。黙ってればいい男は、やることが違うね」
私の顔は、瞬時に真っ赤になった。
「違うんだ……」
ディオさんが少し慌てたように口を挟む。
「彼女はライラの担任の先生だ。偶然通りかかっただけだ」
「担任の先生とパパの恋? ドラマみたいじゃん! 最高!」
奥のテーブルからも声が上がる。
「こら! 変なことを言うな。子供がいるんだぞ」
ディオさんの声は厳しかったが、その耳の端が赤くなっているのを私は見逃さなかった。
店内には親しげな笑い声が広がる。
ここは、きっと彼にとって気心の知れた場所なのだろう。
「すみません、エララ先生。こいつら、デリカシーがないもんで」
ディオさんは申し訳なさそうに視線を落とした。
「……いえ、大丈夫です。ディオさん」
ディオさんは観葉植物の陰にある、少し落ち着いた席を指差した。
「あそこに座りましょう。ここよりは静かだ」
私は頷き、ライラちゃんに手を引かれるまま奥へ進んだ。
丸い木製のテーブル。
ディオさんはライラちゃんの体を軽々と持ち上げ、椅子に座らせた。
私はその向かい側に、ドレスの裾が引っかからないよう注意深く腰を下ろす。
騒がしかった常連客たちも、ようやく自分の手元に戻っていった。
壁のテレビでは、音を消したサッカーの試合が流れている。
「それで、何にしますか?」
「カプチーノを、温かいのでお願いします」
「わかりました。少し待っていてください」
ディオさんは微かに微笑むと、カウンターへ向かった。
バリスタに何か釘を刺している後ろ姿が見える。
私はライラちゃんに向き直った。
彼女は何かを考え込むように、小さな眉を寄せていた。
「あ、そうだ! 先生、待ってて!」
ライラちゃんが椅子から飛び降り、プライベートと書かれたドアの奥へ消えていく。
しばらくして、彼女は大きなノートと筆箱を抱えて戻ってきた。
「先生、宿題手伝って!」
机の上にノートを広げ、期待に満ちた目で私を見つめる。
「先生が手伝ったら、ズルになっちゃうわよ?」
ライラちゃんはケラケラと笑い、先が丸くなった鉛筆を握った。
「先生は今、お客さまでしょ? だからズルじゃないの。これは……協力!」
「……その言葉、どこで覚えたのよ。いいわ、一緒にやりましょうか」
私はディオさんが用意してくれた空席に移動し、彼女の隣に座った。
「ここは、ゆっくり書いて。線からはみ出さないようにね」
ライラちゃんは素直に頷き、一文字ずつ丁寧に埋めていく。
ふと、天井のエアコンから冷たい風が吹き降ろしてきた。
ゾクッ
再び全身に鳥肌が立つ。
私は二の腕を何度もさすり、こすって温めようとした。
ライラちゃんは宿題に夢中で気づかない。
「次は、好きなものについて一文書きましょう」
私は彼女を導くように教えた。
「例えば、『私は絵本が好きです』とか。ライラちゃんの好きなものは何?」
ライラちゃんは鉛筆で顎を叩き、カウンターにいる父親の方をちらりと見た。
「先生……『私はパパが好きです』って書いてもいい? パパも好きなものに入る?」
「ふふっ、もちろんよ。素敵ね」
私が答えようとした、その時。
重みのある、温かい布が私の肩に舞い降りた。
フワッ
シトラスと、微かなコーヒーの香りが私を包み込む。
「パパを『もの』扱いにするなよ」
耳元で、あの低いバリトンが響いた。
ライラちゃんが口を押さえてくすくす笑う。
振り返ると、すぐ後ろにディオさんが立っていた。
彼は自分のデニムジャケットを、私の剥き出しの肩に掛け直してくれた。
指先が肌に触れることはなかったが、彼の体温がすぐ近くにある。
「……ディオさん、これは……」
「さっきから、寒そうにしていたから」
彼は少し決まり悪そうに首の後ろを掻いた。
「……その、俺のジャケット、臭くないですか?」
「えっ? そんなことないです! すごくいい匂い……」
即座に答えてから、自分の反応が熱烈すぎたことに気づく。
「ヒューヒュー!」
今度は、店内にいた全員が一斉に囃し立てる声が上がった。
バリスタは派手に手を叩き、チェスをしていた老人までが口笛を吹く。
「『いい匂い』だってよ、ご馳走様!」
「ディオさん、いけいけ!」
私の顔は赤を通り越して、紫にでもなっているんじゃないかと思うほど熱い。
ディオさんも同じだった。
片手で顔を覆い、諦めたように首を振っている。
「パパ、先生、どうしてお顔が赤いの?」
ライラちゃんの無垢な質問に、私は深呼吸をして鼓動を鎮めようとした。
「なんでもないのよ、ライラちゃん。……エアコンが、壊れてるのかも」
私はジャケットの襟をぎゅっと握り、ノートに目を落とした。
だが、視界の端でディオさんもまた、指の隙間からこちらを見ているのがわかった。
ふと、視線が重なる。
ぷっ
どちらからともなく、小さく吹き出した。
あまりにも滑稽で、恥ずかしくて。
でも、この借り物の体温が、今はたまらなく心地よかった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
外国語での執筆ということもあり、表現や言葉選びに不自然な点があるかもしれません。
もしお気づきの点や、文章のスタイルについてのアドバイスがございましたら、ぜひ感想欄で教えていただけると嬉しいです。
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