第39章 鎖の切れる音
「ヴェクター・ホールディングス」という名が宙に浮いた。
その響きは重く、異質で、会場の空気を一瞬にして凍りつかせた。
つい数秒前まで、この世の支配者のように振る舞っていたレイ・ダルヴィアンが、石像のように固まっている。
彼の手にあるシャンパングラスがわずかに傾いた。
黄金色の液体が、磨き上げられたステージの床に音もなくこぼれ落ちる。
「ヴェクター……何だと?」
レイは鼻で笑おうとしたが、その声はひどく掠れていた。
彼は周囲の群衆を見渡し、助けを求めるように視線を泳がせる。
「どこの馬の骨だ? 警備員! この不審者どもを叩き出せ!」
だが、誰も動かなかった。
ホテルの四隅に配置された警備員たちは、後ろ手に手を組み、ただ沈黙を守っている。
まるで、この空間におけるレイの権力が、見えない巨大な手によって剥奪されたかのようだった。
レオンハートはレイの怒号など意に介さなかった。
彼は静かに、一段ずつステージの階段を上っていく。
その足音は、ダルヴィアン家にとっての終末を告げる秒読みの音に聞こえた。
レオンハートの背後に控えていた屈強な男たちが、無駄のない動きを見せる。
一人はステージ脇の音響・映像オペレーター席へと向かった。
ホテルのスタッフは抵抗することなく席を譲り、男はメインコンソールに一本のフラッシュメモリを差し込んだ。
「勘違いをされているようですね、ダルヴィアン殿」
ステージに上がったレオンハートが口を開いた。
彼は私の存在を完全に無視し、レイの正面に立った。
レオンハートはジャケットのポケットから手を出し、演台のマイクを手に取る。
「これは妨害ではありません」
彼の声がホール全体に澄み渡った。
静かだが、逃れようのない威圧感を伴っている。
「これは、危機管理における経営権の移行です」
レイが一歩前に出た。顔は怒りで赤黒く染まり、首筋に血管が浮き出ている。
「貴様、自分が何者だと思っている! これは私の婚約披露宴だぞ! 今すぐ降りろ、さもなくば不法侵入と名誉毀損で訴えてやる!」
レオンハートは薄く微笑んだ。その目は微塵も笑っていない。
「どうぞ、お好きなように。ですが、弁護士費用は明日の朝からの刑事裁判のために温存しておくことをお勧めしますよ」
レオンハートが指をパチンと鳴らした。
ジジッ
背後の巨大なLEDスクリーンが瞬いた。
先ほどまで映し出されていた、私とレイの不自然なほど修正された婚約写真が、唐突に消える。
次の瞬間、銀色の三角形をあしらったミニマルなロゴが現れた。
それに続いて、高解像度でスキャンされた膨大な法的書類が次々と表示される。
「ご列席の皆様」
レオンハートはレイに背を向け、会場の招待客たちに向かって語りかけた。
「本日午後、ヴェクター・ホールディングスは、債権銀行団よりドウィジャヤ・トレーディングの全負債を正式に買い取りました」
会場から、一斉に息を呑む音が漏れた。
ハチの巣をつついたようなざわめきが、急速に広がっていく。
「つまり」
レオンハートは一音一音を強調するように言葉を紡ぐ。
「ドウィジャヤ・トレーディングは現在、当社の資産保護下にあります。当社の承諾なく第三者が主導した合併、買収、あるいは個人的な救済措置の合意は……」
レオンハートは首を回し、レイを冷徹に見下ろした。
「……法的にすべて無効となります」
レイはよろめきながら後退した。
全身の血が引いたように顔面が蒼白になり、虚ろな目でスクリーンを見つめている。
「嘘だ……」
レイが喘ぐように呟いた。
「そんな書類、偽造に決まっている! 銀行は私に約束したんだ! 私が唯一の保証人だと!」
「『元』保証人です」
レオンハートが冷たく訂正した。
「それから、嘘についてですが……」
背後の画面が再び切り替わった。
今度は法的書類ではない。キャッシュフローのグラフと、一連の内部メールの履歴だ。
「迅速な監査の過程で、非常に興味深い異常が見つかりましてね」
レオンハートは淡々とした口調で続けた。
「ドウィジャヤ・トレーディングの資金繰り悪化は、市場の失敗によるものではなかった。特定の団体によって組織的に仕組まれた、クレジット・ブロックだったのです」
画面上で「ダルヴィアン・トレーディング」の名が赤く囲まれた。
そこから、先月父との契約を打ち切った各ベンダーへと伸びる無数の線。
スキャンダルが露呈した瞬間だった。
ボールルーム内は爆発したような騒ぎになった。
先ほどまでレイに媚を売っていた投資家や銀行家たちが、今は嫌悪と怒りに満ちた視線を彼に向けている。
この世界において、市場操作は最大の罪だ。
道徳の問題ではない。それは、レイという男が「信頼に値しない」ことを意味するからだ。
「市場操作だと? レイ、貴様!」
最前列の招待客が叫んだ。
「パートナーを罠にはめていたのか!」
別の怒声が上がる。
レイはパニックに陥った。
周囲を見渡し、出口を探し、身代わりを探す。
その血走った目が、ついに私を捉えた。
「エララ!」
レイは私の腕を乱暴に掴んだ。指が食い込み、痛みが走る。
「こいつらに言ってやれ! 私たちが愛し合っていると! これはお前の父親の会社を救うためのことだったと!」
私は、自分の青いドレスの袖を掴んでいるレイの手を見つめた。
それから、彼の顔を見た。
かつては恐ろしく、絶対的な権力を持っているように見えたその顔が、今はひどく惨めに見える。
盗みがバレた子供のような、浅ましい表情。
恐怖が消えていく。跡形もなく、霧散していく。
私は渾身の力で、レイの手を振り払った。
「離して」
冷たく言い放つ。
大きな声ではなかったが、すぐ側に立つレオンハートのマイクがその声を鮮明に拾い、会場中に響かせた。
「エララ、馬鹿な真似はよせ! 私がいなければ、お前の父親は破滅だぞ!」
レイは脅し文句を並べたが、その瞳には絶望が張り付いている。
私は一歩踏み出し、彼の顔に自分の顔を近づけた。
「父は自分の愚かさで破滅するかもしれない。でも、少なくとも彼は、ヒーローのふりをするために友人の酸素マスクを外すような真似はしないわ」
私は背後の巨大なスクリーンを指差した。
「あなたは救世主なんかじゃない。タキシードを着たただの吸血鬼よ」
レイは絶句した。
人前で恥をかかされた屈辱に、彼は手を振り上げた。私を叩こうとしたのだ。
だが、その手が空を切る前に、レオンハートの部下が一瞬で動いた。
レイの手首を空中で押さえ込み、背後へ軽くひねり上げる。レイが苦悶の声を漏らした。
「当社の保護下にある資産には、手を触れないでいただきたい」
レオンハートが無感情に告げる。
ステージの下では、さらなる混乱が起きていた。
「インディラ!」
父の悲鳴のような声が聞こえた。
私はステージの下に目をやった。
さっきまで真っ青な顔で立ち尽くしていた母が、床に崩れ落ちていた。
あまりの現実に耐えきれず、気絶したのだろう。彼女の「黄金のチケット」が目の前で燃え尽きるのを見て。
父は母の傍らに膝をつき、必死に彼女の頬を叩いている。
だが、不思議なことに、父の疲れ切った顔には、長い間失われていたものが浮かんでいた。
安堵だ。
肩に乗っていた重苦しい荷が、ようやく崩れ落ちたかのような表情。
彼は泣いていたが、それは恐怖の涙ではなかった。
私はその光景を、空虚な気持ちで見つめていた。
ドウィジャヤ家のドラマは、ようやくクライマックスを迎えたのだ。
そして私は、そのエンドロールを最後まで見届けるつもりはなかった。
最後にもう一度だけ、レイに向き直る。
私はドレスの隠しポケットに手を入れ、彼に無理やり持たされていた赤いベルベットの指輪の箱を取り出した。
「これ、返しておくわ」
私はそれを、彼の手には渡さなかった。
ただ、その場に落とした。
箱は床を転がり、レイの磨き上げられた靴の先で止まった。
「他の人形でも探しなさい。私はもう、降りるわ」
答えを待たず、私は青いドレスの裾を少し持ち上げ、ステージを降りた。
レオンハートが、私が通り過ぎる際に恭しく一礼した。
それは、私がもはやこの部屋の囚人ではないことを象徴する、小さな、しかし決定的な仕草だった。
私は招待客の群衆を割って進んだ。
もはや誰も、私を蔑むような目で見ようとはしない。
彼らは畏怖の入り混じった眼差しで、私に道を開ける。
私を解放した背後の巨大な力に、怯えているのかもしれない。
背後で、レイが必死に弁明しようと叫んでいる声が聞こえた。
だがその声は遠く、次第に小さくなり、私の足音にかき消されていく。
私はボールルームの重厚な扉を押し開けた。
ドォン
背後の喧騒が、一瞬で遮断される。
静寂。
私はホテルの冷たく静かな廊下に立っていた。
厚手のカーペットが、私の乱れた呼吸の音を吸い込んでいく。
足が震えていた。
先ほどまで私を突き動かしていたアドレナリンが引き、急激な脱力感が襲う。
だが、その脱力感の奥底で、胸の中に別の感情が芽吹いていた。
自由。
私は、本当に自由になったのだ。
借金も、強制された婚約も、レイも。もう何もない。
廊下の壁に背を預け、そっと目を閉じる。
涙がこぼれ落ちたが、今度の涙は温かかった。
けれど、この自由はあまりにも静かすぎて、少しだけ心細い。
嵐の中を飛び続けて、ようやく着陸できる場所を、錨を求めている自分がいる。
脳裏に、一つの名前が浮かんだ。一つの顔。
ディオ。
なぜヴェクター・ホールディングスが最高のタイミングで現れたのか、私にはわからない。
彼がこれらすべてとどう関わっているのかも。
ただ、今は彼に会いたい。
彼の声を聞きたい。
私は無事だと、あの男に伝えたい。
私は背筋を伸ばし、頬の涙を拭った。
もう、ブラウィジャヤの家には帰らない。あの家はもう、過去のものだ。
私はロビーに向かって早足で歩き出した。
スタッフたちの怪訝な視線を無視して。
回転ドアを抜けると、排気ガスにまみれたジャカルタの夜の空気が、驚くほど甘く感じられた。
Thank you very much for reading to the end.
As this is written in a foreign language, there may be some unnatural expressions or word choice.
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